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もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
第二章 《生産》としての実存行為
7b 補論――愛の実存の様式の多重性について――
次に この節で拠るべき第二の文章を見てみよう。次に掲げる文章であるが そこにおいては 文章の前後関係が きわめて複雑であるので まづはていねいに読んでいきたい。
そして 共産主義者よ 君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう と全ブルジョア階級は いっせいにわれわれに向かって叫ぶ。
ブルジョアにとっては その妻は単なる生産用具に見える。だから 生産用具は共同に利用させるべきである と聞くと かれらは 当然 共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。
ここで問題にしているのは 単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ ということにはブルジョアは思いもおよばない。
何しても 共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわくわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は 婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。
わがブルジョアは かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても かれらは 自分たちの妻をたがいに誘惑して それを何よりの喜びとしている。
ブルジョアの結婚は 実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えうるとすれば せいぜいで 共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに 公認の 公然たる婦人の共有をとり入れようとするという非難ぐらいであろう。いづれにせよ 現在の生産諸関係の廃止とともに この関係から生ずる婦人の共有もまた すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。
(マルクス / エンゲルス:《共産党宣言》第二章 大内兵衛・向坂逸郎訳)
この一節は 《家族や教育についても また親と子の親密な関係についてのブルジョアのきまり文句は 大工業の結果としてプロレタリアにとって一切の家族のきずなが次第にたち切られ 子供が単なる商業品目や労働用具に転化するにつれて ますますいやらしくなる》の文章を受けて始まるもので これでひとつの完結した一節と見てよい。
この文章におけるマルクスおよびエンゲルスの表現は 先に触れたように まわりくどく きわめてあいまいである。実際 何度も読み返す必要があるかも知れない。いま ここに拠って マルクスらの実存行為としての愛の実存 その様式を推し測るとするなら――仮りにそれをここで独断して述べるとするなら―― それは その文章じたいが アウグスティヌスの《だが もしその感覚的なものが魂をもっていなかったならば けっして恋する気にはなれなかったでしょう》(§2−4)という認識を 払いのけない点において しかし その払いのけなかったことに対して 何らかの言葉による弁明(‘η διαλεκτικη 弁証= ‘ο διαλογοσ 対話=告白)を このように文章にして用意する点において アウグスティヌスの前掲の文章について論じた愛の実存の様式と 結局において軌を一にしていると言うことができる。それが ブルジョア・キャピタリストすなわち資本家的市民の生産行為の様式 つまり《法》の世界の矛盾 を論難していようがいまいが 《非法》の世界の実存様式として この二つの文章は 同一の認識の上に立っていると言ってよいのである。
これでもまだ ことの抽象性を免れないかも知れない。たとえばキリスト者も質料主義者も 卑近な例において論じれば 《いわゆる一夫一婦制を 基本的に明示的に掲げることはしない。この一夫一婦の制度は むしろ 資本家的市民(ないし プロテスタンティスム)の行為様式から来るものであろうし そうではなくて 両者(アウグスティヌスもマルクスも) 言語行為=実存として 愛(もしくは愛欲)の世界にも 法・非法・不法の三位一体が 基本的に成立するものだと説くのである。その余のことは 政治的行為としての愛である。もしくは 露骨に 政治的行動であると論難しているものと考えられる。一夫一婦制は つまり制度としては ノア的な政治的行為である。
それに対して スサノヲ=オホクニヌシの範式(?)においては 言語行為(たとえば 神への告白 ないし 弁証法の過程)としての完結は 問わない。ただ 綜合的な生産行為者としての自己による確立および周囲によるその承認をもって その完結とするのである。
この愛の実存の様式における種的差異は じつは きわめて奥深いものであるかも知れない。かと言って 非法の世界の類的な共通性によれば 民族・国境を難なく超え行くものであるかも知れない。
しかし それにしても 問題はこの《非法》の世界の種的差異やその重層性と 《法》の世界との相互関係である。法の世界には つまり 法の世界にも かたちや論理としては 資本制生産行為の様式という世界史的な類型的共通性がある。そこにさらに 《不法》の契機が いかに与かっているか これも問題である。
さらに一言。スサノヲ=オホクニヌシの例に触れる。その実存様式が 西欧の例のような 個体的な言語行為としての完結性を契機として欠いているとするなら それは 逆に 《非法》の世界が むしろ 他の法や不法のふたつの行為領域へと 積極的におのれを開き そのように形式的にすぎないにしろ そのあと 三行為領域が集まって 互いに連動するかたちを取っているのであろう。むしろ そのように積極的に捉えるべきでもあろう。何故なら この最も具体的な質料関係(つまり モノをとおして生活諸関係)すなわち それと《法》の世界とのさらに関係を中心として 法・非法・不法の三位一体もしくは渾然一体が保たれるということは そこに――個体的にでは必ずしもないが したがって 何らかのかたちんも集団的に―― 種としての完結を期するという契機がはたらいていると思われるからである。
現代の問題は 言うまでもなく キリスト者‐資本家的市民(プロテスタント)‐質料主義者(コミュニスト)の系譜に見られる様式と このスサノヲ=オホクニヌシの範式との互いの重層性である。そこでは 言うまでもなく 資本家的市民(キャピタリスト)と質料主義者(ソシアリスト)とのあいだにも 相互に対立する一つの重層性が存在し それはそのまま スサノヲの範式を基本とする日本の情況に 多重錯綜的に受容されたという点にある。
ちなみに 第一章の 政治行為による 《世界》とのあつれきの和解(揚棄)は 一方の神のいる系譜において 具体的な思想とその実践という 明確な形態を取るのに対して 他方の 神のいない情況においては 《歌垣》のようなあいまいな 情感の共有という様態を取った。それに対して この第二章の 実存としての政治行為=愛においては その様式として 一方(前者)では 非法の世界における現実の行動と 法・非法・不法の三位一体を表明する言葉の行動とが 言語行為として 相いたずさえて 一つの環を作るといったように 回りくどい・あいまいな様態を為すが 他方(後者)では 非法の世界の行動は 現実に 法・不法の両世界とも 平面的に・もしくは共時的に連動するという明確な形態をとる という対称をもつことがわかる。
愛の実存の様式 その種的差異 その一情況における多重性等を論じて これで この章の表題である《〈生産〉としての実存行為》について述べるべき点を ひととおり述べることができたと考える。
次に論ずべき事柄は このように 非法の世界の種的差異が存在するとすれば 法の世界においても――そこでは 資本家的市民の行為様式という 類型的な 世界史的共通性が見出されこそすれ―― あるいは微妙な種的差異が存在してその 種的展開に与かっているかも知れない。という点である。いや むしろ 逆に 実存としての狭義の生産行為=法の世界匂い手はそのような種的差異によりは 世界史的な交通の展開とともに むしろやはり 類型的共通性のほうに重点がおかれるべきであって しかも そのような類型的共通性に立てば 今度は逆に 神のいない情況における世界認識が 類型的に 神のいる系譜の情況の把握にも通用するのではないかといった点 これなども 次章を展開するにあたって まづ念頭に浮かぶ事柄である。仮説として すなわち
《 Amaterasu - Susanowo 》連関体系
の普遍性としてである。
章を改めよう。
(つづく→2008-05-05 - caguirofie080505)