caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

3 西欧における《法》の世界――狭義の生産行為――における実存

《法》の世界を ここでは 西欧社会にかぎって いま一度 取り上げ 概念的に整理しておきたいと考える。それは さらに次節で 日本の社会における 資本家的市民の行為様式という《法》にあい対するいわば日本の情況に固有の《不法》行為=つまり思想を より明確に把握しようとするためである。


 もう一度 カインとは ノアとは 何であるのか。あるいは 後にふたたび 親鸞に代表されるような日本の社会における不法行為を取り上げる意味で その対蹠的な例として プロテスタンティスムとは このカインもしくはノアを把握する系譜において 何であるのか。それらは 神の法 もしくは 自然法として どのようであるのかといった点について。
狭義の生産行為を捉えようとするときには 実存行為として むしろ このような視点以外にないとさえ思われるからである。

  • その点 技術〔の利用 その発展〕の問題は それが 実存を侵さないかぎり 《法》の概念の中で把握されるであろう。いや 技術が 実存を脅かすようになったので それがそれ自体としても問題になったと言いうるのであろう。
  • また その点 労働(労働価値)という《法》じたいについて分析を試み たとえばそれを 具体的に有用な労働行為と 抽象的に社会的な(=普遍的な)労動行為とに分別するということが その認識じたいが直接 実存行為としての発進につながるとは思わないからである。――つねに《法》の世界と そしてそれに逆立して連動する《不法》行為との 相互関係において把握する必要があると考えられる。


ここで いくらか視点を変えて ふたたび 詩人の捉えるカインを見てみよう。

 波うちぎは
 カインは蜥蜴のしっぽをまねび
 本体はたちまち変身精子と化す
 異人さんに運ばれて あ
 新しい土地に繁殖


 アベルは血まみれ
 砂地に浅く横たはる
 遺骸は芽をふき
 鴉がつつく

カインが何であったかは 実存行為がつねに行為関係であるとき それはおそらく アベルが何であったか でもある。聖書の記述は 

 アベルもまた(* この《もまた》に注目できる) その〔羊の〕群れの初児(ういご)と肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

このように 対アベルにおいて カインを捉えるとき カインは 必ずしも《変身して精子と化し》たりはしない。またその末裔であるレメクに見られたような 復讐の問題じたいとして捉える必要も必ずしもない。何故なら カインは アベルと互いに 種(市民関係)において――《主において》ではない―― 完結していると見なされるからである。
また その関係は 《新約》において すなわちイエスにおいて 次のような生産行為の問題として映じるからである。広義にも狭義にも 生産行為の問題としてである。すなわち 少し長くなるが 次のような経緯においてである。
マタイによる福音書・第二十章に語られる物語であるが それは まづ 或る《ぶどう園の主人》が 朝の九時から働いた者にも 十二時ないし三時からの者にも あるいは夕方の五時から働いた最後の者にも すべてそれぞれ一デナリ(=一日分)の賃銀を同じく払ってやる。そこで 九時から働いた《最初の人びとが来て》その賃銀を

 もらったとき 家の主人にむかって不平をもらして 言った。
  ――この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに あなたは一日じゅう 労苦と暑
   さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました。
 そこでかれは ひとりに答えて言った。
  ――友よ わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの
   約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは この最後の者
   にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは 
   当たり前ではないか。それともわたしが気前よくしているので ねたましく思うの
   か。
 (マタイ20:1−15)

そして これに対するイエスじしんの寸評は 

 このように あとの者は先になり 先の者はあとになるであろう。
 (マタイ20:16)

であった。ここにおいてのイエスによる カインの揚棄は 《生産行為》としての時間の発進であったと考えられる。文字どおり 先の者と後の者というように 両者あいまって類としての時間のそれぞれ個体的な発進であると。
 もしこの《ぶどう作りの譬え》を 一般の宗教的な解釈に沿ってみるならば つまりたとえば 《この話は賃銀の分配法でなく 少ししか働けなかった罪びとを多く働いた義人と同様に救う神の愛を示す譬え》(前田護郎)というように解釈するとしても それは この《神の愛》の概念的内容に相当するものが 次のような事柄であると考えられるのである。すなわち カインについてこの節での議論の初めに述べたように 類としての〔生産行為の〕時間の発進が存在するところにおいては カインとアベル もしくは 先の者と後の者とのあいだに 種としての(つまりいわゆる社会的な)(法と非法と不法の《世界》全体としての)完結が見られるということであろうと考えられる。
以上 要約すれば カインの問題は 同時に アベルの問題であり 初めに(つまり 《旧約》で)は 単に両者が 種として互いに完結していた。ということは 両者は 相互に依存して 補完しあい いわば二人でやっと完結している。次に 《新約》つまりイエスによっては そのような両者の種としての完結の中に 類としての生産行為の時間が注入される。

  • 《種として / 類として》は 部分的にと全体として のごとく取られよ。

従って カインは 神に対して《先の者》であり アベルは《後の者》であることになる。このように 時間の先後の導入によれば その種としての完結が 相互依存ないし補完関係の部分が溶けて 完結そのものとなるのである。――さらに しかしこの系譜に立って マルクスは たとえば《剰余価値の労働時間ないし価値》という時間の先後に関する不平を公言するが この点は ただし 不平のための不平でももちろんなく イエス揚棄するための不平の導入である。この点 次に論じる。
なお この時点で 日本の情況について 対蹠的な点として言えることは 《アマテラス‐スサノヲ》体制のもとでは その両者は 初めに時間は導入されており 《先の者》であるアマテラスとして および《後の者》であるスサノヲとして 存在していたと考えられる。

  • この《アマテラス‐スサノヲ》体制以前の問題は 後の課題である。

言いかえれば 初めに 両者は相互依存および相互独立の関係を 不法・実存行為としても 実存としての政治行為としても 志向していたと考えられる。そこでは カイン〔とアベル〕の問題は 初めに 揚棄された様態にあった。

  • ただし それは《様態》であって 何らかの不法悔い=つまり思想として 明確な形態は取っていない。また仮りに 日本においては アマテラス‐スサノヲ関係が 情況として基調をなすとすれば その限りで 一般に 明確な思想的形態を採ることには なじまないものがあると考えられる。


次はつづいて マルクスの不平に関してである。すなわち 《ぶどう作り》の物語について 次元が進んで たとえば《自分の物を自分がしたいようにするのは 当たり前》とする《主人》の立ち場が 質料主義に立って非難され また世界の趨勢としても その批判が受け継がれた段階での問題である。それは 《罪びとと義人を同様にあつかう神の愛》もしくは 種としての《世界》の完結 の破綻である。それは どういう事態か。また 何故か。

  • 実際の問題として この系譜をこのように語ることは まづ 推測の域を出ないのではあるが――何故なら 日本人としては この系譜をおのれの実存行為として生きることは 実際ではないと思われるからであるが―― 想像するに 《新約》の世界の破綻は 《新約》の世界じたいの成就の中から出てきたものであろう。すなわち 逆に言って この成就=停滞に抗するプロテスタンティスムの問題であると考えるのであるが たとえば そこでは その種としての完結の中から またまた新しいカインが出ることによって その完結じたいが 破綻をきたすことになる。しかも この新しいカインは 神に忠実である。すなわち 《時間の先後〔としての 対アベルの関係〕》には 今度はまったく無関心であることによって しかも《新約》の神もしくはイエスの意を体現し そうして種としての完結を保ち そしてさらに その完結の中に没頭するかのようなのである。

この最後の意味で この新しいカインは まさに あの忠実なノアの姿をもまとったと見られる。その結果は 次のような事柄に見出されるであろう。すなわち――
たとえば 《後の者》であるアベルに対しては 相互依存の関係にありながら 相互に独立の関係を保つに到る。ただし一般に アベルへの無関心の行き着いた先は この独立も依存も きわめて抽象的なものとなる。

  • ここで《独立》というのは A.スミスが言うように 資本家的市民が登場している社会では 人びとが互いに 経済活動が基礎となり お金を仲立ちとして それぞれの利己を考えて行動するということを このことを 乞食でも知っているというその個人主義のごとき内容のことである。

たとえば 経済学において 《無関心の法則 law of indifference (一物一価の法則)》とは 完全競争において 一商品に対して一義的なただ一つの価格が決定されることを言う。そこでは 《法》の世界が 質料間の関係として あるいは 物象(その動きじたい)として あたかもその動きその法則じたいが 神とされるかのごとく 展開され たとえば それに対して《非法》の世界は きわめて希薄になり 抽象的な世界と化していく。

  • この 資本家的市民社会の分析は もっと詳しくすべきかと思うが 西欧および日本における先人の業績に いま 依ることにしたい。

そこで ふたたび 類としての・もしくは三位一体としての時間の発進が求められた・カール・マルクスの段階に来て イエスの系譜が 揚棄されて 継がれる。それは どういうことか。マルクスは 剰余労働時間を説き 《先の者と後の者》との分け隔てをすることによって その分け隔てを揚棄しようとした。そこでは 時間の先後を問題にして しかも その不平が問題なのではない。《法》の世界に 時間の先後を まさにノア的に法則的に点愛させようとすることが 問題なのではない。そうではなくて 新しい時間を容れた新しい種としての完結が 問題なのであろう。その完結の形態もしくは様態が 問い求められる。
類としての・もしくは三位一体的な構造と 《あとの者が先になり 先の者があとにあるであろう》こととは 互いに相い容れないことではない。マルクスの目指す事柄は カイン(ここでは カイン=ノアとして)〔とアベルとの関係〕の揚棄で やはり あるだろう。新約の《時間の先後》に対する無差別 そういういわゆる神の愛 そしてその最終的な形態である《ゆるし》が プロテスタンティスムに《カイン=ノア》のかたちの部分を(つまり 私的所有や蓄積)を生み出させたのであり 従って まさに この《ゆるし》を 一段高いところに保って棄てることが たとえば言われるところのコミュニスムであるだろう。コムミュウヌ・イスムであるのだろう。
その内容が さらに具体的に説かれるべきであろう。ここでは その点は まだ力量から言っても その段階ではない。もっとも ひとつには このコミュニスムを 日本人として 自己の実存行為として持つことは 実際にはむつかしいと思われるところがある。もちろん 以後も触れていくつもりである。
以上 この節では 西欧の《法》の世界・特に資本家的市民とその社会の生産行為様式を再び概観する上で カインとは何であるか ノアとは何であったか プロテスタンティスムとは何か――これについては ほとんど何も触れていないが―― そして《法》の世界とは・・・といった点について述べた。また 前からの課題として《ゆるし》の揚棄についても 触れることができた。
(つづく→2008-05-09 - caguirofie080509)