caguirofie

哲学いろいろ

#75

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§14 補論 思想についての考え方 c

§14−2(つづき)

嘘に対して嘘であることを指摘するのは 一つの問答過程であるが 時間を止めてそれの告発におもむくのは その相手と別の形態での第一原則の放棄という同じ自殺となる。嘘を指摘するのは 《わたし》であるが 嘘の指摘という行為は 《わたし》ではない。
それでは 欺きの思想という自殺を ほうっておくのか。しかもそれは 他人をも自殺にみちびこうと取りかかるそういう欺きの思想を 放っておくのか。
そうである。嘘を指摘してやり 自分はそうは思わない・またそれに対して これこれのごとく考えると応答してやり それでも 相手が自殺を保守するというのなら 放っておくしかない。また まちがいの指摘を 折りあるごとに しかるべきと判断したとき つづけて語る。第一原則を放棄し停止させてまで かかずらわない。そしてこれは一般に 初めの時点でまだ虚偽と分からずに応答していて のちの一定の時点で欺かれたと分かったという場合でも 同じことである。そういう思想過程が われわれの生きる現実なのである。
もっとも 法律に照らして裁きや損害の賠償をうったえるなどといった点は また別であろう。思想は 停止しないということが。損害賠償を求めることも けっこう停止につながる。ただしそういう権利があることに間違いはない。社会秩序の問題といった観点から見て 止むを得ず思想を中断するということもあるかも知れない。法律(警察や裁判)の問題に踏み入るのは 自己の思想および相手の思想のほかに そこへ 第三者〔の思想〕を介在させる。自己の思想がなくなるわけはない。つまり第一原則を放棄するわけではないのだが。
思想は 生きるということである。自殺とは無縁だということ。自殺することも自由なのだが それは じっさい 思想の無効である。自殺という無効の思想を われわれは 放っておくと言ったが もちろん われわれとて その思想が有効な過程に復帰することをのぞむ。思想が 無効から有効に復帰するのは 一つの具体思想の嘘やまちがいが取り除かれることによってではなく 自殺たる無効がその本人において分かることによってである。そのときもちろん 具体的なまちがいも取り除かれるようになると考えるべきであるが。だが 一つのまちがいを取り消したなら それこそが思想だとすること。つまりその取り消しを要請するだけのための告発は 一般に 弱い思想であり 無理にでも 具体的な個々の嘘を訂正して欲しい・まちがいを取り除きなさいと迫ることである。そのとき 自分のほうの思想過程を その内容にあやまりがなくとも 停止させ ほったらかしにしてしまうことである。もしくは してしまいがちだ。だとすると 原則の放棄である。われわれは あやまりが正されることによってではなく その人が 生きる思想過程に復帰することをもって よろこびとする。まちがいの訂正がそのとき 付随すると考えうる。
思想の主体を愛し――つまり われわれ一人ひとりを愛し つまり 第一原則のことであり―― そこから出発するということ。まちがいを故意に討つ出すという欠陥 これを憎む。つまりこれも第一原則の保持。思想の主体として同じ人間である(つまり第一原則)ゆえといって 自殺する欠陥を愛することをしない。そこで時間を止めてのように 欠陥を取り除きなさいと迫ることは 欠陥を愛するかのようである。あるいは 欠陥ゆえに その人をも憎むかのようである。
われわれは 欺きの思想に対して わかる限りで・分かったつど その欠陥を指摘すると同時に もう 放っておくといっても 何もしないのではない。第一原則および第二原則を守りつつ すすむ。あるいはこれらの原則は 思想過程ということの じっさいには 自同律でもあるのだから 初めからの思想過程を生きつづけるにすぎないことである。その場合には そういうかたちで 何もしないと言ってもよいことになる。
思想は生きるのであり 生きつづけるということ これが 第二原則である。第一原則とともに このように自己を愛し その自己と同じように他者を愛する。つまり思想する。自殺はこれを われわれは能力によって為すことができない。
おそらく 思想過程の持つ制約は 欠陥をもってしまい無効になった思想が復活する・復活しると見ること これを その制約のゆえに内容としている。ゆえに 人間の自由のことである。制約が自由である。これを規範的にいえば 義務であり権利である。《信教・良心・思想・表現等々の自由》というそれである。規範(あるいは 慣習とか法律とか)は もと 個人の思想から出て 一種の経験法則のごとく 雛型となったものである。これら道徳・法律などの規範を――つまり思想のひながたを―― われわれは 用いることができる。われわれの《原則》は 思想の自同律の内容を明らかにしようとしたものである。ひながたは それを理念のかたちで捉える。理論(科学)は それの 人間の経験論法による裏づけである。経験的には それらは 事実の客観認識にもとづいている。客観認識はこれを主体=主観がおこなう。
しかも この規範の出現し持たれるようになっているとき こんどは この規範こそがわれわれの思想過程であると錯覚することが起こる。いま一つの自殺である。虚偽へおもむく自殺を食い止めようとして陥るところの自殺である。理念じたいは 虚偽ではないから。または 虚偽ではないのに。われわれの使ってきた自由というのも 一つの理念である。
ここに 道具としての静態的な思想つまり理論のことをも含めて議論するなら 法律や道徳そして社会科学的な経験法則(つまり理論)を含めて これらが 自己の思想そのものだと思い込まれたとき 個人は 思想のひながたや道具になるのだし ひながたや道具に憑依すると意味では 思想過程が停止するのだから 問答過程のなかで一定の答えが固定してしまうのだから 第一および第二の原則を放棄することになる。そういう今ひと別の自殺も考えられる。
あわれみの深くて強すぎる思想は――あるいは じつは 単なる同情の深くて弱い思想は―― 欺く相手の欠陥を取り除いてやろうとして しばしば この科学的な規範にうったえる。科学的な基礎事実やそれにかんする理論は 一般に〔その時代に〕受け容れられるものと考えられるのだが そうだとしたら この科学的な規範にうったえるそのやり方が 問題となる。告発は一般に 第一原則を静止させる。静止のさせかたは しかも 客観科学的な要素を取り入れたといっても その要素=ひながたや道具をもって自己の思想行為そのもの(その全体)とするのだから やはり思想過程の停止につながる。理念を内容とする権利を――そこで静止して――うったえることは 自己の思想に 相手との関係で 待ったをかけることである。自己との関係で相手の思想に待ったをかけることのように見えるけれども 他者の思想に待ったをかけ それが実現するまでそのことを目的として待つことは 自分の思想過程を中断することである。
つまり 第一原則を満たしつつ しかも停止させ これの放棄につながる。いま言っていることが正しいとすると それは われわれ人間にとって大いなる制約であるが もしこの制約こそが人間の自由であるとするなら(第一原則) この自由を 固定させ念観することによって 制約してはならない。自己の動態としての思想を 理念や権利という停留所にしばりつけることになる。われわれは もしこれが自殺に行き着くと考えるなら これを能力によって為すことができない。
それでは 泣き寝入りか。しかし 思想は生きるのである。第二原則。この原則をとおして 生きつづけるとき われわれは 規範を用いる。むろん動態過程の中で 用いる。同じく用いるところの告発は もう別とすることができるかも知れない。――自殺のおつきあいをする必要はない。してはならないと思う。
(つづく→2008-03-02 - caguirofie080302)