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哲学いろいろ

#76

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§14 補論 思想についての考え方 d

§14−3 今村仁司:《批判への意志

第一原則は――個人が思想するというのだが―― それの放棄という自殺を 無効と見ている。第二原則は――個人が思想するのは 持続する動態だというのだが―― 第一原則の停止があればそれを 無効の自殺と見ている。思想のひながたは 学習効果に属する。あるいは理念は 個人・人間関係に内在するものか。
それらの蓄積・記憶は 思想の要素であり場であり 判断材料や道具であったり――あるいは時に個々のの具体的な思想それじたいでもあったり――するが 第一および第二の原則のもとに そうであり 一般には 個人によってさらに用いられていく。人間は ひながたではない。思想は停滞・自己放棄を知らない。つまり能力によって 自己の停滞・放棄を為すことができない。それでも 生きる現実と同一ではないという制約を持っているが この制約は すでに 人間の〔思想過程の〕の自由である。
そして特に理論は これも思想のひながたた倫理や法律と同じように 記憶として(とくに備忘録のような道具として) 静態的な思想である。確かに一つの答案(その骨子)であるから 静態的なものゆえいけないというのではない。われわれは 道具を用いる。思想は――客体的にみれば――道だとも考えられる。主体的には 道を切り拓くことを含めて 歩むことである。問題の焦点は 単純であって 思想過程としての告発と それを放棄する告発つまり復讐としての告発との二つを区別すること。思想過程の中の理論作業と それを停止させる理論作業。

社会は それじたいで 自主とか自由の基本主体とならないと考えられ 社会科学の理論は それだけではまだ 思想ではないと考えられるとき 社会科学とくに経済学を採り容れた思想 これが われわれの課題の一つだと言える。経済活動は 生活の基礎だから。生きる現実の基礎だから。ただしその思想の語り方は 経済学的でなければならないものではない。文学も哲学も あるいは社会学的に政治学的に語ることも 同じ思想のいろんな具体的なあり方である。
経済学を取り入れた思想というのは 第一原則からいって 個人個人が経済学理論を用いていくことである。思想の観点からは そのことが持続する動態つまり生きる現実そのことなのだから そのように第二原則を導入してみれば 一人ひとり個人が経済学を用いてすすむその過程が 生活基礎としていえば 経済現実そのことだということになる。
生煮えの議論であり いまはもう生煮えのまま ほうっておくようではあるが 先の二つの原則の応用として 今のように考える。
生きる / 現実 というように言うとき とくに経済活動をとりあげるなら その経済現実は しかしながらやはり 個人の思想過程として その中にしかないと考えられること。またまた単純に言って 経済現実が個人を凌駕するとすれば そのように思想するのが われわれである。
社会を一個の主体(あるいは準主体)と見ての静態的な思想 これは これも それとして 研究しつづけられるであろうが それはまだ思想ではないというときには これを取り入れた個人個人の問答過程が 経済現実であるしかない。思想の蓄積と操作たる社会科学そのものとして〔従来の〕経済学理論について そのように考えられる。この考えが ただちにそうなるという文化有力ではなくとも 原則的な有効でありつづけると考える。個人のことば / 思想 / 主観 / 真実が たしかにこの時にも制約を持っていて 持っていつつ この制約じたいが われわれの自由だと考えた。ただしこの制約=自由は 一つに われわれの自己から離れないものであり 一つに 停滞した標本であると考えることはできないものであった。このとき いささか希望として述べるなら われわれの生きる現実は――とくに社会の歴史として捉えた場合―― 必ずしも だからと言って 従来の・絶望的なとも見える供犠文化の 単なる形態的な移り変わりだとは 考えないのであって おそらく いけにえを祀りあげる文化有力をわれわれは 少しづつ 生け捕りにしていくことが出来るであろう。無効の自殺〔による文化形成の有力〕を ほうっておくから 生けであり それを無効と知っているから 捕りである。生け捕りが進展するとき 大地は健やかである。当面の課題は 個人が社会科学・理論を 自己の思想の内に取り入れることである。
詭弁だとも見えるし いま現にすでにそうなっているとも間がえられるのであるが。経済成長率とか景気予測などを 自己の思想=生きる過程とすることは 自殺なわけだが じっさいそういう自殺はないであろう。つまりあっても 無効である。そのときには もう一度初めからやり直さなければならない。また制約が自由だから やり直すことができる。



思想の見地からみるとき 価値とは・・・少なくとも三層構造をもつ概念の仕組みをもっている。

第一に・・・質的価値ともよんでよいもの・・・《使用価値(ユースフル・ヴァリュ)》ないし《効用(ユーティリティ)》・・・第二の価値概念は 《交換価値》ないし貨幣表示の《価格》・・・。これは商品間の交換比率・相体量であるから 基本的に量的価値とよばれるべきもの・・・。

今村仁司:《批判への意志》)

というふうにまづ《二層》を捉える。これを受けて 《第三層》は次のように論じられる。要約しづらかったので長く引用する。またその一連の議論が 全体でこれを明かす。その

第三の価値概念とは何であろうか。古典派のイメージを借りて言えば 市場で無数の取引きがくりかえられるにつれて 一商品の交換価値ないし価格はでこぼこがならされて 《自然に》ひとつの交換価値ないし価格へと収斂していく。この収斂した交換価値ないし価格は 古典派的に表現すれば 《自然価格》である。この時以降 各商品はこの《自然価格》で取引きされることになる。ところでこの《自然価格》とは何者であるか。
《自然価格》は 後に一般的均衡価格とか市場価値とかよばれることになるが 市場機構を成立され維持する収斂点ないし軸心になるという存在性格をもつ。ある特定の世界や領域は それの構成部分の働きかけ合いを通じてひとつのまとまりのあるシステムや構造としてつくり上げられるが その場合 諸部分が予見しえない働きを示しながらも発散せず システムをシステムとして維持し収斂させていく働きがあらわれる。この働き あるいはこの働きを担う社会的行動が何であるか これが第三の価値概念が指示し意味表現する当のものである。

  • ここで引用する立ち場のわれわれは この《働き あるいはこの働きを担う社会的行動》が 主体=人間=個人=主観と どうかかわるのか これに関心を持つ。なぜなら初めに《思想的見地からみるとき》とことわっているのだから。もう少し今村の説明を聞かなければならない。

ひとつの社会体を発散・解体せしめず一点へと収斂させとりまとめていく力 それがアクシスにしてアクシオス すなわち価値である。

  • こうしてまづ この今村のいう《第三の価値概念》は 思想として個人の思想過程に取り容れられた概念ないし理論となり 生きる問答過程の中での経済活動にかかわる。われわれの焦点としては 原則的な有効と無効の問題にかかわり それもさることながら ここでは特に 一個人の力のおよぶ有効の範囲がどこまでであるか したがって 社会=経済=文化的な――価値にまつわる――無効の有力に対して どこまで一個人が対処しうるか これにかかわる。ともあれ強引に そういう関心をもってさらに読んでいく。

その意味での価値は どんな社会においても必ず働く力であり 《自然価格》・《市場価値》・《均衡価格》はこの力の近代社会における経済的表現・経済的別名にほかならない。

  • 繰り返すなら われわれの焦点は 自然価格を形成させる力が われわれ一個人とどうかかわるか 一個人の生きる思想としての力と重なるものか 個人個人の力が及んでこの自然価格を形成させるものなのかどうか これにある。

この力を A.スミスは《見えざる手》と呼んだが このコトバには理神論的神格の摂理の力という意味がこめられている。・・・

  • こうなると この第三層の価値は われわれの行動とは 直接のつながりはなく働く力であり作用だと 考えられる。つまり

このように 第三の価値概念は ものにたいする個人的関係の上で成立する質的価値としての使用価値(効用)とも 相体量・比率としての交換価値(価格)ともちがって 根本的に社会的・全体的なレベルで成立する概念である。いやむしろ社会的全体を存立せしめる根拠それ自体が ここでいう価値なのである。

  • こうなると われわれの言う出発点において そのタカマノハラ理論のなかで 超経験的な出発点として想定するアメノミナカヌシのことが 類型的に言われているもののようにでもある。ただし――

この価値は根源的な力そのものであり

  • というふうには われわれは表現しない。根源的な力と考えられるアメノミナカヌシを 構図として想定して議論すると われわれは言う。これは措くとして しかしながら――

力であるかぎり社会的人間の基礎的な行動形式から発するものである。

  • このようにも 捉えられている。かんたんに解釈するなら 《見えざる手》も われわれの《見える手》と 間接的には あたかも地中深く延びて つながっているということか。じっさいには われわれも そのように語ったことになっているだろう。つまり出発点におけるアメノミナカヌシなる力はこれを ムスヒ出発点(=同感人)なるわれわれ個人個人が 分有すると想定していた。

したがって この社会的な力は 個々人の行動を構成契機として含むにせよ 個々人のふるまいだけからは接近できない。いやむしり個々人の行動がそれに依存してはじめて可能になるところのいわば絶対的尺度・基準なのである。

  • いや こうなると やはり神格のようなものなのか。――

今村仁司:《批判への意志》?・1・4)

けっきょく この議論にかんれんしてわれわれが言えることは やはり 確かにわれわれも 思想の出発点に 《絶対的な神格》を想定するといったような広義のタカマノハラ理論で説明しようとしてきたことと まづ 重なるところを見る。
(つづく→2008-03-03 - caguirofie080303)