#6
もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
第一章 《生産》としての政治行為
7 《神》のいないもとでの政治行為(その三)
スサノヲの側において 従って それと対立する関係にあるという意味では アマテラスの側においても その両者の関係が―― 一段落としてではあろうが―― それぞれの広義の生産行為(その関係)として確立して安定するのは すでに触れたように スサノヲが 別の地方に定住することができたということによってであった。という一面をも見ることは 上に見た価値自由的な もしくは 歴史自由的な 社会の生産行為としての完結は じつは ある意味で 一面的なものであって その両者の実存的・経済的な対立は 案外 根が深いと言わなければならないかも知れない。
このことは 重要であり ここであらためて取り上げたいと思うのであるが ただ 前言を翻すべき事実であるとも 思われない。なぜなら 種としての社会の(つまり個人としてでもなく全体の類としてでもなく 部分的な単位体としての社会の) 生産行為にかんする完結は やはり そのつど成っていると言うべきであって しかもその種としての完結=揚棄は 《種として》でることによって その反面で つねに――つまり その乗った手の平から 羊がふたたび一匹二匹とこぼれ落ちるかのように―― やはり種としての矛盾が 生起しているというものであるだろう。
その点では 西欧の系譜においては 類としての完結を見るべき 歴史的な揚棄の形態が いくつか 順次におおきな基軸として成ったというふうに見ることができる。ただ そこで逆に 或る意味で 類を見ることに意を用いすぎて 種としてのほうの完結が おろそかに――論理的な おかしなことだが――される嫌いがないでもない。種としての存続は 或る意味で 類としての生産行為と同じ程度に 枢要なことがらではある。
スサノヲの物語に戻ろう。
かれは 地方に落ちのび 或る老夫婦に出会い かれらのために 何らかのかたちでかれらの生産行為を阻害するヤマタのヲロチなるものを退治して かれらの娘を娶ることになる。そして
――吾(あれ)此処に来て 我が御心すがすがし。
とのりたまひて 其地(そこ)に宮を作りて坐(ま)しき。・・・
(古事記・上つ巻)
と続く。ここで ある意味で スサノヲの実存について その複雑な心境が察せられる点は 次のようなことがらである。
たとえば スサノヲは 老夫婦に名を訊かれて名のるとき
吾はアマテラスオホミカミの同母弟(いろせ)なり。
と言って 明らかに アマテラスとともに 依然として あると言っていることである。あるいは かれは ヤマタのヲロチを退治するとき その尾のひとつを切ったが 刀の刃が欠けた。何だろうと思って その尾を割いてみると 《ツムガリ(都牟刈)の太刀》が出て来た。そこでかれは
この太刀を取りて 異(あや)しき物と思ほして アマテラスオホミカミに白(まを)し上げたまひき。
とやはりなっている。つまり それは 献上され 《草薙の大刀》となって アマテラスのもとに残ることになる。
- もともと神話であるが この箇所について スサノヲの側からアマテラスのほうへ 太刀を献上したというのは あとから 日本を統一した側の歴史書として 編集されたという見方が出るかも知れない。問題は 追放されたあとも そのスサノヲとそしてアマテラスとの間に 関係がつづいたということにある。
ここでは 端的に言って このゆな疑惑については 古事記の最終的な記者の 政治的行為としての意図を勘案しなければ もはや 成り立たないであろう。それによれば ここでは あくまで アマテラスに従属するというスサノヲの姿を離れないことになる。問題は このような 平面的で しかも二重の枠組みを持ったと言える構造的な政治行為の その総体としての情況である。おそらく 依然として ここでも すでに述べたような二つの見方がなされるものと思われる。つまり一方では 高度に政治的な実存行為があり 他方では 非実存的にして経済的な質料関係重視の(その意味で 資本家的市民型の)政治的行動がある。いづれにしても ここには類としてという視点を望み見ての 種としての社会的揚棄の様態がある。情況としての政治行為であり それを中心とした実存=労働=政治の生産行為とその世界がある。
以上は 模型であり 客観的であろうとした社会的視点に立ってのものである。いづれにしても このように 《神》のいないもとでの政治行為を見てきて 次には この章の締めくくりとして このような日本の情況の現代においての問題である。つまりは 端的に 西欧の模型としての《神》のもとでの政治行為が いかに受容されているのか。もしくは 逆に西欧の思想による 社会的な矛盾の揚棄の形態が 日本の情況を包み動かすものであるのか。これらについて考えておくのがよいだろうと思われる。
8 日本の情況における政治行為
初めに スサノヲの挿話について いまひとつ触れておきたい。
スサノヲは 出雲の国の或る老夫婦のために ヤマタのヲロチを退治してやり かれらの娘クシナダヒメを娶る。そこで
――吾(あれ)此処に来て 我が御心すがすがし。
とのりたまひて 其地(そこ)に宮を作り坐(ま)しき。故(かれ) 其地をば今にスガ(須賀)と云ふ。このオホカミ(=スサノヲ) 初めてスガの宮を作りたまひし時 其地より雲立ち騰(のぼ)りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌はぞ。
というように 《歌》もしくは《うたう》ことにおいて 情感の共有をとおして 矛盾が 種として揚棄されるという様態も然ることながら やはり 種としての社会的な矛盾の揚棄が このように クシナダヒメとの性関係もしくは対(つい)関係幻想を基点として 実存=労働=政治という生産行為へと発進することにおいて 見出されることも さらに別の一つの様態である。卑近な例でありながら そのような点にも簡単に触れておいて この第一章を振り返ってみよう。
西欧における社会的な矛盾の揚棄は――そのための政治行為は―― 要約して言えば 《神》の揚棄であり その《愛》であり 愛の最終的な形態としての《ゆるし》であろうと考えられる。(――《ゆるし》の揚棄は いまはまだ措く)。そこには 初めに 類としての生産行為を志向する動きがある。日本においては それに対して たとえば《歌垣 / 嬥歌(かがひ)》といった情感の共有の様態が まづ現実にあげられる。あるいは 質料関係(=労働・経済)的にも 実存的にも 社会的な矛盾を問い詰めていったところには 《ウケヒ(誓ひ)》があり 《占合(うらな)ひまかなはしむ》ことがあり(もしくは それらしかなく) つまり 互いにおのおの外に神意を伺うという・従って 無神論に立った その最終的な揚棄の様態があった。おそらく ここでは その意味で 《神》はむしろ 初めに 揚棄されているのだろう。
だから 逆に 《ウケヒ》や《ウラナヒ》まで進むということは アマテラスとスサノヲの場合で言えば 前者は後者を 決して《ゆるさ》ない。何故ゆるさないか。それは 初めに 神が ないからである。神の揚棄の最終的な形態としての《ゆるし》を 与え合わないのである。アマテラスが スサノヲを《ゆるさ》ないどころか 他方で スサノヲは ウケヒに勝っても その乱行を改めない。改めないことによって 逆に スサノヲも アマテラスを《ゆるさ》ないのである。そうして 一方は 現体制を半永久的に維持し 他方は 放浪に放浪を重ねるのである。一つの《アマテラス‐スサノヲ》連関体制。――
このように考えるとき 日本のこのような情況においては 問題点を指摘するとすれば――ちょうど 西欧において 《神》の揚棄またその再揚棄が 政治行為の系譜の中心を占めるものであるように―― ここでは 《無神》の揚棄そして再揚棄が あるいはその政治行為の中心的な課題を占めるべきであると 言うことであるかも知れない。
以上の点をまとめて考え合わせれば――何度も繰り返しているようだが この章では 客観的であろうとして 観念的な視点であることを超え得ないが―― おそらく 日本の情況に対しては すでに提示されているとも考えられる。
たとえば 第一の政治行為の道は 《無神》の揚棄をいっさい要らないとする立ち場である。《無神》の情況においては 類としての矛盾の揚棄は 元来 無縁なものである。何故なら 種としての揚棄は すでに 初めに 成されているのだからと。
第二の政治行為の道は それに対して《無神》という価値自由的な 歴史自由的な状況はあくまで 類としての生産行為情況へと揚棄されなければならないと説くものである。
ここでは さらにいくつかの道が 分かれて入ると考えられる。この揚棄論の第一の立ち場は あくまで 日本の情況に独自の揚棄が成されるべきというものであろう。たとえばそれは 《ウケヒ》ちう或る意味で悪無限の様態 これを揚棄する模索が為されてしかるべきと説くであろう。
揚棄説の第二の立ち場は 《神》の導入によるそれである。もちろん この《神》というのは 西欧の歴史的な伝統としての神であり 先に見たように 揚棄・再揚棄された神である。
なお この最後の立ち場には 《神》の揚棄の系譜が行き着いた地点としての 《ゆるし》の揚棄の思想が考えられる。いわゆる質料主義であり 西欧の一つの流れとしてのこの立ち場は 日本の情況においても その質料関係としては・つまり 労働・経済的な狭義の生産行為としては・従って その限りで少なからず 実存行為としても 類型において 資本家的市民の行為様式をじゅうぶんに受容しているとの事実に立って 思想的には大きな力を有している。
以上 三つないし四つのいづれの立ち場に立つにせよ 日本の情況は 現代においてきわめて複雑であり それぞれの立ち場が その主張を全うしうるようなそれぞれの領域を持っているとまづ言ってよい。ここでは これ以上触れず 最後に 中で 揚棄論の第一の立ち場は 見落とされがちであるが それは 他の立ち場を排斥しないかたちで 綜合的に発進させうるもののようにも思われると述べるにとどめて この章を終えることにしたい。
この《序説》は もとより 立ち場の主張に目的があるのではない。次章以降では この最後の結びに述べたことからは離れて ふたたび《生産行為》の世界を描くことに向かう。ただし 次にそこでは 《実存行為》に焦点をあてることによって 社会的・客観的であるよりは 個体的・主観的に社会的な視点からの叙述へと進むつもりである。
(つづく→2008-04-28 - caguirofie080428)