caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第二章 《生産》としての実存行為

6 日本の情況における実存行為

この小論は 基礎理論である。処方箋を書くことが目的ではない。基礎理論の域を出ないどころか 随筆のようにつづっているかも分からない。
ではありながら 前節の最後に述べられた矛盾を受けて 日本の情況における実存行為として ひととおりのまとめを行なう場所である。


もし図式的な叙述が許されるならば 簡単に言って 日本における現代の情況は そもそも《非法》(すなわち 非・経済法則。これは 感性のことである)の世界を中心にして世界が発進していた情況が 《法》の世界の法(その揚棄・再揚棄を含める)による三位一体の展開の系譜を受け容れた位相にある。もっとも この位相は 一般的に言いかえれば 人がドライになったといった指摘と変わらないわけであるが まづこのような情況の側面から入っていこう。
ふたたび ひるがえって 《不法》の契機は 実存の実存として もとより どの情況においても共通であろう。また そのようにそれは 普遍的であると信じられる。――さらに 《非法》の世界は 実存としての政治行為・その中の特に 対(つい)関係や人間の集まりとして共有される感性(情感の共有)の世界そのものとして やはりどこにおいても 共通であり また 《法》の世界も 同じく世界史的である。

  • 質料主義は その意味で どの情況にも共有されうる。

確認の意味で ふたたび繰り返せば 実存としての実存=《不法》契機は 《不在》の領域であるだけに 類的であり 普遍的であろう。実存としての狭義の生産行為=《法》の契機は その現象ともども 現代では 必然か偶然かは知らず 世界史的である。それらに対して 実存としての政治行為=《非法》の世界は 今度は それが 経営・政治もしくは愛の その様式としては それぞれ特殊民族的であるだろう。と考えられる。《非法》の世界が 感性の世界としてもちろん共通であるのだが その表現ないし行為ないし実存の様式として それぞれの情況によって差異があるということ このことは 何を意味するものとして受け止められるであろうか。挨拶が 握手するかお辞儀するかで 特殊民族的であるだろう。
まづこの情況を 民族=言語をひとつの単位としてそれぞれ規定するなら 特殊民族的であるということは 特殊言語的であると言ってもよいのだが 問題は ひとつの情況において 特殊《民族=言語》的な情況が 複数において存在するということ これであろう。たとえば一般に 言葉の両義性ということが言われるが それは一つの言語における〔ちょうど 法と不法との対立関係を表わすかのような〕 直接の意味と言外の意味との両義性である。しかし ここでの《情況》際的全体情況においては 諸言語間の言葉の両義性(多義性)として まづそれは 受け止められるであろう。言いかえれば 非法の世界すなわち愛の実存 の様式が ひとつの情況において 両義もしくは多義を持つということである。それは ただ具体的に言って 日本語という一言語において もともとのその言葉の両義性とは別に 旧くは 中国語 新しくは西欧の諸言語(これらは 或る意味で一体である)を それぞれ受け容れて それぞれと互いに重層性(多義性)を帯びるという実情と変わらない。
この流れを止めることはできないであろうと考えられるとき 愛の実存の様式的な差異とそのそれぞれとの共存は この諸言語をその内に採り入れた一言語の構造的な多義性を 焦点とすると言ってもよいであろう。
それでは この認識に立てば 愛の実存の様式 経営の様式 所有の形態(その様式)等々が 今度は ひとりの個体において それぞれ 重層的であり 多義性を有するというのであろうか。――たとえば なるほど 卑近な例をあげれば 異《民族=言語》間の結婚は 日常感覚に必ずしも逆らわない。〔国際結婚は 愛の実存の様式の多重性と考えられなくはない〕。あるいは 民族=言語を超えて 一経営単位が形成される例は 現実である。〔多国籍企業は やはり実存としての政治行為の多重性と考えられる〕。あるいは 私的所有という〔旧〕法の形態のもとに そこからはみ出すようなかたちで 非法の世界の原動力としての情感 の共有による別の所有の形態が 現実に存在することは 否定できない。

  • たとえば 法人企業は 私的所有の形態のもとにあり しかもその法人にはたらく人びとの間(関係)は 綜合的に見て 共同体的であり 私的所有の形態に必ずしも おさまりきれないものがある。

そこで このような事例に対しては 二つの見方が 成り立つと思われる。まづ第一は――たとえば質料主義の自然法理論〔としてのマルクスの思想〕が 類型的に 特に《法》の領域についての普遍的な理論となったのは そもそも 特殊西欧的に 特殊民族的であることによってであったように―― 一般に 特殊民族的・言語的であることによってこそ 重層性を容れた普遍的な《世界》観が見出されるのであって ただ 法・非法・不法の三つの領域の〔非法の世界の様式の差異によって起こる〕さまざまな現象を 何でもかでも 全体として容れることが 個体的な完結としての普遍的な実存の様式ではないとする見方である。
それに対して 第二は 逆に 日本の情況においては 特殊民族的・言語的な固定した立ち場というものは 初めからなく もしあっても そこから離れることこそが 日本の特殊民族的な立ち場であるとする見方である。

  • たとえば 《無思想の思想》とかいった立ち場であり それは 先に見た《無神》の情況から捉えるなら 無視できない見方である。

この第二の見方によれば 《八百万の神》という《汎神という無神》の情況が 《八百万の神》とともに 西欧の《神 もしくは その揚棄》を 同時に 並列的にしろ構造的にしろ 持つという新しい局面の無神の情況へと変わったと見るであろう。(無神の情況にあって 或る種の神学がないとは限らない)。おそらく幾分かは 第二のほうに傾いて これら相い対立する二つの見方によって さらに日本の情況が分析され認識されていくと言ってもよい。(神神習合)。
ただ そのような認識・批判などといった作業は ここでの問題とはしない。ここでは そのような課題についても その基礎理論を いましばらくさらに追究していくことが とりあえず責務である。
ここまでにおいては 実存としての政治行為を 《非法》の世界として そして特に 愛の実存の様式として 《神》のいる情況およびいない情況において それぞれ捉え その後 現代の一般的な情況としては――おそらく 《法》の世界すなわち経済行為の世界史的な展開とともに―― 《非法》の世界が異なった様式を自らのうちに容れるという重層性を持ったと述べ そこでいくらか現代の日本の情況にも及ぼうとした。〔この点は むしり第三章の任務である。この節および第二章としては その展開をむしろ故意に保留した〕ので あった。
次章すなわち第三章では 順序としても 《〈生産〉としての狭義の生産行為――しかも 実存行為として――》を論じることになる。ただ 労働・生産行為を実存行為として論じると言うことは 特殊に経済的な科学を志向するのではなく 経済行為における文学 あるいは 経済行為における言葉の問題として取り扱うはづである。経済行為における言葉とは その両義性のもとの実存としての生産行為を指す。
なお 最後になったが この節では 前節に述べた愛の実存様式における〈《プラトニックな愛》の(1)基本的な否定と (2)経済的な《法》の世界からのその反映もしくは 必然的な要請という両者の矛盾は まづは その様式の多重性という点において捉えられた。またその愛の実存の様式の多重性は 広く生産行為様式の多重性という認識において 経営・政治・所有様式などの重層性として さらに展開されうる地点まで来た。もしくは そのような《非法》の世界の重層性は 《法》の世界と《不法》の契機との対立関係を反映し またそこから必然的に生まれくる実存としての政治行為の領域であるとして さらに展開されうる地点まできた。
なお 《非法》たとえば愛が 《法》すなわち生産行為関係と 《不法》すなわち実存の実存 との常なる対立関係から 生まれるちという三領域の相互の関係は 今後の手無きにおいて 重要である。
《知解(生産)‐愛(政治)‐記憶(実存)》なる――時間的な齟齬をきたす三位一体性。
(つづく→2008-05-03 - caguirofie080503)