caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第一節 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系

§5

《シワ゛ないしルドラ讃歌》は 次のように始められる。

       ルドラ讃歌 その一
一 マルト神群の父(ルドラ)よ なが好意は来たれ。われらが太陽を仰ぎみるを遮るなかれ。豪気〔の神〕はわれらに寛恕を垂れんことを 〔われらが〕馬上に〔あるとき〕。ルドラよ われら願わくは 子孫を生みつがんことを。
ニ なが与うる・最も効験ある医薬により ルドラよ われ願わくは 百歳〔の齢〕を全うせんことを われらより敵意を〔逐え〕 さらに遠く困厄を〔逐え〕 病患をあらゆる方向に逐え。

ここではヰ゛シュヌ の《陶酔・幻想》に対して ごく普通の生活者・市民の契機としてのシワ゛が うたわれてある。それだけである。ただし ヰ゛シュヌが第二次的形態へ進展したように シワ゛も 次第にそれに対応した動きを見せないというのではない。揚棄された《アマテラス‐スサノヲ》の体系が そこでスサノヲの独立が達成された段階(つまり 市民主権)とすれば その過渡的な段階は スサノヲに関して その反乱という動きである。そしてこのスサノヲ市民の反乱(もちろん その経済活動の発展を含めて言っている)を想起させるシワ゛の動きは 次のように描かれる。

      ルドラ讃歌 その一
八 赤褐にして白味を帯びし牡牛(ルドラ)に われら威力ある称讃を力強く送りだす。まばゆき〔神〕に頂礼もて頂礼せよ。われらはルドラの恐るべき名を讃う。
九 堅固なる手足をもち 多様の形相(ぎょうそう)を備えたる 強豪・赤褐の〔神〕は 輝く黄金をもって身を飾れり。この豊けき世界の主宰者ルドラより アスラの位は決して離るることなし。
十 ふさわしや ならが矢と弓とを担うこと ふさわしや なれが 一切の形相をもつ・尊敬すべき・黄金の装飾を〔帯ぶること〕。ふさわしや なれが一切の怪異を消滅せしむること。ルドラよ 汝より強きものは存在せず。
十一 讃えよ 台座に坐する・名高き・若き〔神〕を 猛き獣のごとく襲いかかる・強豪なる〔神〕を。称讃せられて ルドラよ 歌人に寛恕を垂れよ。なが武器は われらと異なる者を打ち倒せ。

文字通りには一見 おとぎ話のようなこれらの数句は 社会科学的視点を暗示していないとも限らない。それは シワ゛という市民〔社会〕の中から その中核としての生産行為(=《法》)およびその社会的形態が 発進されてゆくさまを描いていると飛躍して考えられなくはない。いまその点お先取りしてその輪郭を指摘してみるなら 仮りにいま《黄金うんぬん》(第九句)の件が 社会の総体的な経済成長を表わすとせよ。そうするなら 第十句の《ふさわしや なれが一切の怪異を消滅せしむること》とは 社会的形態として等価交換の形式が確立されてゆく過程を そして 第十一句の最後 《なが武器は われらと異なる者を打ち倒せ》とは 特にアジア的社会体系における資本制社会形態を示唆していないでもない。すなわち後者は 《なが〔シワ゛の〕武器》とは 当然 貨幣であるであろうし 《われらと異なる者》とは 貨幣形態もしくはそれを基にした社会的等価交通を乱す者を 指すと考えられる。それを《〔貨幣が〕打ち倒せ》と言うのである。あるいは 逆に 第八句は そのような《まばゆき神に頂礼せよ》とも言う。
これらの経過は過渡的な段階であって 現代から見れば 通り過ぎてきた道であるかも知れない。しかし この《貨幣への頂礼》は――その卑俗的な表現を離れるなら―― 現代にも通じる一過程ではある。ただし このヒンドゥーもしくはアジア的市民〔シワ゛〕社会の神的性格は 物神崇拝 Fetischismus とは違う。

  • この点に触れるなら 貨幣(貨幣物神)は むしろ西欧的社会体系において 物神 Fetisch として無意識のうちに捉えられるのに対して アジア的社会体系においては むしろ明示的に それに対して 進んで《頂礼》するかのように意識的である。アジア的社会が 無意識的(また観念的)であるのは 逆に この貨幣の流通すべき・従ってそれを介して分配されるべき目に見えない社会的水路のほうに対してである。貨幣は 実際 《リグ・ヱ゛ーダ》の世界は 後にも見るようにそれを《神》と呼んでいるが 呼んでおいて 放っておくということもありうる。その意味では 社会体系全体が 共同観念のうちにあり それが共同なる幻想領域をかたちづくる限りで そこにはじゅじゅつせいMagie の世界がある。このとき 明確に言って 《神の見えない手のみちびき》は このアジア的な観念の運河にあたるものであり 言いかえれば 意識の世界に属す個々の等価交換の過程を超えて――もしくは そこにおける貨幣物神を超えて―― なんらかの形の調和や秩序をもたらすべき社会体系の構造じたいを指して言っている。初発には 在ると信じられたこの《見えざる手》に流通・分配をいっさいゆだねること これは ただし 歴史的推移を経て 同時に 物神性の世界にも属すことが証明された。
  • つまり要約するなら 西欧的社会体系における等価交換の共同主観が 社会形態にとって本質的なものであるならば アジア的社会体系において働く等平な分配をもたらすとされる水路への共同観念も 同じく本質的なものであるように思われる。共同観念の幻想領域としての 資本の呪術性の世界と 共同主観の神的世界としての 資本の物神性の領域とは 分けて考えるべきである。

  


さて ルドラないしシワ゛讃歌は 《その一》を次のように締めくくる。

十五 かくのごとく〔われ言えり〕 赤褐にして・いちじるき・牡牛〔なる神〕よ 汝が怒ることなく 神よ 殺すことなからんがため。ルドラよ ここにわれら願わくは 勝れたる男子に富み《祭祀の場》において 奇特の言葉を宣(の)らんことを。

ここにおいて いま上に述べた点との関連で注目すべき点は 最後の一文の中の《祭祀の場》という概念である。これは 原語で  vidatha という語で表わされる。訳者の辻直四郎によれば ヰ゛ダタとは 《本来は勝利の分配 その場所(祭場)を指す》と解される。そこで これがまづ 単に 《祭祀――呪術的なまつりごと――の場》であって しかも次に 社会形態的にも すでに触れたように 経済価値(商品⇒行きつくところとして 所得)の分配にかかわる観念の水路を成すものと考えられるのである。
こう述べてくると いくらかヰ゛ジオネールの物の言い方に似てくる嫌いがあるが もし共同観念が現実ならば それに対して このように分析することも 避けるべきではない。そこで もしそうであるなら この祭祀の場にあり しかも経済価値の分配の場としてのヰ゛ダタは 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系による社会形態のもとでは 単に 社会総体的なマクロの場としての次元にのみ限られるのではなく さらに 社会を構成する単位的な分配の場 すなわち 企業もしくは個別的市場というミクロの場においても 同様に作用するものと考えられる。言いかえれば 企業内の分配としても 社会総体的な分配としても この祭祀の場を歴史的に継ぐべき《政治行為》〔としての経営政策・経済政策・また隣人どうしのつきあい・愛〕によって 規定されてある。こう仮説する。
この共同観念のほうに傾いてさらに言うならば 等価交換であるか否かといった価値判断は その商品ないし市場の機能のほうに重点が置かれるというのではなく つまり或る商品が他の商品に対して等価であるかどうかは 或る意味でどうでもよいという価値自由な広義の生産行為関係が展開されうるのであり 従って そのときには その商品が商品として この共同なる水路に正しく乗っかっているかどうか また 乗っけるべきかどうかに関してなされると言うべきなのである。
この点に関してふたたび飛躍して述べるなら 次のように考える。まづもう一度言いかえて 《勝利の獲物・ダクシナー》とは 第一に 《市民スサノヲ(それは そこに 降下し変容したアマテラスとも呼ぶべきいわゆる資本家的市民を含む)によって 創出された経済価値(従って そこに 市民にとっての剰余の経済価値を含む)》を指すものであることは言うまでもなく 従って 第二に その分配〔という経済の概念〕は この《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制のもとにおいては本来 《祭祀ないし政治〔もしくは 総体的な経済政策〕の場》において 第一義として行なわれるものであることを示唆する。従って たとえば日本においてあえて近代明治以降の資本家的市民の側を擁護するような表現を用いているすれば 総経済価値の社会的分配において この資本家階層の側へ 過度にその分配がなされたとするなら それは 初発において この社会〔ならびに 民族〕的な《祭祀=政治の場》を介して そのように政策された結果であると捉えられる。

  • 西欧においては 大づかみに言えば 初発に 市民一人ひとりによる《共同主観=たとえば 等価交換の市場》の確立 それを介しての所有(所得)の獲得が目指された。

そして その後の推移において この分配が 西欧の社会として生産行為の概念における私人性や資本家的市民による私的所有制の様相を帯びたとすれば それはまさに 本来の《アジア的社会形態》と《アジアにおける西欧的社会形成》とが 互いに渾然一体となったという情況を示す。アジア的社会形態が そのままそこにおいて 西欧的社会形成〔の力〕〔すなわち 《社会主体・政治主体=社会学主体・政治学主体》という個体的もしくは私個人的な生産力を基にした社会的生産様式〕に その場所を全面的に譲ったかどうか あるいは いづれ譲るであろうかどうかは 一概に判断・規定することはできないであろう。少なくとも 次のように言うことが 多少ましな現実的議論と考えられる。
いわゆる《アジア的生産様式》は その後 歴史的に順次に 《古代的 封建的 および 近代ブルジョア的生産様式》へと そのまま直線的に発展するものではなく それは 広く西欧的な《政治(愛)‐経済(知解)‐実存(記憶)》なる行為形式の社会形態的なそのような段階的経過とは別に 独自なかたちで 広くアジア的な行為形式・社会形態のもとにあって その中で類型的に上と同じようなその経過を推移すると考えられると。
いづれにしても 資本制社会形態への進展・転化と見られるべき《ルドラ讃歌》の叙述は さrない次のように経緯する。すなわち すでに見たそれ自身の変容をうたった《ヰ゛シュヌ讃歌・その二》に対応するかのごとく やはり ルドラ=シワ゛の第二次的発進として そこでは――前もって指摘するなら―― 《資本》という資本家的市民社会の主要な契機は――それが 第一次的段階では 《頂礼すべき対象としてのまばゆき神》と規定されていたのを承けて―― 〔ブラフマン・ヰ゛シュヌ・シワ゛に継いであたかも第四の神とも言うべき〕《自律の神》として規定される。自律というのは 資本家的市民の生活および経済の行動形式である。すなわち

         ルドラ讃歌 その二
一 これらの讃辞を 固く弓を引き絞り 速(と)き矢を番(つが)うるルドラ 《自律の神》にもたらせ。〔他により〕克服せられず・〔みづから〕克服する指導者 鋭き武器もつ〔神に〕。かれはわれらの〔言葉〕を聞け。
二 かれは実に 〔その〕在位によりて地上の生類を 最高の主権によりて天界の〔神〕族を見守る。恩恵を与えつつ 恩恵を与うるわれらの家に近づけ。われらの子女のために 病患を伴なわざる者たれ ルドラよ。
三 天界より投下せられて 地界を回(めぐ)りゆく 汝の火箭 そはわれらを容赦せよ。汝は千の医薬を有す いみじく息吸う〔神〕よ。われらを毀(こぼ)つことなかれ。〔われらの〕子孫において 後裔において。
四 われらを殺すことなかれ ルドラよ 委棄することなかれ。怒れる汝の投縄にわれら〔捕らわるること〕なかれ。われらをバルヒス(祭場の敷草)に 生存者の発言に与らしめよ。――汝ら神々は常に祝福もてわれらを守れ。

従って この《その二》は 重ねて言えば 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制において その中で 必然的に 《シワ゛→スサノヲ・市民》が 反乱を起こし おのおのの独立を達成するといった第二次的段階を示していると考えてよい。資本家的市民のばあいは 言うまでもなく 封建制の中から 独立を勝ち得るようになる。
そこで 第一句は その段階の社会的構造を――つまり 西欧語で言う《資本制市民社会》を―― 端的に表わすその原点である。すなわち 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制は その中で 《シワ゛》が相対的に独立を成し 従ってそこで《ヰ゛シュヌ→アマテラス・公民》が揚棄されて そこにその両者のあいだに 新たな別の神が生まれると。それは 《他により克服せられず みづから克服する指導者 鋭き武器もつ自律の神》と宣せられる。《時は金なり》と言うB.フランクリンのようである。もしくは その自律の神は 第四ではなく 《ルドラないしシワ゛の変容》として 現われた。
ただしその反面で いま一つ重要なことは そこで リグ・ヱ゛ーダの詩人は さらに《かれ(自律の神)はわれらの言葉を聞け》と述べて 依然としてここでは 基本的に この第三の(ないし第四の)神をその内に容れたかっこうでの やはり《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制の中にあることを宣言している点である。もしくは 広くアジア的社会体系の中にあると宣言している。
以上が 取りあえず《アジア的資本制社会》の 神的世界から捉えた一つの原点である。
なお 《ルドラ讃歌 その二》は この四句が そのすべてである。そして 後に見るように この句々のうたう資本制的第二次の《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制は さらに ルドラの末裔としての《マルト神群讃歌》において その後の展開が見られる。いま この言わば第三次的形態に移る前に 整理しておこう。

(つづく→2008-08-27 - caguirofie