caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

1 序

ふたたび前章を振り返っておこう。
いまの時点において 《世界》は・つまり《生産行為》は 個体的な実存行為として 法・非法・不法の三位一体的な構造において捉える。ただし 《世界》に 民族=言語を一つの範疇として 種としての差異が存在するとするならば それは 実存行為としての非法の世界 特に 愛の行為 において その様式の差異としてであることを知っている。
神の系譜においては 愛の実存の様式は 法・非法・不法の三位一体として 具体的に明確な形態を採らず 内面的に一つの環を形成するような様態を結ぶ。この内面の環が形成されるなら 非法の世界は むしろ 時と所を選ばず 広がる。いわゆる愛・経営・政治がより開かれたものとなる。
それに対して 神のいない情況においては それは 三位一体が 特に 法の世界の具体的な生産能力の発現であるとか もしくは生産諸関係への新規の参入・確立であるとかを中心として そのまま互いに連動するといった外的に明確な形態を採る。
ただし――前章のいちばん最後で述べた点だが―― 《世界》を 実存行為として捉え返す前の 政治行為を中心として把握した視点においては 《世界》との和解は 逆に 神の系譜のほうが 明確な形態を採ろうとし 神のいない情況のほうは あいまいな様態の中にある。
すなわち 神の系譜においては 《世界》の中の 外なる・ないし内なる カインあるいはノア との和解は 《ゆるし》によって《異邦人もしくは取税人扱い》という明確な形態を採った。逆に他方 神のいない情況においては たとえば《ムラハチブ》には そもそも《ゆるし》の契機はない。ないから 《二分》だけ残して あとの《八分》は 付き合わないのである。あるいは 《ゆるし》が政治行為の最終的形態として 政治行為じたいを廃棄してしまったとするなら――たとえばそれは 大まかに言って 言われているように プロテスタンティスムの運命予定説などに現われるのだが―― もはや 職業・勤労といった《法》の世界にのみ いそしむことになり 従って そこに 意に反して ふたたび・みたび 経済的なカインもしくはノアを見るということ。そしてこれを 政治行為の復活(もしくは 書き替え)によって 《法》の世界じたいを中心として 新しい和解の形態を模索する質料主義者の動きも 指摘しておかなければならない。

  • それは 言うまでもなく マルクスの思想であり この第三章では この動きを 論点から外すわけにはいかないであろう。

このような和解の形態に対して 神のいない情況においては あいまいな様態が対応する。ここには 本来《ゆるし》はないであろうと見た。ただ《うたう(歌う)》ことの中に 情感の共有を持って 和解を成すと。従って その点では たとえば

 ・・・
 わたしの胸に朽葉色して甦える悲しい顔よ
 はじめからわかっていたんだ
 うつむいてわたしはきつく唇を噛む
 今はもう自負心だけがわたしを支え
 そしてさいなむ


 ひとは理解しあえるだろうか
 ひとは理解しあえぬだろう


 わたしの上にくずれつづける灰色の冬の壁
 ・・・
 日差しはあんまり柔らかすぎる
 わたしのなかの瓦礫の山に こわれた記憶に


 ひとはゆるしあえるだろうか
 ひとはゆるしあうだろう さりげない微笑のしたで


 たえまなく風が寄せて
 ・・・
 (大岡信:青空 )

というようには 神がいない情況では 《ゆるし》は現実のものでないのではないだろうか。わだかまりが残るというよりも そもそも《ゆるし》という言葉はあっても それは ただ《緩くしている》だけではないだろうか。

  • のちに 《ゆるし》の一種が――資本家的市民としてのそれが―― 日本にも存在するとは見る。

いまの段階では いづれにしても 和解の様態は 《アマテラス‐スサノヲ》連関体制においては 複雑であった。もしくは捉えどころのないものである。


さてこのように これまでの論旨を振り返って そこで次に論ずべき事柄は 《法》の世界・狭義の生産行為における実存の問題である。そこにおける 類型的な共通性 もしくは 種としての差異ということになる。それが 労働のあるいは経済の様式としてであるのか 労働や生産という実存じたいであるのか これを別としてである。一つづつ論じ進むことにしよう。

(つづく→2008-05-06 - caguirofie080506)