caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2008-04-22 - caguirofie080422

第一章 《生産》としての政治行為

5 ふたたび《神》のもとでの政治行為

前の二つの節において それぞれ重要な事柄をまだ述べていない。その点について まづ触れなければならない。初めに アマテラスとスサノヲの話については それは かれら自身が 実は神であるという点である。ただ結局はこの点は おそらく 神の代と人の代とが  つながったものであるということ(《天孫降臨》) そのことから 捨象してよいと考えた。

  • 神からの人間の解放は 《人の代》の進むにつれて 古事記でも 成るのであるが そのときも その解放は 神が揚棄されるのであって つまり 人間一人ひとりの中に ふたたび アマテラスやスサノヲの広義の生産行為が保たれていくのでなくてはならないということ このことからである。《神話》を創造した社会を その神話を通して見るということは また そういうことでなければならないはづだ。この点は 或る意味で重要であり 次のカインの場合にも 違ったかたちで 関連を持つと見られることではある。

次に 第二節において まだ言い及んでいなかった重要な点というのは――若干 触れてはいたが―― 第一に カインとその末裔は 人間(アダム)の系図から言って その長子ではあるが 聖書においてはっきりと 傍系であるということ。つまり正統な系譜は アダムとエワの第三子の系譜 一般にノアの系譜である。および第二に キリスト・イエスによって アダムを創造した神の意志が成就され 神との契約が革命され揚棄されたと見られるとき そのような《新約》において生まれた視点と この傍系であるカインの物語との関係はどうであるかという点である。
まづ第一の点つまり カインの家系が 神の被造物として傍系であるという点について。これは しかし――片や スサノヲが或る意味で傍系であるのが 高度に政治的な行為によるという〔アマテラスらとの〕平面的な関係によるのであるのに対して―― それが カインと そして弟アベルや両親アダムとエワやとの平面的な関係によると同時に それらの関係もしくはその一人一人と 上方に位置する《神》とのそれぞれの関係にもよるというこうした一つの立体的な構造をかたちづくるということを指摘すれば足りるであろう。ただし 《世界》の生産行為関係の構造が 垂直的な契機をも持つという立体的なものであるということは 究極的には 労働=政治=実存という広義の生産行為が おのおの個体的に内的に かつ明示的に完結を見るということを意味するというものである。この点は 次の第二の点で 焦点となる。
そこで第二点は 《新約》の視点である。生産行為の個体的〔に〕完結〔して動態的である〕とは 端的に議論を進めれば カインとその裔に対する次に述べるような視点を意味するであろう。またそうでなければならない。まづ カインの物語をふたたびさらに追って その後で この新約の視点に触れることとしたい。

 〔《だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう》との神の言葉を受け その神のもとを去って エデンの東 ノドの地に住んだ〕カインはその妻を知った。かのじょは みごもってエノクを産んだ。カインは町を建て その町の名をその子の名にしたがって エノクを名づけた。
 エノクにはイラデが生まれた。イラデの子はメホヤエル メホヤエルの子はメトサエル メトサエルの子はレメクである。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい ひとりの名はチラといった。アダはヤバルを産んだ。かれは天幕に住んで 家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルといった。かれは琴や笛を執るすべての者の先祖となった。チラもまたトバルカインを産んだ。かれは青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。
 レメクはその妻たちに言った。
  ――アダよチラよ わたしの声を聞け
   レメクの妻たちよ わたしの言葉に耳を傾けよ
   わたしは受ける傷のために 人を殺し
   受ける打ち傷のために わたしは若者を殺す。
   カインのための復讐が七倍ならば
   レメクのための復讐は七十七倍。

(創世記:4:17以下)

《七》は 完全を示す数であると言われ ここでは・つまり《旧約》では 生産行為の《世界》の中での 血の復讐感が露骨に表現されているのを見る。すなわち 一般の政治行為が そのように自らの行為(また実存)を終焉させるとも言うべき政治的行動にまでつながってある。それは 古事記の世界で 特に人の代において そのような政治的行為が描かれているのとちがわない。ただしそれは 必ずしも 復讐感によってではない。
これに対して 《新約》の立ち場は もはや述べるまでもないであろうが たとえば次のようである。《迷える羊》の一節のあと

  ――・・・もしあなたの兄弟が罪を犯すなら 行って かれとふたりだけの所で忠告し
   なさい。・・・もし聞いてくれないなら ほかにひとりふたりを 一緒に連れて行き
   なさい。・・・もしかれらの言うことを聞かないなら 集まりに申し出なさい。もし
   集まりの言うことも聞かないなら その人を異邦人または取税人同様に扱いなさ
   い。・・・


 そのとき ペテロがイエスのもとに来て言った。
  ――主よ 兄弟がわたしに対して罪を犯した場合 幾たびゆるさねばなりませんか。七
   たびまでですか。
 イエスはかれに言われた。
  ――わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。・・・
(マタイによる福音 18:15以下)

なお《集まり》の語は ここで 《教会》に代えて 前田護郎訳に拠った。
言うまでもなく 復讐感〔を生むべき関係行為〕が ゆるしの行為へと 旧約が革められ 神が揚棄され 従って 政治行為が 揚棄されて 個体のうちに完結するという像が 述べられた。像として実存=労働=政治の統合された生産行為の世界である。まづこのような形相(イデア)としての行為形式は 普遍的であると言ってよいであろう。
また キリスト・イエスをさらに揚棄しようという質料主義の立ち場も この世界の像を棄てたわけではない。つまりそれは 観念的な 非生産的生産行為である《実存》のみによる完結を排するものであるに過ぎない。従ってこの点は すでにいくらか触れていたとおりである。つまり 《質料》主義者が持つ 観念的な より正確に言えば 質料関係(モノをめぐる経済活動)を形作るべき《形相》の 世界の 初めでつねなる像として この生産形式は そこに 保たれてある。と言ってよい。
ここで――まづ 社会の客観的な視点に立って―― 《神》またはその揚棄のもとでの政治行為を 概念的に ある程度 見通すことができたと考える。次には ふたたび 日本の社会にもどって その土壌とそこでの政治行為の性格などに焦点をあてて見るべきであろう。

(つづく→2008-04-26 - caguirofie080426)