caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第二章 《生産》としての実存行為

2 法 / 非法 / 不法から成る概念としての《世界》

《世界》は 概念としては・つまり従って 実存行為としては 法と非法と不法とから成ると分析される。
たとえば 《実存としての労働の世界》は 生産‐交通(交換)‐消費の過程をつらぬいて もしくは 所有論として 《法》の概念が 疎遠なものであってはならないという認識が持たれる。この法は――第一章で見たように―― 《神》であり つまり 《神との契約》であり あるいは その神の揚棄としてのたとえば《自然法》であり また そこからは たとえば 労働価値という法の普遍的展開によって 一つには 所有行為の自由であるとか(つまり 大きく資本家的市民の像) あるいは もう一つには 所有行為の個体的な完結であるとか(つまり 資本家的市民ないし私的所有の揚棄の像)が 説かれてくるだろう。

  • なお 資本家的社会と未来社会とが 同一の軌道の上にあると考えられる。

たとえば 《実存としての経営・政治の世界》は 《実存としての労働・協働の世界》における《法》から 基本的に 自由である。あるいは 現実には この法を 意識的にしろ無意識的にしろ 破ったとしても その罪を持ちこたえて 一つの協働の単位集団を経営し治めること これが この《非法》の概念の世界である。
さらにたとえば 《実存としての実存》=概念としての政治は 個人的にも共同体としても 高度に実存を保って 《実存としての労働の世界》における《法》の概念が 歴史的・現実的に展開(=揚棄・再揚棄)されていくとき その展開から 自由でない場所にいて しかも直接には 自由であろうとする。だから その展開に与からない(=従って 《不法》)か または その展開に一般にさまざまな形で対抗的に与かって それを持ちこたえる。または 持ちこたえない(=従って 《不法》)。その世界である。
不法であり反法であっても それ(政治)が 高度に実存を保って 実存としての実存行為であるかぎり 《世界》は 他の二つの行為領域 また 法と非法 これらとそれぞれ統合されて 自律する。もしくは 自治を保つ。しかし ただ 政治が(概念としての政治が) 実存を保ち得ないとき それは 崩壊せざるを得ない。
たとえば アウグスティヌスが 世界は《神の国(=法)》と《地上の国(=非法)》とから成ると言うとき 概念としては以上のように それを考えることができる。実存は そもそも不在の世界であり 《実存としての実存》=不法の世界は この二つの国に《不在》として それぞれ相い対する。また このふたつの国は分立するというのではなく 概念として分かれており 現実=生産行為としては 互いに分かちがたく入り組んでおり 見分けはつかないというものである。(後述)。
この《不法》は 非生産的生産行為として 個人的には 一般に 《文化》の領域を担う。すなわち 科学・芸術・スポーツ( disport =遊び)などである。またこの文化の領域は 共同体としての《不法》つまり 国家・政治・法律とともに 不法であるかぎりにおいて いわゆる上部構造を形成する。〔労働行為じたいの世界に 技術・科学などの文化がないわけではない〕。また 個人的な不法が 先にも触れたように 《地に姫殺し溢れ・・・》というように 実存を保ち得ない場合には いわゆる不法行為として 法律違反である。
また 《闇は艶を発しはじめるさだめ / そのときものみな / 露を孕み清夜にむかふ》感性の世界は 《遊び》として 不法であり 《法》から自由であるかぎりにおいて 非法である。――また 非法である経営というのは 一般に ひとつの生産協働単位(企業)の経営行為をいうのであるが より正確にな概念規定としては 一般に 人が複数において集まり その集まることに明確な目的があって しかも そこに集まる者が だれと誰とから成るかということは究極的には偶然であるとき そのとき誰にせよどんなかたちにせよ この偶然を 集団として一定の目的に向けて治めることである。そこでそのとき 集まること(その血縁・地縁)にも 必ずしも明確な必然性や目的がないとき しかもその集まりの外郭は 明確であるとき それを治めるのは 一般に 国家の次元での経営すなわち政治である。
それすなわち政治行為は そこに集まる個々の成員一人ひとりの個体の《法》に反してでも 為されるという意味で 基本的に概念として――共同体の《政治》の核として―― 《不法》である。
なお このような概念としての・理念としての・もしくは信仰としての《政治》は 非法の領域の経営ないし政治行動とは 基本的に区別される《不法》の本来の領域である。それは 《社稷》あるいは《民族(ナシオン)》と言ってもよく あるいは 《民族》を揚棄すべき場合には 《社会的諸関係の一定の枠組みにおける総体》とも言うべきものである。
また 個体の《法》に反するという個体的な不法もある。それは 先に述べた芸術である。
なお 非法の世界は 法(すなわち 自然法のうちの法)から自由であって しかも 不法とちがって その自然または/ ならびに法とともに それと同じ側に立って存在するよりほかにない。ただ 非法は 《自然 / 法》の要請を その流れを 導き 経営する領域であるといった点が その存在の根拠である。固体のいて 生産・協働という社会的な自然を導くのは 経営である 一般に人間的な自然を導くのは 愛の領域である。《経営 / 愛》は 広義の《行動としての政治》として ここでは 定義する。
このような分析として。

3 《実存としての労働・生産行為》の世界の 《法(自然法)》が 普遍的に展開されることによって 《実存としての経営・政治行為(つまり《非法》)》の世界も その展開されるながらに沿って また 沿ってのみ 営まれ 《実存としての実存(つまり《不法》)の世界は 全面的に 前二者の領域へと揚棄されるという見解について

または 質料主義者の一部の立場 もしくは 《ゆるし》の揚棄を誤解する立ち場について。
《省略》に従う。


(註)

Few men would maintain that the failure of technology to achieve everything expected of it is due to exclusively to a failure to develop fast enough, and not at all to the fact that it has often developed in the wrong direction ----- producing, for example, instruments whish foster and provide for a more abundant life. May it not be that in some fashion roughly analogous, we have educated ourselves out of certain ideas necesasary to our survival, and that modern thought, like modern technology, has been busy chiefly with the preparation of instruments for an efficient as well as spectacular spiritual suicide calculated to occur at about the same time that the physical world is destroyed ?
( Joseph Wood Krutch: The Measure of man 1953 )

(つづく→2008-04-30 - caguirofie080430)