caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第一章 《生産》としての政治行為

6 《神》のいないもとでの政治行為(つづき)

ここで ただちに 日本の社会に入る前に 前節からつづいて考えられる点を いま少し述べておきたい。
それは 西欧において いわゆる社会主義的な 質料主義の思想が打ちたてられる前にも たとえばアダム・スミスは(――かれは 神を必ずしも揚棄すべき対象として見ていなかったかも知れないが――)・従って 近代の市民はと一般的に言える人びとは 総じて資本家的市民 bourgeois capitaliste の像を持つことにおいて その系譜として 質料主義に立っていたと見ることができるという点である。つまり言われているように 資本的市民の像も――封建時代の生産行為様式から抜け出るに際して―― 労働から遊離した政治的行為からの 経済・労働行為の解放を目指し そこにおいて 実存の筋が一本つらぬかれるという 個体的に完結した新しい生産行為者のそれを描くものであったという点においてである。
ただし 《形相》の世界の像が そのまま 《質料関係》に反映すると見るかどうかに関しては 必ずしも悲観的ではないのだが 微妙な点が残って問題となる。《生産行為》の三領域として 《実存》は 形相の世界を特に内的に形成すべき領域であり 狭義の生産行為である《労働》は この形相の世界〔のつねなる形成・再形成〕を維持するべく質料〔関係〕にはたらきかける行為領域である。しかも 実存の現実性としての領域は この労働(要するに 仕事)の領域である。

  • のちに第二章以降では実存としての労働は 実存としての実存行為に対して 逆立関係にあるとし 従って この指摘とは逆に 後者が 前者と後者とを結ぶ現実性であると説くことになるが その点には 注意しておくべきかも知れない。

したがって 今度はこの質料関係つまりおおきく生産諸関係にはたらきかけるべき領域が いまひとつ別にある。つまりそのような諸関係を 形成・発展・再形成すべきその領域というのは 《政治行為》である。こう見ることができよう。
そこで この《政治行為》の領域に限ってながめれば 西欧のその系譜においては これまで見たところで 
(1) 政治的行動のカインとその追放。――《神》によるカインの揚棄
〔(2) アダムとエワの第三子セツとその子孫ノアを通じての類としての人間の系図〕。
(3) その系図の一人としての・しかも《神格》を有するとされるキリスト・イエスによるたとえば《カイン》の社会的揚棄。――《カイン》からの社会の解放。
その後少し飛んで 質料主義としては
(4) 近代市民社会の形成。すなわち 今度は《カインの幻影》もしくは《社会的カイン》というかたちの封建的ないわゆる《政治》からの市民的生産行為の解放。そしてさらに
(5) 市民資本家 capitaliste bourgeois の経済・生産行為もしくは広く生産行為様式そのものに内在する 今度は《ノア的な政治的行為》の揚棄

  • ノアは 神において《義(ただ)しい人 全き人であった》が それは 神が カインを追放し揚棄する限りにおいてであって キリスト・イエスを俟たなければ その神は揚棄されない。つまり ここで いわゆる社会主義的質料主義〔によって〕政治行為〔を揚棄しようとする〕者は 資本家的市民の《ノア的な部分》を揚棄しようとするのである。資本家的市民は 或る意味で プロテスタンティスムというノアの系譜である。


さて この《政治行為》(またそれの揚棄の系譜)は 日本の社会において いかに表現されるであろうか。また そこには それとは違ったものが見出されるのであろうか。ここでは もとより 日本の歴史をたどろうとするのではない。日本社会という《世界》については まだ古事記・しかもそのごく一部であるアマテラスとスサノヲの物語に拠って いくぶん ながめた程度である。おそらく この日本的《世界》においては 必ずしも編年的な歴史の中に この政治行為の系譜をたどらなくてもよいように思われる。
それは どういうことか。それは 日本の社会においては 労働=政治=実存の《世界》は そのように垂直的。歴史的な道筋においてであるよりは つねに平面的なかたちで 一つの世代・一つの時代の中において それら生産行為の三領域が 統合されており つねに統合されることを志向すると考えられるからである。
つまり 《生産行為》は すでに三領域が きわめて高度な政治行為を中心として統合されていて あとは 歴史の揺れとともに 現実が追いかけてくるものであるとさえ言いうるようなたぐいに属す。その意味では 日本という一社会において・つまり ひとつの種としての社会=時代において いわば 類としての生産行為の系譜も 完結している〔かに見える〕と言える。
一つの時代の完成および終焉とともに その時代のカインあるいはノアは それらが揚棄されていようがいまいが 或る意味で すっかり《水に流され》完結を見るかに見える。このことは 類としての生産行為の成就が 個体の中において 完結を見るという西欧の思想様式が 不断に 《政治行為》を揚棄し再揚棄して形成したものであるという歴史的系譜に比べて 対蹠的であると言わねばならない。日本の社会においては 個体が 種および〔擬似的な?〕類として 実存=労働=政治行為の世界に在るとき 歴史的な《政治行為》の揚棄は――すでに為されていると見られるのであって―― 必ずしも問題にはのぼらないというのが 実情である。
それでは たとえばあのアマテラスとスサノヲの物語において 仮りに 種および類としての《世界》の揚棄があるとして そのような揚棄とは いかなる様態を言うのであろうか。必ずしも この様態を克明に叙述することが目的ではない。が取りあえず西欧の《世界》揚棄の形態と比較する上で ながめてみよう。


たとえば 《旧約》において神は カインを追放した。――イザナキのカミは その第三子スサノヲを追放する。(海原を担当させて 実質的に 《此処》から遠ざける)。――《新約》として イエスは 《異邦人または取税人同様に扱う》ことで カインを社会から解放せよと説く。そしてその解放・したがって 同じことで 社会のカインからの解放は たとえば愛の最終的形態である《ゆるし》によって完結するだろうと。――イザナキのカミの第一子アマテラスは その弟スサノヲを むしろ《ゆるさ》ない。少なくとも かれに対して 疑うことをやめない。いや とことんまで 疑いとおす。《ウケヒ》が その判断の拠り所としての最終的形態である。
さらに 単に 個体の内なるカインだけでなく 社会的に生産行為様式の一属性として〔たとえば 商品として・もしくは貨幣として というようにして〕 経済・労働行為そのものの内に潜むカインもしくはその対極ノア これらは ただ《ゆるし》だけでは 揚棄されないとしたのが マルクスであった。なぜなら かれは 《ゆるし》が 生産行為の制度としての内なるカインもしくはノアを生むのだと見るからであった。

《ゆるし》の揚棄とは 何か。今は措く。
さて 《ウケヒ》によって スサノヲの身の潔白が決まると 敗れたアマテラスは スサノヲの放逸に対して 咎め立てをいっさいしない。逆に それが昂じると 自らが身を隠す。そこで 《天の石屋戸》の一節は 少なくとも種としての 日本社会という世界の揚棄の様態をうたっている。そこで 最終的に 神々によって ふたたびスサノヲが追放されるに至るまで 少し長いが 文章を引用しよう。

 故ここにアマテラスオホミカミ見畏(みかしこ)みて 天の石屋戸(いはやと)を開きてさし籠(こも)りましき。ここにタカマノハラ皆暗く アシハラの中つ国 悉(ことごと)に闇し。これによりて常夜(とこよ)往(い)きき。ここに万(よろづ)の神の声は さ蠅(ばへ)なす(* =蠅の如く)満ち 万の妖(わざわい)悉に発(おこ)りき。
 ここをもちて八百万の神 天の安の河の河原に神集(かむつど)ひ集ひて タカミムスヒのカミの子 オモヒカネ(思金)のカミに思はしめて 常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて 天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り 天の金山の鉄(まがね)を取りて 鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて 伊斯許理度売(いしこりどめ)のミコトに科(おほ)せて鏡を作らしめ 玉祖(たまのや)のミコトに科せて 八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百個の御統(みすまる)の珠を作らしめて 
 アメノコヤネ(天児屋)のミコト・フトダマ(布刀玉)のミコトを召して 天の香山の真男鹿(まをしか)の肩を内抜きに抜きて 天の香山の天の朱桜(ははか)を取りて 占合(うらな)ひまかなはしめて 天の香山の五百個真賢木(まさかき)を根こじにこじて 上枝(ほつえ)に八尺の勾璁の五百個の御統の玉を取り著(つ)け 中枝(なかつえ)に八尺鏡(やたかがみ)を取り繋(か)け 下枝(しづえ)に白和幣(しらにきて) 青和幣を取り垂(し)でて この種々(くさぐさ)の物は フトダマのミコト太御幣(フトミテグラ)と取り持ちて 
 アメノコヤネのミコト 太詔戸(ふとのりと)言祷(ことほ)ぎ白(まを)して 
 アメノタヂカラヲ(天手力男)のカミ 戸の掖(わき)に隠り立ちて 
 アメノウズメ(天宇受売)のミコト 天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて 天の真拆(まさき)を鬘(かづら)として 天の香山の小竹葉(ささば)を手草に結ひて 天の石屋戸に槽(うけ)伏せて踏み轟(とどろ)こし 神懸かりして 胸乳をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここにタカマノハラ動(とよ)みて 八百万の神共に咲(わら)ひき。
 ここにアマテラスオホミカミ 怪しと以為(おも)ほして 天の石屋戸を細めに開きて 内より告(の)りたまひしく
   ――吾が隠(こも)りますによりて 天の原自(おのづか)ら闇く またアシハラの
    中つ国も皆闇(くら)けむと以為ふを 何由(なにゆゑ)にか アメノウズメは楽
    (あそび)をし また八百万の神坐(いま)す。故 歓喜び咲ひ楽ぶぞ。
とまをしき。かく言(まを)す間に アメノコヤネのミコト フトダマのミコト その鏡を指し出して アマテラスオホミカミに示(み)せ奉る時 アマテラスオホミカミ いよよ奇(あや)しと思ほして 稍(やや)戸より出でて臨みます時 その隠り立てりしアメノタヂカラヲのカミ その御手を取りて引き出す即ち フトダマのミコト 尻くめ縄をその御後方(しりへ)に控(ひ)き度(わた)して白(まを)ししく
   ――これより内に還(かへ)り入りそ。
とまをしき。故 アマテラスオホミカミ出でましし時 タカマノハラもアシハラの中つ国も 自ら照り明りき。
 ここに八百万の神共に議(はか)りて ハヤスサノヲのミコトに千位(ちくらい)の置戸(おきど)を負(おほ)せ また鬚を切り 手足の爪を抜かしめて 神逐(や)らひに逐らひき。

のちに この追放されたスサノヲは すでに触れたように 出雲の国にその統治を興すのであるが ここでは それとは別に〔いや その追放も含まれるが〕 種としての社会が いわば価値自由的に 人を中心として 揚棄される姿が描かれている。アマテラスとスサノヲの関係を たとえば階級対立と見るならば 周囲の神々は あるいは両階級に分かれてもよさそうなものである。しかしかれらは ことごとく 現在すでにあった揚棄の様態のほうに就いて アマテラスのほうを 生産行為の場にふたたび引っ張り出そうとし スサノヲに対しては 無関心であり 揚棄の様態が動揺させられたことに対して責めている。責めた結果 かれを罰して追放するのである。その限りにおいてのかれらの政治行為―― 一方で アマテラスに対する 他方でスサノヲに対するそれ――は 首尾よく果たされる。しかもその揚棄は 最後には 《天の香山の真男鹿の肩〔の骨〕を内抜きに抜きて 天の香山の朱桜を取りて〔朱桜で 鹿の骨を焼き〕占合ひまかなはしめ(=神意を推し測らせ)》ることに帰着する。拠るところは そこであるという様態である。
このことが カインや ノアから イエスを経て 質料主義者に至るまでの 西欧の政治行為揚棄の系譜と 異質であるのは 明らかである。ひとことで言って 階級対立であるとか あるいは 階層分裂に対してさえ およそ価値自由的な 種としての社会の揚棄(あるいは 既に成っている揚棄)の様態が そこにある。まづ第一にこの節では 現在の日本の社会においても 構造的に必ずしも その昔から変わり果てたとは言えないであろうことを確認し 次の点へと移っていこう。
(つづく→2008-04-27 - caguirofie080427)