caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その一 《シワ゛》の歴史的展開
§12

ここでは 最初に 《自律の神=シワ゛》についその後の展開を捉えよう。
 まづそれをうたう詩句は 《マルト神群讃歌》の《その三》に見出される。つまり それは はじめ《その一・その二》において マルト神群が《若きルドラ神群として 山のごとく成長し 人間を擁護するにあたっては 熱望に値する思慮を保有する者を繁栄せしめる》といった《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制の第二次形態を採ったあとの段階である。また 詩人が この第二次形態を たとえば《今 マルト神群よ 強固にして・勝れたる男子に富み・攻撃に堪ゆる富をわれらに授けよ 百層・千層なし 膨張したる〔財宝を〕。――願わくは 朝(あした) 速かに 詩想(詩的霊感)により財宝をもたらす者の到着せんことを》と締めくくったあとの段階である。それでは その詩句をまづ掲げよう。

     マルト神群讃歌 その三
一 ルドラ神群(マルト神群)よ インドラと共に 心を一にして 黄金の車に乗り 〔われらが〕幸福のために来たれ。われらより〔発する〕このわれらが詩想は 〔汝らにより〕快く迎えらる 天界の泉が渇きて水を求むる者におけるごとく。
二 汝らかは斧を携え・槍を携え・霊感に満ち よき弓を持ち・矢を持ち・箙(えびら)を持ち よき馬を有し・よき車を有す プリシュニを母とする者たち(マルト神群)よ よき武器を有する汝らは行く マルト神群よ 美観を呈せんがために。

ここでは まづ 未来社会が――つまり《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体制の第三次形態とも言うべき未来社会が―― あくまで 空想=啓示的に うたわれてゆく。その全体の基調としては 《自律の神》なる資本が われわれ人間の手からは離れたところでまさに自律して運動を展開するその過程において その神に呼びかけて われわれを総体的に潤せと述べる。これは単なる希望に過ぎない。が しかし この希望もしくは祈祷は 社会体系として見た場合は――後に イエスマルクスの系譜と比較する上で―― 重要な意味を持つとも考えられる。また 第一句における《心を一つにして》なる語句は ちょうどこの同じ語句をめぐるその文脈の アジア・西欧の比較の上で 枢要な契機を含んでいると考えられる。あらかじめこのように見とおしておく。

§13

そこで 以上の点を 追い追い考察していこうとするのであるが ここで その前に今度は 他方 黙示録‐マルクスの系譜を ひととおり捉えることにしたい。
ここでは 先に結論するかたち もしくは 要点を整理するかたちを採って 簡潔に述べたいと思うが まづ 一方のアジア的社会形態においては われわれが今日《資本》として認識するところの社会的契機は 《他により克服せられず・みづから克服する指導者》つまり 《シワ゛(スサノヲ)的市民社会》に内在する《自律の神》と呼ばれたのであるに対して 他方 西欧的社会形成態もしくはイエスないしマルクスの系譜においては ひとつには 《黙示録》を介して 次のように捉えられると言われる。
すなわち 《ヨハネ黙示録》には 絶対唯一の顕現神がまづあり それに対する者として まづ 一人の女=大淫婦=大いなる都が出現する。そして この女をめぐって 龍(サタン)および獣(七つの頭および十本の角を持つ)が現われる。そこで この黙示が 次のように マルクスを通して 解されるとするのが すでに触れたように平田清明の立ち場である。
平田によれば ここで《大淫婦》は バビロンの都であり 後に ローマ帝国であったりすると解されるものであり 《龍‐獣〔獣の頭および角〕》という《反・唯一顕現神体制》は それぞれ《商品‐貨幣〔‐諸共同体の王(商品所持者としての)〕》というまさに全体として《資本》なる社会的形態じたいというものである。いま その箇所を引用する。

  まことに貨幣は 地上の神にほかならない。しかし いったいなぜに どうして 金が貨幣になるのか。貨幣発生の根拠とその形態的特質は 何であるのか。

   マルクスが ここから深くまなんだところの かの古典経済学は これについて何もおしえなかった。貨幣の諸規定の間の関連をまさぐるマルクスの理論的苦闘に真理の微光をさしかけたものは 何であったか。《ヨハネ黙示録》がそれであった。

   かれらは心を一つにして おのが力と権威を獣にあたえる。この印をもつもの あるいは獣の名をもつものを除いては 買うことも売ることも誰もできないようにした。その印は その獣の名 またはその名の数字である。
 (ヨハネ黙示録17:13および13:17以下。――マルクスによるこの句の引用は 《資本》第一巻第一編第二章 交換過程 に見られる)

   ここに《かれら》とは 直接には 諸共同体の《王》 すなわち諸共同体にあっての最初の私的所有者であり その含意の一般性においては 商品所持者一般である。・・・かれ〔商品所持者〕が商品所持者でありつづけようとするとき つまり 商品の譲渡と領有という対立的行為をおこなっているとき そのときまさにかれらは《心を一つにして》しまうのである。そして 商品所持者としての《力と権威》とを ある物(* 貨幣)に 誰もが共通に――しかも共同の力で――あたえてしまうのである。・・・
(平田清明:《市民社会社会主義》その五 pp.213−214)

ここは 《貨幣発生の根拠》を焦点として書かれた箇所である。しかし その意味で 資本の一つの初源的な構造はもちろんのこと 全体として イエスないしマルクスに到る西欧の《唯一権限神》体制の系譜を 暗示しているものである。先に §12で触れていたリグ・ヱ゛ーダに見られた《心を一つにして》なる同一の語句をめぐってのその背景については あとに譲って明らかにしていきたいと思うが ここでは さらに この暗示された西欧の系譜の固有の方向などについて まづ捉えていきたい。
それには 以上のヨハネの《黙示》じたいについて いま少し詳しく述べておく必要がある。

(つづく→2008-09-03 - caguirofie