caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第三節 《ブラフマン / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の歴史的展開

  ――《ヨハネ黙示録》と《リグ・ヱ゛ーダ讃歌〔の黙示〕》――

第三節・その一 《シワ゛》の歴史的展開
§15

すでにわれわれは 西欧の《唯一絶対の顕現神》構造を イエスマルクスの系譜において捉えていたのであるが それは 一言で言って かれらが その社会的な揚棄の対象としたその対象の系譜として 取りも直さず ユダヤ教‐始原キリスト教プロテスタンティズム‐資本制社会という歴史的系譜を持つことにおいて まづそう捉えたということであった。従って言いかえれば マルクスが 黙示録に見られた《龍‐獣‐その頭および角》の社会的契機を いま上に述べた歴史的系統そのものの中に生まれるものだと見たことを意味する。それを明かすマルクスの文章は たとえば《資本論》の中の次の箇所ではある。

  商品形態の神秘に充ちたものは 単純に次のことの中にあるのである すなわち 商品形態は 人間にたいしてかれら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として これらの物の社会的自然属性として 反映するということ したがってまた 総労働にたいする生産者の社会的関係をも かれらのほかに存する対象の社会的関係として 反映するということである。・・・〔* この反映関係を理解する糸口としての〕類似性を見出すためには われわれは宗教的世界の夢幻境にのがれ〔て求め〕なければならない。
   ここでは人間の頭脳の諸生産物が 〔* たとえば 神学において 神と子と聖霊との三位一体という唯一顕現神として〕それ自身の生命を与えられて 相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても 人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は これを物神礼拝と名づける。それは 労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに 労働生産物に付着するのであって したがって 商品生産から分離しえないものである。
マルクス資本論 第一巻第一編第一章第四節 商品の物神的性格とその秘密)

ここで注意すべきことは マルクスは かれ地震 イエスマルクスの系譜としての《唯一顕現神》体制の中にあるということである。すなわち ただしこのことは 《神などという無主体的主体が それ自身の世界として また われわれ人間との関係で 独立した姿に見えるという宗教的世界の夢幻境》をつねに 揚棄するものでなければならない。つまり 反ないし非・キリスト教キリスト教の系譜のものであること このことを 一方で 語っていることは言うまでもなく 他方では《全くの無神論的情況を呈する資本制社会=商品生産社会において そこに 神という無主体的主体の独立して現われる契機がないかと言えば そうではなく そこでは あたかも 商品が龍であるかのごとく 貨幣が獣であるかのごとく振る舞うことにおいて まとめて 資本が独立した無主体的主体として機能しているのであり それは 人間の頭脳の生産物というよりは 人間の手の生産物であることから 物神である》ということを語るものであることも やはり 言うまでもない。従って いま述べたこの認識は 既存のものなのである。問題は ここから マルクスがかれとしては イエスマルクスの系譜において あるいはもっと露骨に言うならば 《黙示録》の弁証法的過程に基づいて 当然 この物神性の支配する社会形成態を揚棄しようとするのであるが そのとき〔問題は〕 その揚棄をめぐっての行為の性格に関してである。
揚棄の過程としてその系譜を継ぐということは まづ 科学的にでなければならない。ただ 反面で この系譜を 非キリスト教として継ぐ および 科学的に継ぐと言っても それは それでも一つの大きな価値体系から見て 自由でありうるかどうかは また別の議論に属すであろう。問題は この点にある。
この価値論の継承に関しては わたしには次のように思われる。一言で言って これ以後は ひるがえって言いかえれば 《黙示録》のこの段階からは(――つまり バビロン崩壊の前あたりの記述に相当する段階からは――) マルクスは 必ずしも 先にわれわれが前提した《イエスマルクス》の系譜を継がないかのようである。それは まさに ヘーゲルらが貶しめたところのものをマルクス自身が再度注目しその弁証法的意義を評価したとされる概念 つまり エピクロス(前341〜270)の《方向の偏り(曲線運動) πρεγκλισισ》が あたかもここでマルクス自身に現われたかのような位相を呈するのである。この点に関しては いまさらに論じることにしよう。
まづ その前に 先ほどは保留しておいたところの バビロン崩壊前後の黙示録じたいの記述を 確認しておこう。
第一に その崩壊は 次のように起こる。まづ 《心を一つにして 自分たちの力と権威とを獣に与えた十人の地の王たち》が 《小羊に戦いをいどむ》ところから始まる。ただちに結果を述べるなら それは 少しすでに触れてもいたが 《小羊が かれらに打ち勝ち また小羊と共にいる者たちも 勝利を得る》のであった。また そこで 敗北を喫した《十の角と獣とは 〔それまでかれらと
姦淫の関係にあった〕この淫婦を憎み みじめな者にし 裸にし かのじょの肉を食い 火で焼きつくす》のであった。
そこで ちなみに 黙示録は 次に その崩壊が 神の正当な裁きによるものであることを告げ その後次のようにも描く。

   かのじょと姦淫を行ない せいたくをほしいままにしていた地の王たちは かのじょが焼かれる火の煙を見てかのじょのために胸を打って泣き悲しみ かのじょの苦しみに恐れをいだき 遠くに立って言うであろう。
   ――ああ わざわいだ 大いなる都 不落の都 バビロンは わざわいだ。おまえに対する裁き
    は 一瞬にしてきた。
  また 地の商人たちもかのじょのために泣き悲しむ。・・・
ヨハネ黙示録 18:9ff)

つまり ここでの地の王たちと 先ほどのかれら自身との間の 心理的変化は どのように理解すべきであろうか。こう問うてみたい気にもなるが それについては 必ずしも問わない。
次に 〔御座にいます神によって〕《小羊の婚姻の時》が来たことが 宣せられる。
   

   それから 御使いはわたし(=記者ヨハネ)に言った。
     ――書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は さいわいである。
  (黙示録19:9)

 そこで この小羊の軍勢と 獣と地の王たちの軍勢との戦いが ついに始まる。《天の軍勢》は 《〈神の言葉〉と呼ばれる衣をまとい 白い馬に乗ったかた》に従った。《その口からは 諸国民を打つために 鋭いつるぎが出ていた。かれは 鉄のつえをもって諸国民を治め また 全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。・・・》(黙示録19:11ff)。
なお その結果は 《獣は捕らえられ また この獣の前でしるしを行なって 獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も 獣と共に捕らえられた。・・・》(黙示録19:19ff)のであり さらに 《ひとりの御使いは サタンである龍を 捕らえて千年の間つなぎおき そして 底知れぬ所に投げ込み 入口を閉じてその上に封印し 千年の期間が終わるまで 諸国民を惑わすことがないようにしておいた》(20:2ff)のである。そこで 千年王国 millenium が始まる。・・・なお ひとつの興味深いことに 《鉄のつえを持って諸国民を治める白い馬に乗ったかた》は はじめに 《女=大淫婦》の子なのであり 生まれたとき 《御座のところに引き上げられた》(12:1ff)その人であるとされている。つまり 《小羊》は 大いなる都の中から生まれたとされている。
以上が バビロン崩壊後 千年王国の開始までの要点である。ここからは わたしには むしろ単純に言って すでに 社会階級闘争の過程が 黙示されていると了解される。もっともそれが 単なる観念的な図式であることも 否定できない。ただ ここで重要なことは すでに触れていたマルクスの見解のその後の《方向の偏り》に関連してであるが かれは この黙示録の観念的な社会階級闘争の図式にはよらないかのように思えることである。この点は 一般の理解と違うのであるが 事を 近代資本制社会以降に限るから マルクスは 何度も言うようにかれ自身の《方向の偏り》として そうではなく たとえば次のような弁証法的過程を見出す。

    資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は したがって 資本主義的私有は 自己の労働に基づく個体的な私有の第一の否定である。しかし 資本主義的生産は 一種の自然過程の必然性をもって それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は 私有を再興するのではないが しかしたしかに資本主義時代の成果を基礎とする すなわち 協業と 土地および労働そのものによって生産された生産手段の共同占有とを基礎とする 個体的所有を再建する。
言うまでもなく 個人の自己労働にもとづく分散的私有の資本主義的私有への転化は 事実上すでに社会的生産経営に立脚する 資本主義的所有の社会的所有への転化に比すれば 比較にならないほど長く 過酷で 困難な過程である。前のばあいには 少数の簒奪者による民衆の収奪が行なわれたのであるが 後のばあいには 民主うによる少数の簒奪者の収奪が行なわれるのである。
(《資本論》1・24・7 資本主義的蓄積の歴史的傾向)

もっとも ここに見られるように 《方向の偏り》といっても それは 微妙である。なぜなら 黙示録の黙示する階級闘争もしくは 《個体=社会》的所有への転化のいわゆる革命を ここで 必ずしも否定してもいないからである。――いづれにしても 取りあえず おおきな意味での《イエスマルクス》の系譜としては 次の点が導かれたとして 要約してよいと思われる。
すなわち 第一に 黙示録について そこからわれわれは 上に《小羊と小羊と共に在る者》が 最終的に勝利を得るまで 細々(こまごま)と要約してみたのであったが ここで マルクスにおいては まづ その細かい経緯は棄てられたと言ってよい。棄てられたこと自体が 重要である。マルクスにおいて第二には あらためて言うまでもないが 黙示の《龍・獣・その頭および角》が解読され明示的となった。第三には――すでにわれわれは指摘していた(§8)のではあるが―― このマルクス
解明によれば 社会形態としては あくまで それが《〔生産物の〕所有》をめぐって 形成され展開されるものであるということ。この点は アジア的形態との比較の上で重要であろう。ただしその反面で それが《否定の否定 収奪者の収奪 資本家性の終焉》というかたちで展開される点では あとに見るように・また すでに一部触れていた(§10)ように 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系の――第二次から第三次への――展開とも軌を一にすると見られると思われる。
第四に ただし そこにおける歴史主体を考えるときには この《イエスマルクス》の系譜においては たとえば《小羊の勢力が 獣や龍や さらに 獣の頭や角(地の王たち)をも 捕らえて滅ぼす》=《民衆による少数の簒奪者の収奪》という図式が 有効である限りにおいて それは 《政治主体=政治学主体》ないし《スサノヲ=アマテラス》構造という唯一顕現神体系としての歴史主体を想定していると思われる点である。つまりたとえば《プロレタリア》といういわゆる類としての実存主体である。

  • これに対して この同じ《イエス》の系譜にある一思想家アウグスティヌス(354〜430)の立ち場に触れるなら それは かれが 《世界は 神の国と地上の国とから成り 両者は その国境が見分けのつかないほど入り組んでおり 互いに〈生産行為なる世界〉として相即的である》といった意味のことを言うとき この――いま わたしが 大幅に世俗的に解釈した場合としての――《政治主体(地上の国)=政治学主体(神の国)》なる範式を 一面でやはり描きながら 他面では その歴史主体の《世界‐内‐実存》としては 有限性もしくは有限なる自律(自治)性をも 看過していなかったと考えられることである。つまり言うなれば 類的存在としての《プロレタリア》的実存への有限性を 間接的に 明示しなかったわけではないと思われることである。(cf.
    アウグスティヌス神学における歴史と社会

    アウグスティヌス神学における歴史と社会

    )

上の要約に対して いま少しアジア的形態について触れれば そこに想定される歴史主体は 《自律の神シワ゛》が 圧倒的な位置を占める社会的形態の中にあっても 基本的には 《シワ゛‐ヰ゛シュヌ / ブラフマン》体系 もしくは 《スサノヲ‐アマテラス / ウケヒないし祈祷》体系としての歴史主体である。言いかえれば そこでは意味合いの違いはあるが やはり それは 《神の国(ここでは 政治学主体ヰ゛シュヌ)と地上の国(ここでは 市民シワ゛)とが見分けのつかないかたちで 両者渾然一体となった世界》であり しかしながら 他方で 《プロレタリア》主体概念の有限性は 《シワ゛の自律〔の神〕》の有限性において見るというよりも 《シワ゛‐ヰ゛シュヌ》連関じたいが ブラフマン非顕現性の顕現形態として 有限性(ないし世界性)を持つというふうに把握されるからである。
この点から帰結される重要事項は 二つである。アジア的社会形態においては 《資本〔の所有形式・様式〕》の自律性を捉えているようでいて それは ひとつの社会的契機としてのシワ゛(スサノヲ)の自律性であって 社会体系じたいの自律性(有限性をもったそら つまり ビルトインスタビライザー)は あくまで 《ヰ゛シュヌ(アマテラス)‐シワ゛(スサノヲ)》連関のほうに存するということ これが 第一点である。〔行政府=政治学主体(ヰ゛シュヌ)の経済〔学〕主体性(シワ゛)を強調したJ.M.ケインズの主張は むしろ この流れの中にあると捉えられる。〕
従って 第二点は この第一点からも導かれることとして 社会体系(社会形態)は 究極的には 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》連立体制 もしくは 《 Amaterasu - Susanowo 》連関体系というものが むしろ広義の準拠枠として そこに見いだされざるを得ないといった点である。
なお 上に《イエスマルクス》の系譜として指摘した第三点 つまり 西欧的社会形成態が 《所有》を一つの社会関係の軸として展開されるという性格は さらに後にアジア的社会形態の内在的分析を成す上で 敷衍して考察していきたいと願う点である。以上は 前段(§14)への補足を成す部分である。
(つづく→2008-09-05 - caguirofie