caguirofie

哲学いろいろ

#1

――もくじ――
第一章 《生産》としての政治行為

  1. 序:本日

第二章 《生産》としての実存行為

  1. 《法 / 非法 / 不法》の世界と実存行為:2008-04-28 - caguirofie080428

第三章 《生産》としての狭義の生産行為とそこにおける実存

  1. 序:2008-05-05 - caguirofie080505:

付録

純粋社会学序説

第一章 《生産》としての政治行為

1 序

砂洲にうそぶく
風の巣箱
陽はまさに鴎のまなこを裂いてのぼる
だがホメーロスの夜の波は
今日も崩れ 明日も打ち
はてをしらない
そびえたつ雲の峰は
夏の怒髪のいやはてのたなびき
永遠といふ
言葉の
たてがみ
(第一連)


   *


たてがみは冷える
・・・
(第二連)


   *


・・・
蜘蛛の巣の庭に宿る
まぼろし
千年王国
・・・
(第三連)


   *


・・・
涼しい女の言葉よ
いまこそ土地の血管をゑぐれ
こほろぎ棲む草の根よりもうるほひある
言葉よ


発止!
(第五連)


   *


言葉が夢の探索のギアとなるとき
連動する助辞は
身をふりしぼって透き徹る
霧につつまれた船が
雄弁の森のかなたに浮かびあがる
霧の尻は熱してふるへる
船は龍骨をふるはせて
断言の
蒼銀の
そらへ
離陸する


ウリッセース!
(第六連)
大岡信:《霧のかなたから出現する船のための頌歌》

作品の抄録は 任意になされている。それは 強いてあげれば 《霧につつまれた船が / ・・・浮かびあがる》こと自体を明示して表現した箇所を 特に抜き書きしたものである。その《船の浮かびあがる》経過については つまり 作品の中ほどの部分は 追って 必要に応じて引用してみたいと思っている。
もちろん この小論は 詩の鑑賞が目的ではない。また詩論を展開するためのものでもない。《純粋社会学》は ここで このような船の出現すべき《世界》をかいまみようとしている。あるいは 《雄弁の森》という《現実》について触れようとしている。
ひとこと先に断わっておくならば それは ここでは きわめて静態的な局面をあつかっており 静態的なものになるだろうと考える。しかしもちろん 《現実》が 静態的なものであるはずがなく そう言うのは たとえば純粋社会学というほどの意味においてである。《純粋》とつけた部分のことである。

この詩の中で 《発止 ! / ウリッセース !》と発する詩人の姿勢は もとより 直観的で主体的である。ただ 純粋社会学のここでの発言は 《世界》の認識に重きを置く点において それは 静態的である。従って 逆に 認識が 行為と連動するかぎりにおいて 主体的・直観的そして実践的であろうと努めている。
そこで 《いまこそ土地の血管をゑぐ》るべきかどうかは分からないが 《こほろぎ棲む草の根よりもうるほひある言葉》を模索しながらの この純粋社会学の意図するところをまづ述べれば それは 次の点にある。
第一の目的は――従ってそれは この小論の存在意義じたいでもあるが―― 日本の社会的現実を 特定して その認識の対象とするということである。それは 一言でいって 特殊に民族的であることが 類的(人類的)であるとの基本的な認識に発している。その純粋社会学の認識の手段は 特に西欧における広く社会学的な議論に拠っている。しかしそれが 西欧と日本とのそれぞれの社会的現象の 類型的な共通点の把握のためでなく 類型的に共通であるのは 認識の手段としてであって その現実は 必ずしもそれぞれ互いに 同じ様式ではないという事実を捉えるためのものである。おそらく このことは 言うまでもないことであろう。
純粋社会学が 特殊に日本的であるという点は 先に述べるとするなら それはおそらく 《神》の問題に関する事柄にあるだろうと考えられている。《神々》という《神》 もしくは 汎神論という無神論 あるいは 《霧につつまれた船》の問題であるだろうと。
次に 日本におけるこの《神(ないし無神)》が 西欧の社会学的な認識体系を濾過してくるとき 社会的に現わすその姿は 《政治》という領域において もっとも著しい特徴を示すと考えられている。いま その点に 比喩的に触れておくなら 日本の社会においては この政治(まつりごと あるいは 純粋概念として 共同自治)という行為を通してこそ 現実に 《霧の尻は熱してふるへる》ものであり また一たん浮かびあがった《船の龍骨をふるはせて / 断言の / 蒼銀の / そらへ / 離陸する》からである。そこでは 西欧の現実とちがって 《蜘蛛の巣の庭に宿る / まぼろしの / 千年王国》が まぼろしとなるからである。単純に 即物的であり 現実的であることを それほどは 離れない。(現実に無力であることを いやと言うほど また 相当の期間にわたって 味わわされていたとしても 醒めた眼が失われるとは思えない。どうしようもなく 楽観的である)。
これらの点は おそらく 《初めに 政治もしくは社会が あった。 Au commencement était la relation Susanowo-Amatérasu. 》というほどの社会的現実であろうと考えられる。従って 《初めに 言葉もしくは行動があった》という場合を想定するなら そのような彼らの社会学に比べれば 《永遠といふ / 言葉の / たてがみ * たてがみは冷える》という《言葉》の問題にもなるだろう。
《冷えるたてがみ》の世界を 西欧の《たてがみ》によって 認識しようとしている。

陽はまさに鴎のまなこを裂いてのぼる
だがホメーロスの夜の波は
今日も崩れ 明日も打ち
はてをしらない
そびえたつ雲の峰は
夏の怒髪のいやはてのたなびき

という《世界》において 《はてをしらない》か知らないが 《ホメーロスの夜の波》こそは 《純粋社会学》がその対象とするところのものの よってきたる領域である。それは 《言葉》であり 《政治》である。――《陽は・・・のぼ〔り〕 / 夜の波は・・・打ち〔返す〕》のは 《世界》全体である。それは 《生産行為》であると言ってもよい。そこで その中で《ホメーロスの夜の波》は 《言葉〔の両義性〕》の問題であり 《生産行為》の内の《政治行為(政治的行為)》であるだろう。以下 本論に継ごう。
(つづく→2008-04-23 - caguirofie080423)