caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第二章 《生産》としての実存行為

1 《法 / 非法 / 不法》の世界と実存行為

〔カインは蜥蜴のしっぽをまねび
・・・
アベルは血まみれ
砂地に浅く横たはる
遺骸は芽をふき
鴉がつつく〕
愛人は
腋の下から胯間まで
生けるがままにそよいでゐる
にんげんの毛を泣きながら剃り
他の愛人は
五臓をつひに花鳥(はなとり)に捧げるため
いやはての浄めをする


闇は艶を発しはじめるさだめ
そのときものみな
露を孕み清夜にむかふ


愛人は
愛する人を見失ふ   (第四連)


  *


人の涼しい影は
幼い神神の頬笑む土地をよぎる
大地は低くうたふ


マックス・エルンストは巣に帰らず
ヘンリ・ミラーはオレンジの芳香に埋もれ
スヴェーデンボリは木星人と青い婚姻
地に姫殺し溢れ
土蔵はいたるところで水揚げされる   (第五連)
(《霧のなかから出現する船のための頌歌》)

このあと すぐ続いて

涼しい女の言葉よ
いまこそ土地の血管をゑぐれ
こほろぎ棲む草の根よりもうるほひある
言葉よ


発止 !    (第五連)

と すでに引用した部分が語られる。が ここに 第一章に抜き書きした箇所を離れて引用した部分は 官能(そしてその無常)と絶望との 非法もしくは不法の世界をくぐり抜けるところである。従って逆に そこには それらに対する視点としては 実存の行為の世界が生まれ〔てい〕る契機がある。――そのように考えられるが 繰り返し述べれば 非生産的でがあるが生産行為としての実存は 詩人の視点に立って 第四連では 官能的な世界という非法〔行為〕に相い対し 第五連では 絶望(したがって 政治行為の終焉)の世界という不法〔行為〕にやはり相い対している。このような視点 つまり不在の世界とも言うべき実存行為の視点を ここでは取り上げる。


とりあえず 生産行為の三領域として その相互関係などを確認しておこう。《実存行為》は つねに《政治行為》を支えるべき位置にあり(――いまは 政治を選び取らない実存は 捨象しておく――) しかもその支えなければならないような危機や矛盾は およそ 《狭義の生産行為(質料関係=物質的諸条件)》の中につねに生起するものである。また 《世界》は 第一章では それを《生産行為》として外側から 実存と政治と狭義の生産の三行為領域として捉えたが 今度はそれを 内側から捉える。つまりたとえば 《実存行為》の領域から捉え返せば どうであろうかという問いである。そのときには それはやはり 《実存としての狭義の生産行為》と《実存としての政治行為》と《実存としての〔自己と前の二つの領域とを統合するところの〕実存行為》 これら三つの領域に分類することができるのではないだろうか。
そこで いま仮りにこのような構造において内側から見るならば 第一の《実存としての狭義の生産行為》は 一般に《法(たとえば自然法)》という概念において 次に第二の《実存としての政治行為》は 《非法》という概念において そして第三の《実存としての綜合的な実存行為》は 《不法もしくは反法》の概念として それぞれあらたに把握されるであろうというのが まづ第一の前提である。
すなわち 次のようである。ここでふたたび裏返して捉えるなら 《法》の概念は 《狭義の生産行為(たとえば 労働)》を包む法つまりたとえば 経済法則であり 《非法》の概念は 《生産的政治行為(たとえば 経営・共同自治または愛)》を包む領域であり(そしてこれは 経済活動に もろにかかわりつつ それとして非経済的な領域であり) 《不法もしくは反法》の概念は ここでの《世界》の認識における限り 《〔高度に〕実存的にして 非生産的な生産行為(つまり いわゆる《政治》の核または《国家》または逆に《社会的諸関係の総和》といったもの)》に それぞれ相当する世界であると言えるだろう。
第二の領域である《非法》は たとえば 労働もしくは経済の世界あg 必然性の世界である限りにおいて《法則》的であるのに対して 従って 労働する人びとの社会的な諸関係もこの《法則》のはたらきを免れてはいないということに対して 《ただそこに人が集まる》という意味での素朴単純な直接性および偶然性の世界を主張する。それは 本質的に 《法》じたいから無縁であることを表わしている。現実の具象的な法則に支配される以前の状態を表わす。いや その状態にあっても 《自然法》といえば 人間存在の自然本性において その自然法に支配されるはづだという場合 そのように自然法のもとにあるという
状態は 現実の経済関係から来る必然性の法則の支配をこうむる以前の状態を 想定していると解釈するのである。そういう出で立ちである。経営や共同自治(政治)が――あるいは愛までもが―― 《法》の概念のはたらく世界とは無縁であることはなく また きわめて密接に関連し影響を受けあう関係にあるが 第一章でながめた《政治行為》もしくはそれをめぐる思想の系譜が ひとつの生産行為領域として枢要である限りにおいて この《実存としての政治行為》の世界は 概念として 基本的には 《非法》の世界であると規定する。独立させるべきであるという考えである。

  • この点では わたしの立ち場は わたしの嫌いなM.ウェーバーのそれに近いと言わなければならないかも知れない。

次に 第三の領域である《不法もしくは反法》は 言いかえれば 現実の《国家》あるいは《法律》が 実存行為にとっては《不法もしくは反法》にあたるというものである。《法律》は 特には経済的な生産行為をめぐって捉えるならば その経済活動も つまりはわれわれ人間が《本性としての法(自然法)》にもとづき行ない営むものであるとされるかぎりで この自然法とそのいとなみをそのまま反映させようとしたものであるが たとえば端的に言って その文章表現が 性格的に《禁止》である点において 実存にとって《不法もしくは反法》である。
つまりは 法律がこれこれの行為を禁止するとき 一般に その効果は 実存にとって 本性としての自然法を反映させようとしたものであろうが 実存行為そのものが そうする(つまり自然法に則ろうとする)場合と 法律によって禁止し取り締まることによってそうする場合とは ちがう。むしろ それは 実存にとって 不法ないし反法として わが身に迫る。自然法の内容をおしえみちびくことと 自然法(要するに 倫理規範)に違反するといけませんとおしえることとは ちがう。しかも この前者すなわち《自然法の内容をおしえみちびくこと》すら もはや 自然法を擁する人間本性にとって 不法として映るかも知れない。それほど 本性やその実存は 自然にして自由である。

  • もちろん質料主義者は 物質的諸条件における歴史の推移として 過程的・段階的に《不法》が現われると言うのかも知れない。たとえば階級社会という情況であり たとえば搾取という政治経済的な生産行為である。法律は むしろこの――もしそうだとすれば この――搾取のあり方を規定し 半ばそれをみづからつまり法律によって 正当化しようとしているのかも知れないと見るかも分からない。
  • あるいは単純にたとえば 国家次元の《共同幻想》とよばれるもの つまりこの場合は 法律に限らないのだが これは 《個体とその幻想》に対して 逆立すると言う。これも 単純に 個体の実存にとって 不法というかたちを取りうる側面を持つ。

なお先に引用した詩の第四連 つまり《官能の世界》が 《法》から本来 無縁である点については――だから それは 自然であるが―― むしろ《非法》の世界に属する。実存にとって 不法ないし反法として迫るものではない。
第五連の《地に姫殺し溢れ / 土蔵はいたるところで水揚げされる》という不法行為は 実存を保ち得なくなった場合であるが 実存的にして非生産的な生産行為のおおきくは属する。国家ないし法律が その人にとって 不法として迫りはだかると感受した場合 けっきょくは行き過ぎになるのだが その感覚としての不法からの反作用としてのように 実際の不法行為に及んだ事例である。
さて これら 法・非法・不法の概念を それぞれ敷衍するかたちで 《世界》を実存行為において捉えるのが この章の目的である。重ねて言うならば 第一章は 客観的であろうとして観念的に捉えざるを得なかった世界把握であり ただし歴史主体的であろうとした側面をも強調しておきたいが この章は 個体の実存を基点として 主観的にして実践的であり やはり同じく歴史主体的であろうとする。またそのことが実現して初めて 第一章の《世界》把握が生きたものとなると確信している。
(つづく→2008-04-29 - caguirofie080429)