caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第一章

2 《生産行為》の三つの領域

波うちぎは
カインは蜥蜴のしっぽをまねび
本体はたちまち変身精子と化す
異人さんに運ばれて
新しい土地に繁殖


アベルは血まみれ
砂地に浅く横たはる
遺骸は芽をふき
鴉がつつく
・・・
(第四連)
大岡信:《霧のなかから出現する船のための頌歌》

アベルは羊を飼う者となり カインは土を耕す者となった。
日がたって カインは地の産物を持ってきて 主に供え物とした。
アベルもまた その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。
主はアベルとその供え物を顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので カインは大いに憤って 顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた。
 ――なぜあなたは憤るのですか なぜ顔を伏せるのですか。
  正しいことをしているのでしたら 顔をあげたらよいでしょう。
  もし正しい事をしていないのでしたら 罪が門口に待ち伏せています。
  それはあなたを慕い求めますが あなたはそれを治めなければなりません。
カインは弟アベルに言った。
 ――さあ 野原へ行こう。
彼らが野にいたとき カインは弟アベルに立ちかかって これを殺した。
(《創世記》4:2以下)

最初に取り上げるのであるが ここで 《蜥蜴のしっぽをまね〔ぶ〕》ことは もとより卑劣な政治的行動である。そして 《罪が〔人を〕慕い求め〔るとき〕 それを治めなければな〔らない〕》ことは おおきく言って 政治行為に属す。共同体関係にかかる行為である。共同自治として高度に社会的な判断が必要となる行為である。
カインもアベルも ともにそれぞれ《生産》者である。広く市民である。しかも両者とも――潜在的にしろ―― 政治行為者でもある。政治行為の主体である側面を その人間存在じたいに備えている。近代の言葉で 《分業 したがって 協業》 あるいは 《生産行為の諸関係》というとき これらの概念の中に 《政治行為》は そもそも 《生産行為》の一領域として 含まれるものではなかったのか。
もちろん そのときには 《カインとアベルの対立》というのは たとえば 一つの社会にとってその内部で繰り広げられる氏族・種族・身分・職業などなどによる階層的な差異や対立を表わすか もしくは どんな所有形態にあっても必然的に起こる生産諸力の差異・従ってその差異に基づく政治的な為政と被治ないし支配・被支配の意識(=つまり現実)という階級的な差異や対立を表わすかする。まとめて種としての社会的矛盾を現わしているか さらにあるいは それぞれの社会にとっての外部に繰り広げられるところの民族(=言語あるいはその他として土地・血縁など)の差異や国家としての差異による 自然で偶然的あるいは必然的な対立を表わし その社会の内的な矛盾と密接に関連して 類としての社会的矛盾を現わしているか これらいづれかである。これは 言うまでもないことである。
もっとも 《蜥蜴のしっぽをまねぶ・まねばない》は別としても 《罪を自らの内に治める(政治)・治めない(自己否定)》は 社会的な見地から 生産かつ政治行為に属すと見られると同時に 一個の実存的な見地からは 文学哲学的な倫理行為に属すと見られるとも言わなければならない。おそらく この後者の領域は それを取り分けて一言で言うなら 概念として 《非生産的な生産行為》であると言うことができる。迂回生産としての生産行為である。もしこうだとするならば ここで 純粋社会学の概念として 《生産行為》から成る《世界》の三つの領域を得たことになる。
第一に 経済的活動という生産行為そのもの(分業と協業を含む全体的な協働関係)。
第二に 政治行為という生産行為(協働の場に起こるあやまちとその罪の共同自治)。
第三に 個人的に政治か非政治かを問う実存的な・非生産的生産行為(罪の内的自治また広く生き甲斐)。
これら三領域である。以上は 最初に 《政治行為》というものを問い それが一つの生産行為として 《世界》の中にいかなる位置を占めるかを問い求めた結果である。まづ簡単に述べた。

3 《神》のいるもとでの政治行為

さて カインとアベルとは それぞれ《生産》者であり 潜在的にしろ社会的には必然的に 《政治行為》者である。そうであらざるを得なかった。そこでの問題の一つは そのような観点・領域とは別に カインにしろアベルにしろ 政治(つまり 罪の共同自治という悪をともなう事柄に直接現場においてかかわる能力行為)を取るか取らないかの《実存的な生産行為》の領域にもあった。このことを見過ごすわけに行かないという点である。しかも おそらくは――その一方による他者の殺人という・《政治行為》じたいを終わらせるべき政治的不法行為へと その行為が進展したから言うわけではないが―― 弟アベルに《神》があって 兄の殺意を受け容れた〔と見る〕ということにだけではなく 《本体はたちまち変身〔して〕精子と化》したというカインにも その兄カインにも その同じ《神》があったということに この場合の問題点は存在するのであろう。
この神が 歴史を下って・または 無時間的に キリスト・イエスの出現によって 人の側において どのように揚棄されたかは知らない。また 質料主義者〔――これは いわゆる唯物論者である。つまり この《神》を思うことは 単なる形相=イデアの世界に属すとして 《世界》は 質料(質料関係)が土台となって動くと見る人びと――〕によって かれらの個人的な実存的な行為領域において どのように その神がさらに揚棄されたかも やはり知らない。しかし いづれにしても この神を積極的にしろ消極的にしろ 公然とないし隠然と もしくは まったく否定的に規定することによ〔って規定され〕るかたちでにしろ 受け継ぎ受け容れて来た一般に西欧の人びとは このアベルとカインの《世界》もしくは その破綻を いかに見るのであろうか。
いましばらくは 《経済・労働行為としての生産行為》を捨象して 《政治行為》および《実存的な生産行為》の二領域に限って論じるとしよう。とすれば これら二領域は きわめて密接につながった関係にあるとまづ 言わなければならない。一般に 《〈罪〉を持ちこたえる》のは 政治行為であり かつ それを選び取ったという実存行為である。他方 このような政治行為をいさぎよしとせず それとの共存をも嫌うという別の実存行為も考えられる。政治行為〔を選びとった実存行為〕者と 政治を取らなかった実存行為者との関係は カインとアベルの例のように――この場合 先に見たように 両者の実際の争闘関係を想定しないとしても―― 共存の困難なものであるように 一面としてでも 見られる。

  • ちなみに 階級対立とは むしろ このような《政治》対《非政治》の対立の要素が 少なくはない。逆に 階層の対立関係には むしろ 質料(もの)的な格差が直接にその原因として大きくはたらき その場合は 政治対非政治というよりは 《政治行為》と《経済行為》の二領域の対立とそして提携関係が 問題となるだろう。

このように一般論として見るとき 神の土壌のもとにある西欧の人びとが これら神話の兄弟の関係の世界についてどう見るかは 或る程度 推測され得なくはない。
創世記は さきほどの引用のあと 続いて次のように記す。

主はカインに言われた。
  ――弟アベルは どこにいますか。
カインは答えた。
  ――知りません。わたしが弟の番人でしょうか。
主は言われた。
  ――あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいま
   す。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけ
   て あなたの手から弟の血を受けたからです。あなたが土地を耕しても 土地は も
   はやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう。
カインは主に言った。
  ――わたしの罰は重くて負いきれません。あなたは きょう わたしを地のおもてから
   追放されました。わたしはあなたを離れて 地上の放浪者とならねばなりません。わ
   たしを見つける人はだれでもわたしを殺すでしょう。
主はカインに言われた。
  ――いや そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう。
そして主はカインを見つける者が だれも彼を打ち殺すことのないように 彼に一つのしるしをつけられた。カインは主の前を去って エデンの東 ノドの地に住んだ。
(創世記4:9以下)

神の土壌のもとにある政治と実存との葛藤は 必ずしもこの記述の意図するところをもって終わったわけではない。何故なら 神のもとにおいて そこで 明確に罪の領域に足を踏み入れ その罪を持ちこたえるという政治(自治)が存在するということ(――この点は カインとアベルの《旧約》の世界だけではなく キリスト・イエスの《新約》の福音の世界についても のちに見るはづである――)の反面において そもそも このような政治行為に対していかに身を処すかを問う実存行為は やはり神のものではなかっただろうか。あるいは この両面は 前者の政治が 旧約の世界に属すのに対して 後者の実存は キリスト・イエスのもたらした世界であると言うのかも知れない。(したがって この点についても のちに触れる)。あるいは 無神論を標榜する質料主義者――いわゆるマルクシスト(むしろここでは アジア的になのだが)――は 非政治的実存の 経済としての生産行為における貫徹 もしくは 同じことだが 逆に 経済としての生産行為が 罪である政治行為を排して 神のもとの実存としてありつづける世界を 想い描いたのではなかったろうか。と問うことは 可能だと思われるからである。
このようにカインとアベルの物語は そしてそれへの視点 言いかえれば 政治と実存との関係への視点 これらは 問題として残るが いま これで一たん離れることにしょう。続けて論じる前に 次には 必ずしもそれと対蹠的であるというのではないが 日本の社会に存在する或る姉弟の物語を取り上げ これに触れて 問い求めをすすめるのがよいであろう。もっとも この神話の姉弟のほうに ここでは 重点がある。
(つづく→2008-04-24 - caguirofie080424)