caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第二節 《ブラフマン》唯一非顕現神構造

§8

ブラフマン》は たとえばウパニシャド哲学においては 宇宙の根本原理を それによって示すものとされている。われわれは しかし ここで必ずしも深遠なと言われるインド哲学を学ぼうというのではない。そうではなくて 《アマテラス‐スサノヲ》体系の理解の糸口を インドの神々の体系の中に求め またそこに反照される像を通して 特に 政治〔学〕の領域としての社会形態を捉えようとする。確認をしておくならば 《政治〔学〕領域》とは 《経済〔学〕領域》と《実存としての実存領域》(たとえば エートスとしての宗教・宗教としてのエートスと呼んでおいた)と それぞれ 相互に関連する仲介的な領域であった。
ブラフマン》の唯一神構造を捉える場合には まづわれわれは この政治領域を基点とする。その点 純粋社会学の一論点との関連で言うならば 一言で言って 《アマテラスとスサノヲとのあいだに展開される政治行為関係》といった基点であり そこからは 《アマテラスが とことんまで疑い 従ってその疑われたスサノヲの異心(ふたごころ)に関して その身の潔白をかけて両者がおこなったところの〈誓(うけ)ひ〉という政治行為》が その中核として取り上げられるであろう。《異心》とは 言葉の両義性の問題であり この場合 具体的には スサノヲの中に反照したアマテラスの私人性あるいは〔反体制的に言えば 収奪者としての〕資本家的市民性のことにほかならない。
また 《誓ひ》は 古事記では 両者が互いに互いの子を生むなどという神話的行為として描かれている。したがって 取りあえずいまは この《ウケヒ》の内実として われわれは 卜占のたぐいを思い浮かべればよいであろう。言いかえれば 経済実存行為と 実存としての実存行為とが ぶつかってそこに矛盾が生じるとき その矛盾に対する政治的実存行為として 究極的には《ウケヒ》があり それによると 〔たとえば 鹿の肩の骨を朱桜の皮で焼いて ヒビの入り方で 吉凶を占うというように〕 判断を 無主体的主体にゆだねるという行為形式が現われる。

  • この点について いま少し触れておくなら。これは 西欧語の言語体系の中では いわゆる無限判断に属す行為である。つまり 主語(主体)と述語(行為)のあいだに 論理的連関のない命題=判断である。しかし たとえばヘーゲルにおいても この無限判断は 一般に 主語(=意志)と述語(=モノ)との全的な不適合として解されている。すなわち 《〔モノの〕所有》という概念における一つの判断としてである。つまり その《譲渡》という行為としてである。
  • しかし 端的に言って 《ウケヒ》は 卜占という或る意味で ばかばかしい無限判断であっても その概念は 必ずしも《モノの所有》を中心にして現われるのではない。そうではなく 《人の政治的実存=共存関係》を中心として 究極的に現われる判断の手段であり行為である。たとえば 《意志が 物件から自分の中へ折れ返る自己反省》 これが 《譲渡》であるというとき これが 《無限判断》であるとされる(ヘーゲル:《法の哲学》§53)。この方程式に合わせて もし《アマテラス‐スサノヲ》体系の中の《無限判断》を規定しようと思えば それは 《意志が 実存=共存の形態(現象として 共同観念)から 自分の中へ折れ返るその契機》 これが 《ウケヒ》であるとなろう。それは 《自分の中へ折れ返る》と同時に 《自己の譲渡=疎外》をも 端的に言って 意味するであろう。このばあい 何に 誰に 譲渡するのか。誰へと疎外されるのか。それは 《アマテラス‐スサノヲ》体系そのものへである。それはとりもなおさず すでに触れていたように その背後の非顕現の唯一神・たとえば ブラフマンに である。となろう。このように考えられる。
  • いま 西欧人は 自己の譲渡は しない。嫌う。物件の譲渡=疎外のみである。(ただし 労働力は 別のようである)。なぜなら かれらは 《アルファでありオメガである神》 そして 《〈わたしは有る〉と言う》顕現の唯一神構造の中で 初めに 《アマテラス=スサノヲ》(その統合構造)であるからである。ウケヒを必要としない。言いかえれば 共存(たとえば 物件の相互譲渡)=実存(つまり 実存の非譲渡)というかたちを想定しているからである。かれらの言語体系は この個々のモノの《譲渡‐所有》行為をめぐって また それを通じて 論理的な整合性を求める。すなわち 等価交換の体系。あるいはまた ヘーゲルにならって言うならば 《悪しき無限》とそうでない無限との認識を 問題とする。

いや まだ ブラフマンについて考察する前に 先入見は控えるべきではある。ただ われわれは 上の仮説に これまで述べてきた仮説と 互いにつながるものが見出されるとするなら そのような例示的な概念を糸口として入って行ってよいであろう。
ブラフマンは ウパニシャドにおけるそれとは違って リグ・ヱ゛ーダの世界においては おおきく二つの性格を有する。つまり 一方で 端的に 神〔々〕の起源であり創造者の位格を有するものであり 他方では 現実的にひとことで言って それは 祭祀の場そのものであり また 司祭官なのである。以下 順を追って まづこのようなブラフマンの基本的な性格を捉え そのあとで ヰ゛シュヌおよびシワ゛を加えたアジア的社会構造を明らかにしていきたいと思う。

(つづく→2008-08-29 - caguirofie