caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その一 《シワ゛》の歴史的展開
§14

さて 以下は《黙示録》の純粋政治学による理解である。
 まづ この《黙示》は 聖書の世界における限りでの《世界》の弁証法的展開をさまざまに語っていると思われる。ここで 弁証法的展開とは 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐しわ゛》体系の自己展開といった意味と それほど変わらない。のであるが ただ 聖書の世界では 神による裁きもしくは救いが 重要な契機ともなっているので その意味と われわれの価値自由的なアジア的形態とは 区別すべきだと考えるからである。

  • もっとも この限りで言うところの弁証法的展開も 自己展開も まだ 観念の世界を抜け出てはいないのであるが。従って

言いかえれば そこでは 《天に設けられた御座(みざ)の前に立つ・ほふられたとみえる小羊(キリスト・イエス)》によって繰り広げられる神の(つまり 神という価値を通しての)弁証法が語られていると捉えられ得る。すなわち重ねて述べるなら すでに見た《反・唯一顕現神》としての 女(淫婦)・龍・獣・獣の頭および角らは この《小羊》との何らかの関係また戦いの過程において 存在し その結果 すべてが揚げて棄てられるという言わば一つの《価値》論であることにほかならない。その弁証法的展開にほかならない。
なお 断っておくなら いまこのようにして捉えようとすることは この系譜に対して 傍観者の態度を採るということではない。われわれの《価値論=価値自由論》と通底すべき地盤を求めてのことである。もしくは 西欧の系譜の価値論に立って 価値自由論を主導しようと求めてのことである。
以上の前提に立って たとえば その一段階としての弁証法過程は 次のように描かれるのである。すなわち §13に引用した黙示録17:13の句は 次のような文脈において語られる。

  それから・・・御使いのひとりが来て わたし(記者ヨハネ)に語って言った。
   ――さあ 来なさい。多くの《水》の上にすわっている《大淫婦》に対するさばきを 見せよう。
    《地の王》たちはこの女と姦淫のぶどう酒に酔いしれている。
 ・・・わたしは そこでひとりの女が赤い《獣》に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの
名でおおわれ また それに《七つの頭と十の角》とがあった。この女は紫と赤の衣をまとい その額には 一つの名がしるされていた。それは 奥義であって 《大いなるバビロン 淫婦どもと地の憎むべきものらとの母》というのであった。・・・
  この女を見た時 わたしは非常に驚きあやしんだ。すると 御使いはわたしに言った。
   ――なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と 女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義と
    を話してあげよう。あなたの見た《獣》は 昔はいたが今はおらず そして やがて底知れぬ所
    から上がってきて ついには滅びに至るものである。・・・《七つの頭》は この《女》のすわ
    っている七つの山であり また七人の王のことである。・・・あなたの見た《十の角》は十人の
    王のことであって かれらはまだ国を受けてはいないが 《獣》と共に一時(ひととき)だけ王
    としての権威を受ける。かれらは 心を一つにしている。そして 自分たちの力と権威とを
    《獣》に与える。かれらは小羊に戦いをいどんでくるが 小羊は 主の主 王の王であるから     かれらに打ち勝つ。また 小羊と共にいる召された 選ばれた 忠実な者たちも勝利を得る。
  御使いはまた わたしに言った。
   ――あなたの見た《水》すなわち 淫婦のすわっていた所は あらゆる民族 群衆 国民 国語で    ある。あなたの見た十の角と獣とは この淫婦を憎み みじめな者にし 裸にし かのじょの肉
    を食い 火で焼き尽くすであろう。神は 御言(ロゴス)が成就する時まで かれらの心の中に    御旨を行ない 思いをひとつにし かれらの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからで
    ある。あなたの見たかの女(おんな)は 地の王たちを支配する大いなる都のことである。
 (ヨハネ黙示録 17)

さて この《大いなる都バビロン》の崩壊を経て 神の弁証法過程とも呼ぶべきは もちろん さらに続くのであるが ここでひとまづ先に見た《大淫婦》および《龍‐獣‐その頭と角》らが構成すると思われるその独自の社会形態(そのような一過程)を捉えておくのがよいだろう。
そこで ふたたび まづ 平田清明によれば こうだと言う。

  バビロンの都とは なんでしょうか。それは 《多くの水の上に坐っており》 《七つの山の上にある》淫乱の都ローマのことです。それじたいが一個の共同体から生まれながら その共同体=国家的所有の内包する私的所有の発展のために 地中海的世界帝国となったローマのことです。・・・そして ここに《獣》とは 一般に貨幣のことであり・・・この獣は 人類の敵サタンの黙示的表現である一匹の《龍》から 地上支配の力と権威とを与えられたものであります。・・・また 十八の共同体=国家の王は この貨幣=獣におのれの共同体を売り渡し 共同体の人間と自然を貨幣関係に投げこんだ共同体首長である と考えられます。これらの王を人格的表現とする貨幣 すなわち獣は その本性上 あらゆる者に身をゆだね そこに 貨幣関係としての世界関係を作りあげます。そこに成立する貨幣関係としての世界関係こそ 《大淫婦》なのであります。この貨幣関係が 人間の特殊歴史的な社会関係であり 人間と自然の双方を汚すところの交通関係であること 言うまでもないでしょう。黙示録は この意味での貨幣関係を《姦淫》と黙示します。・・・
(平田清明市民社会社会主義 六 キリスト教マルクス主義 pp.276−277)

解読は このように進められていく。
もっとも キリスト・イエスは 《神のものは神へ カエサル(=地の王)のものはカエサルへ》と述べたのであって この《貨幣関係》を決して 全面的なかたちで 非人間的=非社会的な(サタンに属するところの)形態であると断罪するようなことは していない。ただ もし イエスののち あとに見るように バビロンもしくはローマ(?)崩壊後の《千年王国》の終わったあと(?)にであるかのように 《資本》制社会形態が現われたと仮りにするならば――その資本制をマルクスは批判したわけだから―― 《黙示録》の記述は 社会形態として翻訳するなら そのいくらかの社会的契機を(つまり 資本の諸契機を) ひとつの見方として 黙示していないと言えない。言いかえれば すでに指摘したように 《唯一顕現神》構造という一つの価値体系にのっとるならば 一般に社会は 構造・形態的に 上のような捉え方が 明らかに為され得ると思われても来る。
アジア的社会においては そこに 同じ《資本》を前にしながら 大淫婦・龍・獣・そしてたとえば姦淫とも言うべきといった貨幣関係を見るよりは むしろ 資本を(つまり それにまつわる社会形態の種々のかたちの流れを) 基本的に総じて《自律の神》として捉え またそれを 社会的または政治的かつ経済的な意味でその主体にとっての《祈祷》の対象の一つに数えているのであったことは 微妙な差異を生んでいるであろう。いや むしろ 今日のアジア的社会の問題は 《資本》は《資本》として そのような《自律の神》と見なされると同時に 他面では 世界市場を舞台として 大いなる都と姦淫を為し 龍なる神からその力も権威も 惜しみなく与えられた獣=《貨幣物神》でもあるといった多重錯綜構造にあるのではないか。
ちなみに この貨幣物神を ユダヤ教(のその一面)であるとするなら 西欧の系譜においては このユダヤ教と 先ほどの貨幣関係を社会的に揚棄する意味でのイエスによるキリスト教との錯綜関係という図式が 見出される。この錯綜を解くところに 宗教としてのキリスト教じたいの揚棄もあると考えれられているであろう。それに対して アジア的情況においては やはりこのユダヤ教と(――もしくは その対偶とも言うべき中華思想 つまり その伝統としての《銅臭》を嫌うといった意味での逆説的な貨幣物神の礼拝などを含む中華思想と――) 半永久的な《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系との包摂・被包摂の関係構造が浮かび上がる。つまり こちらの体系では §12の冒頭でも見たように 《自律の神》の社会的揚棄が 救いとか裁きとかに関係なく しかも常に 希求されているそれである。それは あたかも アジア的社会形態は 弁証法的系譜を知ることによって 言わば一つの凹凸鏡に自分の姿を映すかのようにして そうしておのれを捉え返すといったかたちではないだろうか。
さて われわれは もはや黙示録におけるバビロン崩壊後の過程については ここでは 保留しよう。たとえば《千年王国》つまりそこでは 獣たちも滅びたあとのこととして 龍はつながれてある情況のことは 保留しよう。千年王国が過ぎると 解放されるが ふたたびこの龍が 戦いを挑んで これも滅ぼされる。そして 《最後の審判》など これらは 保留しよう。
次には この§14で述べた点を マルクス自身の言葉にあたって 若干補足しておくべきであろう。その後 リグ・ヱ゛ーダに戻ることにしよう。
(つづく→2008-09-04 - caguirofie