caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

第一章 《アマテラス‐スサノヲ》体系――その神話的・黙示的世界をとおして――

第一節 《ヰ゛シュヌ‐シワ゛》体系

§4

まづヰ゛シュヌについて。
 差kにすでにそれを 《無常的実存神》と規定していたのが それは 次の引用句からも分かるように まづ 社会形態ないし共同体もしくは国家の一要因としての《共同観念》ないしは共同なる幻想の領域を 象徴すると考えられる。

      ヰ゛シュヌ讃歌 その一
三 〔わが〕鼓舞の讃歌はヰ゛シュヌにとどけ 山に住み濶歩する・牡牛〔なす神〕に 遠く延び拡がるこの世界を 独りただ三歩もて測りし〔神〕に。
四 かれの三歩は密かに満ち 尽くることなく 自己の本性に従って陶酔す。かれは独りして三界を支えたり 天をも地をも 一切万物をも。
五 われ願わくは かれのこのいとしき領土に達せんことを 神を崇むる者たちの陶酔するところに。そこにこそ濶歩の〔神〕の親縁(関連)はあれ。ヰ゛シュヌの最高歩(最高天)には密の泉あり。
(《リグ・ヱ゛ーダ》辻直四郎訳。以下同様)

といったようにである。この《陶酔》は 共同体もしくは社会形態的な観念の共同なる水路にまで発展するというのが ここでのヰ゛シュヌに関する第一の仮説である。

  • 《水路》というのは たとえば 学閥・閨閥などの人脈を思えば 話が早い。ただし そういう経路とは別に 人びとの間に 目に見えない信頼関係や同僚関係あるいは 反発・敵対の関係 さらにあるいは 上下および支配の関係が 二人という単位体において 形作られており これは 運河のごとく 築かれており 人びとは この観念の水路をとおって 社会行為をおこなうという寸法である。

ただしこの規定は 社会形態として ヰ゛シュヌの《その一〔として編まれたもの〕》であるに過ぎない。つまり その萌芽のような形態であるに過ぎない。このような基本的性格 つまりその限界性もしくは逆に 発展性が ないわけではない。なぜなら――前もって述べておれば―― 第一に そもそもヰ゛シュヌは 初源の神ブラフマンの顕現したところの一柱の神格にすぎないとされるのであり 第二に ヰ゛シュヌに対しては むしろそれに対抗的な勢力としてのシワ゛が 同じく顕現神として存在しており ヰ゛シュヌは このシワ゛(ルドラまたは さらにその後身としてのマルト)と 互いに 本質的にかかわり合う中でこそ存在するとされるからである。
そこで いま上に上げた《その一》の規定を ヰ゛シュヌの第一次〔的社会形態〕性とするなら その第二次の〔しかしそれも 同じく 基本的な〕形態は 次の《その二》の讃歌によく示されるのを見る。なお 《リグ・ヱ゛ーダ》は すべて 啓示を得た詩人の神々への讃歌というかたちで うたわれている。

        ヰ゛シュヌ讃歌 そのニ
一 実(げ)に利得を欲する人間〔* これは 市民スサノヲにつながる〕は 〔その〕分け前に与かる もしかれが濶歩の〔神〕ヰ゛シュヌに 〔供物もて〕奉仕するならば もし心を集中して 〔かれに〕祭祀を奉じるならば 〔また〕もしかくのごとき雄々しき〔神〕をかち得んと欲するならば。
ニ 汝が ヰ゛シュヌよ 全ての人間に及ぶ好意を 怠りなき心ばせを 与えんことを
 速に歩む〔神〕よ 多くの安寧をもちて 馬よりなり・多くの黄金よりなる富をもちて われらを満たさんがために。
三 この神は三度 百の讃歌(または光線)を有する大地を 〔その〕偉大によりて跨ぎ越えたり。ヰ゛シュヌは先頭にあれ 強力なる者よりさらに強力なるかれは。何となれば この強豪(ヰ゛シュヌ)の名(本性)は恐るべきものなれば。

  • * あたかも レヰ゛アタンを想え。したがって 統治者アマテラスを。

四 このヰ゛シュヌは この大地を跨ぎ越えたり 〔人間の〕領土となさんがため 人間を満足せしめつつ。かれの人民は 微力の者〔すら〕 安固たり。よき出生をもたらすかれは 広き住所を作れり。
・・・

ここでうたわれるヰ゛シュヌの役割は すでに見た《その一》の第一次形態が 社会から見て言わば神的な垂直の世界としてあったとするなら それが 総じて いくらか平面的に規定されるのを見る。しかし全体として 共同観念の象徴の役割を担って やはり あり そこに アマテラスと重なるもののあることを見ても 牽強付会というわけでもないであろう。――もとより このような・たとえば《リグ・ヱ゛ーダ》という所謂る文学的ないし宗教的な文献が 社会科学的な議論に耐えるものか 疑問視されるべきである。ただ いまは少なくとも 社会における共同観念の世界を扱うという大前提に立って 捉えていこうというものである。従って 《リグ・ヱ゛ーダ》においても このヰ゛シュヌは ヰ゛シュヌ自体が さらに後に変容する過程の歌われることを見るであろうし  それとともに 共同観念の世界の言わば一つの動態性が うかがわれもするのである。
ただ このヰ゛シュヌの変容過程については いま少しあとに述べることにして 以上のことの反面で 《リグ・ヱ゛ーダ》ないしヒンドゥーの世界に関して それ自体に内在する固有の制約については あらかじめ指摘しておかねばなるまい。つまり いまわれわれは 文献としては 《古事記》と《リグ・ヱ゛ーダ》を 社会形態としては 日本とインドとを それぞれ比較考究しようとするわけであるが その両者の基本的な差異から来る社会科学的な制約については触れておく必要がある。次のごとくである。
ヰ゛シュヌ〔および次に述べようとするシワ゛〕は 厳密に言えばそれぞれ あくまで 神格であって また言いかえれば インド人の思惟形式の特徴として そのように 超質料関係的(メタフィジカル)=形而上学的な色彩が強いということが 初めに言われなければならない。つまり 従ってわれわれが 《アマテラス‐スサノヲ》体系を 古事記における《神代》つまり神的世界におけるものとして見ると同時に 《人代》つまりこの現実世界における一つの社会形態の像でもあると見る上で いくらか そりの合わない面が出て来るかも知れないということである。
 実際 ヒンドゥーの神群は 《人間》と明確に区別されていて 両者は 不連続である。ただ言えることは そのような両者の差異は たとえばちょうど 同じインドのもたらしたいま一つ別の思惟体系であるブッディスムに関して見ても その日本における受容の様式と 同じような形において捉えるならば 或る程度の制約は除去されうると考えられる。すなわち たとえば 仏教は その中の超越的な観想の性格は 日本において一般に影が薄れてしまうことになるものの それは 総じて 日本の社会のに受け容れられ また その限りで 一般に 共同観念の一つの重要な領域を占めると言って過言でないのであり そのような様式は このリグ・ヱ゛ーダと古事記の両世界の比較の上でも――そのような比較は これまであまり指摘されることはなかったものの―― さしたる抵抗もなく受け容れられると考えてよいからである。
さて ヰ゛シュヌに関するその後の規定をたどろう。《讃歌》である。
われわれは これまでのわづかな《ヰ゛シュヌ讃歌》の中にも おぼろげながら われわれの焦点とするところの《アマテラス‐スサノヲ》体系の一つの形態像をなぞらえようと まづ考えた。われわれは すでに 純粋社会学序説においては スサノヲおよびアマテラスのそれぞれの揚棄(変容)の歴史を知っている。それは アマテラスの初源的には特殊限定性から その後の普遍一般・世俗大衆化(つまり アマテラスの降下・変容)の過程であり また同じく並行的に スサノヲの復活・独立の過程でもあった。それらは まとめて 《アマテラス‐スサノヲ》連関の第二次的体制とも言うべきものであった。そこで この揚棄された《アマテラス‐スサノヲ》体系にちょうど対応するかのように まづアマテラスの役割を観念的に担うと考えられるヰ゛シュヌも その後の讃歌において 変容を成す。それは 全体的な観点から言っても アマテラスの変容およびスサノヲの相対的な勝利のその経過ないしその新たな形態像を そのまま 語っているのである。

         ヰ゛シュヌ讃歌 その二
五 われは今日 シピヰ゛シュタ(ヰ゛シュヌ)よ 特権者たる汝のその名を宣言す 〔秘義を悟る〕方途を知りて。かかる汝をわれ讃う 強力なる〔汝〕を いと弱き〔われ讃う〕 この空間のかなたに住む〔汝〕を。
六 そも何なりしや 汝につき忌憚せらるべきことは ヰ゛シュヌよ 《われはシピヰ゛シュタなり》と 汝が宣言したるとき。この変容をわれらより秘匿するなかれ。もし汝が戦闘において 他の形相をとりたりとせば。

  • * ここで 《シピヰ゛シュタ》という別称は 《何か軽侮の意味を連想させたと思われる》と訳者は註解している。《軽侮の意味》かどうかは別として われわれの歴史に照らすなら それは 《アマテラス者の人間宣言》を そのまま思い起こさせるのを見るであろう。

〔七 われは 汝に ヰ゛シュヌよ 〔わが〕口よりワ゛シャット〔なる祭祀〕を発す。このわが供物を嘉納せよ シピヰ゛シュタよ。わがいみじき称讃・讃歌は汝を増強せよ。――汝ら神々は常に祝福もてわれらを守れ。〕<< 
最後のカッコを付して引用した第七句は むしろ この第二次的形態以降の もしくは 逆に回帰的な 世界に属すと言うべきであろう。従って ここで 神的世界の《増強》をあらためて願う視点は アジアの中でも日本とはちがって インド=ヒンドゥーの世界に固有で独自の社会形成の一概念なのであろう。いづれにしても そのように そして全体として まだ 神的世界の域を出てはいないが しかし黙示的にしろ 社会形態における一役割を 類型的な共通性として わが《アマテラス》に通じるそれを このヰ゛シュヌ讃歌は 示唆していると考えられる。
《リグ・ヱ゛ーダ》におけるヰ゛シュヌ讃歌は ほぼここに引用した詩句がすべてを成す。そこで重要な点は ヰ゛シュヌの第一次的・基本的性格が規定されたこととともに やはり同じヰ゛シュヌが揚棄されようとする第二次的かつ基本的なその形態であろうと思われる。次にはこのヰ゛シュヌの契機に対抗する革命的実存神ヰ゛シュヌについて見る番である。

(つづく→2008-08-26 - caguirofie