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もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422
第一章 《生産》としての政治行為
4 《神》のいないもとでの政治行為
日本における《神々》のもとでの生産=政治=実存の行為領域を ここでは 《古事記》に拠って拾ってみることにする。カインとアベルの兄弟に対抗するわけではないが そこからは 天照大御神と須佐之男命の姉弟の物語を取り出して そこに焦点をあてることができる。
ここで取り上げたい物語は カインとアベルのと同じようにやはり 言ってみれば この両者の総体的な《生産諸関係》が おおきく揺れ動いたと見られる次のような一連の箇所である。
それは 弟スサノヲが 亡き母イザナミに一目会いたいという叶わぬ願望を抱き 涕泣して しかも 狂暴になるところから始まる。以下 すべてを引用するわけにいかないので まづ順を追ってその筋を整理しておくのがよい。
このスサノヲの我がままに対して 神々も騒然とし かれの父イザナキは スサノヲがそのような願いを抱くことを責めて ついにわが子を追放する。
- ちなみに カインが《神》によって追放されるとき かれの両親アダムとエワは 後の記述から察せられることとして ただ嘆いていたということであるが 直接の記述はない。
そこで 追放されたスサノヲは 姉アマテラスに 事情を聴いてもらおうと かのじょのもとへ向かう。しかし 姉は 自らの領地にやってくる弟の心に 必ずしも善意を見ない。むしろアマテラスは スサノヲの中に 領土の略奪者の姿をうかがう。そこで 二人の姉弟は 互いに心が結ばれることなく ついに スサノヲの意中の潔白をかけて ともに 神意を伺う。
- すなわち 《天の安の河》における《ウケヒ(誓ひ)》という行為。この行為は 重要であると思われるが 明確になってもいないらしい。
結果は 弟が勝った。しかし 今度は かれは 神意の自分にありとの結果を盾にして ふたたび したい放題を為す。放逸に耽ける弟に手を焼いたアマテラスは 一時 身を隠す。困った八百万の神々は ともに謀って アマテラスにふたたび姿を現わすようにさせる。(《天の岩屋戸》)。とともに スサノヲに罰を与え 追放を決議する。その前に 一つの挿話として スサノヲは 食物を掌る女神に対して その食事の与えられ方に不服を訴え 女神を殺すが そのとき そのことによって 新しい生産物(五穀)がもたらされたとある。
- 狩猟採集漁撈による生活の時代から 農耕が新しく始まる。生産の社会的な様式の変革とともに 以前の神々とのたたかいがあったと推測される。縄文から弥生へ。
さて最後に 追放されたスサノヲは それでも ついに 言わばかれの安住の地を見出すことになるのであるが それは 或る地(出雲のくに)に落ちのび その地のヒメを娶り 統治者となるのである。(《大蛇退治》の結果である)。かれの子孫は のちにはアマテラスのくにの支配下に入ることになるが 降って オホクニヌシ(大国主)のカミの代へと受け継がれて栄えることになる。
以上のようであるが ここでは スサノヲが 父イザナキによって追放され 姉アマテラスのもとへおもむき かのじょに事情を話そうとするところ――その姉弟のあいだのやりとり―― これに焦点をあててみよう。
故(かれ) ここにハヤ(速)スサノヲのミコト言ひしく
――然らばアマテラスオホミカミに請(まを)して 〔妣(はは)の国に〕罷(まか)
らむ。
といひて すなはち天(あめ)に参上(まゐのぼ)る時 山川悉(ことごと)に動(とよ)み 国土(くにつち)皆震(ゆり)き。ここにアマテラスオホミカミ聞き驚きて詔(の)りたまひしく
――我(あ)が汝弟(なせ)のミコトの上り来る由(ゆゑ)は 必ず善き心ならじ。我
が国を奪はむと欲(おも)ふにこそあれ。
とのりたまひて すなはち御髪を解きて 御角髪(みかづら)に纏(ま)きて〔* =男装して〕 すなはち左右の御角髪にも また御髪にも また左右の御手にも 各(おのおの)八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の珠(たま)を纏き持ちて 背(そびら)には千入(ちのり)の靫(ゆぎ)を負ひ ひらには五百入(いほのり)の靫を付け また稜威(いつ)の高鞆(たかとも)を取り佩(お)ばして 弓腹(ゆはら)振り立てて 堅庭(かたには)は向腿(むかもも)に踏みなづみ 沫雪(あはゆき)如(な)す蹶(くゑ)散(はらら)かして 稜威の男建(をたけび)踏み建(たけ)びて待ち問ひたまひしく
――何故(なにしかも)上り来つる。
と とひたまひき。ここにハヤスサノヲのミコト 答へ白(まを)ししく
――僕(あ)は邪(きたな)き心無し。ただオホミカミ(* =父イザナキ)の命もちて
僕が哭(な)きいさちる事を問ひたまへり。故 白(まを)しつらく
《僕は妣の国に往かむと欲(おも)ひて哭くなり》。
とまをしつ。ここにオホミカミ詔(の)りたまひしく
《汝(いまし)はこの国に在るべからず》。
とのりたまひて 神逐(かむや)らひ逐らひたまへり。故 罷(まか)り往かむ状
(さま)を請(まを)さむと以為(おも)ひてこそ参上りつれ。異心(ことごころ)
無し。
とまをしき。ここにアマテラスオホミカミ詔りたまひしく
――然らば汝(いまし)の心の清く明きは何(いかに)して知らむ。
とのりたまひき。ここにハヤスサノヲのミコト答へ白ししく
――各(おのおの)誓(うけ)ひて子生まむ。
とまをしき。
(古事記・上)
こうして《誓ひ》が行なわれることになる。その結果は スサノヲが勝つのであったが ここでは 第一に 姉アマテラスが あらかじめ弟スサノヲの意の中を推断して 政治行為の世界に初めにあることに注意しうる。これは端的に言って 類型としては のちにも述べるように 市民(スサノヲ)的生産行為の形式を揚棄した資本家的市民の生産行為の様式に通じると見られうる。今は措く。
および第二に 両者の押し問答が 神に伺いを立てるというかたちながら それはあくまで 二人の〔上方にではなく その〕あいだに 判断の拠りどころがあるということ。言いかえれば 相互のあいだでの合意へ合意へと話が導かれていくということ。簡単に言えば その判断基準が はっきりしていない。もしくは その場その場で はっきりしていても 筋のとおったものだとは思えない。
これら二点に注目する。
第二点は つまりやはり政治行為の世界を示唆しているが その問題は まづ 《ウケヒ》という行為が 明確で明示的な《契約・社会契約》のかたちを取ることでもなく また 単なる《闘争状態》であるのでもなく ただし単なる神意伺いにすぎないということである。すなわちそれは 考えられる限りで 実は 両者のおのおのの或る意味であくまで外にある卜占のたぐいによるそれにしか過ぎないということであるが それは 従って 前節に見たカインとアベルの場合に比べると 次の点で決定的に異なると言ってよいその点である。
すなわち カインらの《〈神〉が 一方とその供え物を顧みられ 他方とその供え物を顧みられなかった》と述べられるとき その場合には 言いかえれば そこで 神意が あくまで おのおのの上方に もしくは 内において それぞれ伺われていることを意味する その限りにおいてである。その神意は何を意味するのか 必ずしも明らかではないが 上方もしくは内面にあるということが 特徴である。
《善き心》であるとか《邪き心》であるとか つまり《二心》(言葉の両義性)の問題は アマテラスとスサノヲのあいだでは――もちろん 個体としては おのおの内に省みて 判断するのであることは 当然だが―― 《神意》という表現を用いようが用いまいが 《神(ないし神々)》とは全く関係なく 人という平面的な次元で生産行為の協働的存続を願うという政治行為によって 判断され行為される。
このことに対しては 二つの見方が成り立つと思われる。つまり このような政治行為とは きわめて高度〔に 生産・労働行為が揚棄されて 政治行為へと達するよう〕な実存および共存の行為であるとの見方が 一方である。他方は おおきく言って 生産行為に属すかも知れないが それは 生産諸関係の中においては あくまで その生産諸力の優勢な方つまり支配者の側が 現行の生産諸関係を維持するだけのための判断に属する。従って その限りで 類としての生産行為には属し得ない。という政治的行動であるとの見方である。
この物語のばあいは ただ アマテラスが《タカマノハラ(高天の原)を知らし》 スサノヲが《ウナハラ(海原)を知らす》というのであるから あるいは 一社会内の生産関係を表わすのではなく カインとアベルの場合でも考えられたように 民族と民族 もしくは 一つの社会と別の社会との対立を表わすものであるかも知れない。しかしすでに見たように その場合でも やはり 事の本質は変わらない。階級・階層の対立に発するものであろうし 種としておよび類としての社会的矛盾の問題として 捉えられるものであるから。
従って 上の二つの見方も然ることながら 物語を要約しうるかぎりでまづそうするならば 次のようであろう。アマテラスもスサノヲも まづ最初に――カインとアベルのように―― 当然 生産者であった。そこで スサノヲが 姉アマテラス〔および同じくもう一人の姉(?)ツクヨミ〕に比して おのれの生産諸力やその生産行為体系における位置づけなど一般に生活に不満を覚え矛盾を抱き それに対してきわめて消極的な実存行為に出る。
- それとの対比では カインらの場合 カインとその供え物を神が省みられなかったことから発していた。それは カインが 初めに 何らかのかたちで《顔を伏せる》ような思いを抱いていたことを示すと思われる。
スサノヲのこの実存行為は その根としては 《顔を伏せる》べきものではなかった。が かと言って 広く類としての生産行為へとは その主張が届き得ないという。そして だから のちに それによって 然るべき実存=政治〔から発する綜合的な生産〕行為を 別の一地域において自らが拓かねばならないという そう言うべき性質のものであった。顔を伏せることはないが おおきな顔をしてい続けられるようでもなかった。もしその点で スサノヲが カインとアベルの世界に見られた破綻を免れていたとするなら その場合では アマテラス〔とスサノヲのあいだ〕の政治行為は おおきく生産行為として 実存行為および労働行為と互いに連動するというべきたぐいのものであったろう。ただし この《生産行為》の三領域の相互の連動関係のみによって アマテラスとそしてスサノヲの系図とのあいだに 類としての生産行為関係が成立したと見るのは 早計であろう。カインの問題と合わせて 追って ながめて見ることにする。
(つづく→2008-04-25 - caguirofie080425)