caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

2a 《法》の世界――狭義の生産行為――における世界史的・類型的な共通性

類型的な共通性については もはや周知のことであり 日常の現実に近いことである。従ってその現象じたいについては それほど触れる必要もないと思われる。ただ そのひとおりの概念的な把握としては 確認を怠らずに進む意味でも 一節をもうけておきたいと考えた。


第一に 類型的な共通性――それは もちろん 一般に資本家的市民の生産行為様式のであるが そ――の拠ってきたる点は 次のように概念的に把握することができるであろう。
すなわち これまでにも論じてきたように 《ゆるし》という政治行為(またその揚棄)が ノアのごとく行為されるということ つまり 或る種の仕方で神による予定調和というように 《ゆるし》の行為における 神の揚棄のこんどは不徹底さ これである。言いかえると 神の《ゆるし》=和解を行為するという市民たちのノア的な事情。
それに対して 一つの再揚棄の道は 社会主義(その社会におけるノア的なゆるしを揚げて棄てた市民たちの生産行為様式)である。ただし現実の社会主義は この《ゆるし》における神の揚棄の不徹底を 《国家》によって成した。社会主義国家が 神の揚棄を完成させ 《ゆるし》を現実に政策として実現させる。ただし 市民一個人の中では その中の国家による神の揚棄の部分を離れると 全く個人的な神への信仰が 国家による部分と表裏一体のごとく受け継がれることにもなるであろう。
すなわち繰り返して述べるなら ノアは 生存のために所有し蓄積を成すのであるが それはひとえに神が社会的なカインを揚棄することにゆだねた形においてであった。そこで 運命予定説は 自己の運命=〔カインとの〕和解=《ゆるし》をひとえに神にゆだねる形においてであるかぎり そこにおける労働=所有=蓄積は ノアの中にも見られた個人的・私的な所有行為につながってゆくであろう。また この私的所有行為が 国家としての社会によって揚棄されるという場合は そこには その前提として 社会的なカインもしくはノアが 制度として国家によって解放されていると見られる。ただしそこには 個体における国家の揚棄 すなわち 国家によるのでなく 自己によるカインもしくはノアとの和解が 別に 課題となるのかも知れないのであった。
このように考えるとき 社会主義社会においては 資本主義社会における経済的なカインもしくはノアの対偶ともいうべき市民の姿がうかがえないでもない。そして もしその類型的な把握がまちがっていないとすれば 現代において 社会主義社会においても いわゆる広義のノア的な類型は 資本主義社会の系譜としても 世界史的な同時性としても 共通であると考えて 必ずしも極論ではないであろう。


もし 以上のような西欧の系譜と もともと質を異にする日本の社会も 現代において ノア的な部分を持った資本家的市民の行為様式を やはり同じく類型的に共有するとするなら それについては 二つの視点から捉える必要があると思われる。
その第一の視点は もちろん 質料主義者のいうように 日本が 《法》の世界としては 制度的〔のみ〕にしろ 資本家的市民社会の形態を採ったという現実 また この《法》の世界が 土台となって 非法・不法の世界を規定するとする見方である。(それは 三つの行為領域が 三位一体であるかぎりにおいて 一面の有力な視点であるだろう)。
次に第二の見方は この三位一体の中の 形相(イデア)の領域を無視しない立ち場からのものである。ただし この形相は――イデアプラトンに始まるといった恰好だが―― 非法の世界に 法の世界〔の商品の価値関係〕が反映したという意味でのそのプラトニックな心理関係の領域を言うのではない。そうではなくて あくまでその〔形相の〕初源の領域を 実存としての実存 その核 すなわち 《不法》の契機に求めるべきものである。

  • すなわち 人は プラトニックな心理的実存(《非法》の世界)と プラトンの実存としての実存(《不法》の世界)とを 分けて考えるべきである。

そこで この形相の力を無視できないとする立ち場は M.ウェーバーではないが 先に見た神による運命予定説というような形での一実存形式(形式も イデアである)をも取り上げる。運命予定説とは 再び規定すれば 自己の実存としての和解を 〔自己によるものとしては〕放棄しようとする一実存形式であり その放棄というのは 自己の和解の運命が すでに自己の外なる・または上なる神によって決定的に予定され揚棄されていると見なすからである。そのようないい意味でも悪い意味でもの一つの《不法》行為すなわち 思想である。形相また形式としての思想である。
もっとも このプロテスタンティスムのばあいは 言うまでもなく 西欧の歴史的現実であり したがって 《世界》との和解が 自己と神との何らかの関係において捉えられたのであり いまは日本の社会を扱っての第二の見方を述べているのであるから やや観点を異にして この日本の社会を 神のいない情況として捉えるかぎり そこにおいてこの形相(イデア)の力が現われるのは 《世界》との和解が つねに自己と現実(世界)との関係において捉えられるという形式(イデア)を 典型としなければならない。このプロテスタントの予定調和説に比すべき・《世界》との和解形式の日本における典型は まづもって あの悪人正機説であろうと考えられる。
本来 西欧の系譜とは異質な日本の社会において 現代 西欧の社会の《法》の世界すなわち資本家的市民の行為様式が 類型的に共有されるに到った所以の第二の見方は ここで ウェーバーの《プロテスタンティスムの倫理と資本主義の精神》ではないが 《悪人正機説》〔という不法行為〕と 法の世界との敵対‐均衡の関係に焦点をあてることになる。一般に 親鸞の念仏信仰は 《すべて人間のはからいを捨てて 阿弥陀仏の他力を堅く信ずれば 臨終を待たず 往生(=和解)が決定する》というとき 西欧的な考え方からすれば 《和解の 自己によるものとしての放棄から出発する一実存形式》というときの《運命予定説》に 遠くない。
ただし おそらくこの念仏を頼むという不法行為は 《神》による予定調和とは異なる。何故なら ここにおいては 初めに 神は揚棄されてあったのであり 従って 神のもとのカインであるとかノアであるとかからも 基本的に自由であった。そこでは 《世界》との和解のその内容は おそらく アマテラスとの和解であり 自己の内なるスサノヲとの和解であろうと考えられる。言いかえると ある意味で絶対的な不法行為者としてのアマテラスの揚棄であり――つまり アマテラスの降下・変容(これを アマクダリと言ってもよいが)であり―― 単に法の世界の生産行為者のみにすぎないとした場合のスサノヲの揚棄であり――昔として捉えるなら 一揆・叛乱であり やはり独立であり―― つまり 種もしくは社会としても 個人としても 《アマテラス‐スサノヲ》連関の構造じたいの揚棄であろうと考えられる。つまり 自己と現実との関係において 和解が捉えられるという形式におけるその《現実》とは 基本的に――それは 神のもとのカインやノアでなく しかも 或る意味で ノアとカインにそれぞれ比されうる一面を持つところの――アマテラスとスサノヲ ないし両者の構造的な対立‐均衡(発展)の関係 これを言うのである。
たとえば 《たとひ・・・すかされまひらせて 念仏して地獄におちたりとも さらに後悔すべからずさふらふ》(歎異鈔)という・自己と現実との関係における非調和的な予定調和によって また 《悪人こそが救われる》というように その予定の再揚棄が用意されるといったことによって 《アマテラス‐スサノヲ》体系という《現実》の揚棄が(つまり 市民スサノヲの独立が) 結果的にしろ 目指される。つまり従って このようにして まづ この《悪人正機説》という不法行為 つまり形相(イデア)の契機が 法の世界の資本家的市民のノア的部分を(――つまりたとえば スサノヲによる私的所有の行為様式 これを――) 日本においても作り出しているというのが 第二の視点である。
この見方については さらに続けて論じよう。
(つづく→2008-05-07 - caguirofie080507)