caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第二章 《生産》としての実存行為

7a 補論――愛の実存の様式の多重性について――

類としての《世界》――つまりその普遍性――の中に 民族=言語をひとつの単位として 種としての差異が存在することは 当然のことである。
《世界》は 類としての生産行為として捉えられ それは 狭義の生産行為・政治行為および実存行為の三領域に区別された。さらに それらが 今度は 一個体の視点から 実存としての三行為領域として 法・非法および不法としてそれぞれ捉えられ 基本的に これらの世界は 相互の関係として 三位一体であるとした。先の 《世界》に存在する民族=言語による種的差異については 特に 実存としての政治行為=非法の世界 の様式における差異を中心として見られると捉えた。さらに具体的には それは 愛あるいは経営・政治における実存行為様式に見られる種としての差異であったが しかし次には そのような種的差異は 特に現代において 一つの種(つまり民族=言語)じたいの中に 多様な種的差異を内包するものとなったと考えた。ここで 法・非法・不法の三位一体の構造は 一つには このような愛の実存の多様性もしくは重層性を 特徴とするに到った。

  • なお もちろん それは 法の世界のその法独自の歴史的展開に影響を受けてのものである。ただし その被影響は その《法》の世界と まさにその《法》に拮抗し対立する《不法》の契機との 相互敵対かつ発展の関係を過程として生まれてくるものではあった。

この種的差異は この小論では 神の系譜におけると 神のいない情況におけるとの二つの〔その意味での民族=言語の情況に限って述べるのであるが そこで この二つの情況間の種的差異が 少なくとも後者の情況においては 相互に滲透するかのように その一情況内に重層的な構造を持つに到ったとしたのであるが この点について この節でさらに補足しておきたいと考える。


まづ 《神》の系譜における情況について 愛の実存の様式を ふたたび追ってみることにしよう。それを 次に掲げる二つの文章に拠って 把握したい。
まづ第一は

 その年ごろ 私は一人の女性と同棲するようになっていましたが それはいわゆる合法的婚姻によって識りあった仲ではなく 思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけだした相手でした。けれども私は 彼女一人をまもり 彼女にたいして閨(寝屋)の信実をつくしました。この女性との関係において私は 自分の経験によって 子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と 情欲的な愛による結合とのあいだに 何という大きなへだたりがあるかを 身にしめて知らされました。情欲的結合の場合にも 子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると その子は愛されずにいられなくなるのです。
アウグスティヌス:告白 第四巻第二章第二節 山田晶訳)


 それから 洗礼志願者名簿に記帳すべき日がきましたので 私たちは田園を去ってミラノに帰りました。・・・
 私たちはまた 少年アデオダトゥスをともなっていました。・・・年はやっと十五歳ばかりでしたが 才知にかけては多くの学識あるりっぱなおとなたちにまさっていました。・・・ 
 『教師論』と題する私の書物がありますが この書の中でこの子は私と語っています。その中で 私の対話者の名において述べられていることはことごとく・・・この子の考えたことだったのです。
 (同上 第九巻第六章第十四節)

この二つの段落の箇所が まとめてまづ 第一の拠るべき文章です。《少年アデオダトゥス》は 言うまでもなく 最初の段落の《同棲》によって生まれたアウグスティヌスの子である。この章(わたしの本文の)の第四節につづいて引用したこの《告白》の部分には その親馬鹿ぶりと言い 一見して あるいは 愛の実存として そこに民族的な種的差異はないというふうに見える。事実 非法の感性や情感の世界じたいに差異はないであろう。ただ  このような文章を前にして言えることは 一つとして その愛の実存を 基調としては明確に このように《告白》するという様式を取ることに その特徴があるのではないかと思われるのである。
先に見たように オホクニヌシは 根のカタス国に行って 偶然 そこに スセリヒメを見出し ともにそのまま 非法の世界を共有した。《同棲》と言ってもよい。しかし その後 かれは 生産行為者としての己れの実存を 証明して 相手の父スサノヲからその承認を受けることこそすれ 一般に 《告白》をおこなうことはしない。
もっとも この《告白》の有無じたいが 差異を表わすとは思われない。一般に 神の系譜のもとでは 告白を著わすにせよ著わさないにせよ それを個体のうちに 言語行為として生むような要素や様式が 存在すると言うべきではないであろうか。一般的に言って スサノヲやオホクニヌシの場合には 周囲の者(特に相互の家族)による承認が 世界による承認として 社会的な効力を持ち そのような様式のうちに 非法の世界・愛の実存が 始まる。それに対して アウグスティヌスに見られるような例においては たとえばそのような承認は 己れの内から 神もしくは世界に向かって《告白》するという言語行為のうちに見出されるようだからである。それ(自己による告白)が 世界による承認なのである。この様式は 言わば世界の三位一体的構造の 個体の内なる完結を目指すものと言うことができるが 逆にそれは 必ずしも外面的に 《法》の世界の現実的な質料関係の領域と(つまり 生産行為者としての もしくは 単に生活者にとっての領域と) 完結という点では 連動する必要はない。 
以上 言いかえると 愛の実存の様式は 片や 或る一時点において平面的に 法・非法・不法の連動関係が 全体として成立することが 条件とされるのに対して 片やもう一方では そのような連動関係は それぞれの個体に内において 言語行為として および 歴史的な時間の流れの内において 成立し完結することを条件とするもののようなのである。
アウグスティヌスに見られる愛の実存の様式のこの分析には いくらか抽象的に過ぎる嫌いはあったが ひとまづ措いて 次に この節で拠るべき第二の文章を見てみよう。次に掲げる文章であるが そこにおいては 文章の前後関係が きわめて複雑であるので まづはていねいに読んでいきたい。

(つづく→2008-05-04 - caguirofie080504)