caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第三章 《生産》としての労働(=狭義の生産)行為における実存

2b 《法》の世界――狭義の生産行為――における世界史的・類型的な共通性

おそらく――しかし―― この日本におけるノア的部分は 西欧におけるそれに相当するものとは 日本社会が《ノア》の物語を持たないという限りにおいて 質を異にするであろうと考えられる。

  • またその点で ウェーバーにならって 《親鸞イスムの実存形式と資本主義の精神》などというたぐいのものではないだろうと。

日本においては すでに 政治行為としては アマテラスとスサノヲとの とことんまでの勝負などにも見たように 《カイン》を出す余地は あるいは《ノア》になることによって救われる道を求めるべき日本人としての危機は 概念的には なかったと言える。その点で 《親鸞イスム》は 決して《プロテスタンティスム》でないと言い得る。すなわち プロテストすべき対象は 日本にまづなかったではないかと。ただ 一つの思想=不法行為として 日本に根づいたと思われるインドからのブッダ‐イスムとの関連においても 見なければならない。
ブッダイスムが 《末法》に入ることによって生まれたその限りでのプロテスタンティスムの一つではあるのだから。しかしこのプロテストすべき初めの対象があったにせよなかったにせよ いづれにしても始原(はじめ)が何であったかを問わないのが 日本の和解の――アマテラス的政治行為の――様態であったように 親鸞イスムは 少なからず 日本的実存であるかも知れない。そう成ったと考えられる。
《法》の世界との対立関係において ある面でそれを導くべき このような一つの《不法》行為とは どんな 思想であるのか。この点については 後に節を改めて論じることにしたい。いまは 親鸞イスム〔と資本家的市民の行為様式との関係〕については これまでにとどめて とりあえず 以上のような二つの見方によって 日本においても 西欧の資本家的市民社会が類型的に共通して 存在していると考える。

  • この論点は 次の節に カインやノアをさらに論じ その後 ふたたび日本に戻って 親鸞イスムとして論証する予定である。

ただし 類型的な共通性というのは 先にも見たように たとえばロシアにおける社会主義社会が 西欧の社会と その法の世界における行為様式において 互いに対偶のようなかたちで 類型的に共通であろうとしたような意味においてである。いづれの場合にも やはり 種的差異も 多かれ少なかれ 当然そこに存在するものとは思われる。

  • なお ただしロシアは スラヴ民族=言語にかぎっては 西欧と 事実 同じインド=ヨーロッパ語族としての系譜であり ここでの論旨においても かならずしも大きな種的差異があるのではないとも推測される。さらになお 西欧と日本とをここでは神の系譜と神のいない情況としてそれは一つの適当な対照であると考えるのであるが さらに私見では その対照を究極したかたちは ユダヤと中国との対比において見出されるのではないかと考える。それは 同じ対比の形式であるが 究極という点で言いかえるなら 一方のユダヤは 〔高度に政治的な行為に没入するかぎりでの〕人間のいない人間的状況であり 他方 中国は あくまで人間の系譜〔としての高度に政治的な行為の世界〕であるという対照として。それらはまた どちらも 先の西欧と日本とにとっては 先行の社会であり 伯父さんのようなものだ。

この節での重要な点は 資本制社会という類型の世界史的共通性について 次の二点である。第一点は あくまで類型的な同一性であり そこには反面でやはり種的差異があるということ。第二点は その類型の同一性は 《法》の世界が その法独自の展開により 世界史的に共通であるということによって もとより明白なのであるが 必ずしもそれだけではなく 三位一体であるかぎりにおいて 《不法》の世界も大きな基軸を成すべき契機として それに少なからず与かっているということ。すなわち従って 法と非法と不法の世界の船体的な行為様式は むしろ この《不法》行為の形式(イデア)に種的差異があるということによって 異なっていると見るべきだということ。以上である。後者の点は 次につづく二つの節でも取り上げよう。
(つづく→2008-05-08 - caguirofie080508)