caguirofie

哲学いろいろ

#14

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

補遺b

規範とか精神とか また勤勉の徳とか福祉の精神とか これらそのものを 批難しているのではない。また すべくもない。価格の決定に際しての 精神のかかわり方 徳や規範また法律の位置づけの仕方 そしてこれらの仕組みは 考察の対象である。
二角協働関係が 主観の価値充足の場であって その関係行為過程は われわれの所有の対象でもある。われわれは 価値・その充足行為を 所有していく。価格は この所有関係の構造過程において われわれが おのおの自己の交通整理をするための指標である。このことを われわれは 精神(理性・知性)をとおして 判断している。
この動態 つまり主観の充足過程が 発展するとき その個々の主体は 勤勉だと言われる。基体スサノヲ要因のいとなみに アマテラス発展要因をはたらかせているとき 人は 勤勉という徳を実現させており かれらの主観関係は 福祉(幸福・繁栄)の中にあると表現される。
ここに 規範は ない。勤勉でなかったとか 福祉の実現に向けて わたしは 怠惰であったとかと 人が理解するのは 精神の能力を用いておこなう思惟の行為をとおしてである。ここで 勤勉か怠惰かの価値判断をおこなうとき もし 規範が基準になっていたとしたなら それは 怠惰という自己の未実現・あるいは逆に むさぼりという不当な自己実現を この基準が 人におしえるためにある。しかし 規範が 価値充足過程の 主体となって すすめていくものでは ない。われわれは 人間である。人間は ここで 規範に対しては 死んでいる。規律から 無縁であり 自由である。自由であるとき 規範お指し示す内容をも 自由に 実現させることができる。ここで 規範は いわば 主観関係の 精神的な価格である。つまりやはり指標である。けれども 規範また規範精神が 《はじめの総体》そのものではないし その推進力なのでも ない。
規範は 勤勉の徳とか産業の発展にかかわるから 価格としては 狭義のアマテラス価格とつながっている。その意味で 規範精神・道徳律は もっぱらのアマテラス精神である。もっぱらのアマテラス精神が 価値創造をおこなうなら・つまり 価格の拡大再生産をおこなうなら これが 資本主義的な経済の成長に 相応している。《勤勉な》アマテラス精神が 資本主義経済の推進力だというわけである。
価格も この規範にもとづいて――かれらにとって暗黙の(?)規範にもとづいて―― その社会的な仕組みの中で 決定される。主観関係の中から その経験的に抽出され或る種の法則となっていると見なされて この規範が 《精神の価格としてのもっぱらのアマテラス価格》として《定着》してくると とうぜん これによって 人びとは自己の交通整理をおこなっていると考えてくるのだから モノコトの価値評価の全般にわたって 仕組みの《秘密》だと見なされていくだろう。この規範精神=イデオロギが 《はじめ動態》の推進力なのであると この資本主義における人間が 信じて 疑わなかった。
そうではなかった。《はじめ》は 基本単位的に 二角協働関係であった。発展要因たるアマテラス価値は この二角のそれぞれから もたらされると考えていた。つまり 二角関係協働が 推進力であり 内容充実させるべき目的でもあった。ここに 規範は なかった。それから 自由であった。
主観関係の過程で 主観の或る種の仕方で内側に 精神的な価格とも言うべき指標体系(つまり 道徳哲学)があり 同じくその外側に モノの価格が設定されるという恰好になっている。これは うそである。内的および外的な自己の交通整理に際して もし これらの・したがって内外の価格指標が 価値判断および次の段階の価格決定への基準となって 規範としても 作用しているというなら それは とりもなおさず 交通整理のための指標としてであって 価値充足という交通の 主体でもなければ 推進力でも ありえない。この意味で 《はじめ》の動態に 基本的に 規範は ない。
基本的にも 指標としてだが 規範は なくてはならないものだと言い張るなら それは 人間には それぞれ自分の名前という呼称がなければ かれは 人間ではないと言うようなものである。人間にとって《はじめ》の過程で モノの価格も 自己の名前も そして精神的な価格たる規範も この意味で どうでもよいものなのである。主観関係の交通整理に もっぱら 用いられるものである。
ところが 交通整理という行為じたいは 価値充足の過程がそうであるように 人間の有(もの)ではあっても 人間という主体でもなければ その推進力それじたいでもない。行為と存在(主体)とは これまた 別である。価値充足の主体たるわたしたちは 交通整理ということ・またその指標(規範精神)そのものではない。
交通整理の 主観内外の 指標を 編み出していくのは 人間の精神活動の歴史的な所産ではあるが その指標は このわたしたちが 用いるものであって 交通整理そのことも わたしたちが おこなっていくもの(歴史)である。価格の決定は この《はじめ》の中に 位置している。わたしたちが 位置させているとも言える。
わたしたちが 交通(主観関係的な価値充足)に 怠惰(プレ・スサノヲ的)であってはならないとか また 信号を無視して交通をむさぼっては(もっぱらのアマテラス的であっては)ならないとか言うのは 規範精神である。つまり わたしたちの存在そのものではない。勉強することと 勉強せよと言うこととは 別である。勉強することも その主体存在とは 別である。
このとき 価格の決定にかんして言えば 価格というもの これが われわれの価値充足の過程には 本来 存在しないと言わなければならない。つまり 労働力に 価格はないという公理。需要が多くて供給がそれに追いつかないモノ また 稀少なモノ の価格が 高いという事態は そのまま このモノをむさぼってはならないという精神的な価格であるという事態を 物語りえている。
この価格がなくても 人は 交通整理しうると考えるべきである。これが 《はじめ》の基本的な一面であることと この一面を全面として実行に移すべきだということとは 別なわけである。
わづかに この人は 社会的にこのモノが少ししかないのだという事実を知ればよい。人が《はじめ》の動態のなかで 経済学の主体となるためには――つまり 交通整理をおこなって 主観充足していくためには―― 供給者も消費者も モノの質と量の現状を 社会全体的にも 知っているという条件があればよい。この条件を――つまり 基本的に言えることとして この必要にして充分な条件を――満たすために モノには価格がつけられ これを交通関係の信号とするわけであり(ただし そこには 規範的にみれば 価格という具体的な指標に 人が頼るという安易な怠惰 もしくは精神の妥協がある) また 同じようにして 人間の精神的ないとなみにおいては だから貪るなかれ・そしてさらに 質と量との発展に勤勉であれという精神的な価格(信号)を 考えついて 表現し伝え合うわけである。
けれども モノの有限性 このことは《はじめ》の前提でもあった。ゆえに 規範精神(精神の価格)も モノの価格も 基本的に言えば 必要ではない。必要だという議論は 基本的に必要でないというところから 出発しており そのとき それに取って代わったものではない。
モノの質と量にかんして――また いま現在おこなわれている労働行為の 二角関係的な・社会的なあり方にかんして―― 社会全体的にも人が 知らなければならないという必要にして十分な条件は 《はじめ》に出発する際の内容でもあった。
この出発点から われわれは 潜勢的であった段階を含めて 便宜的に 価格を用い それにふさわしい価格の仕組みと決定の仕方を 考えあい実行してきている。さらに考えすすめていけば よい。付随して議論されるべきは ある種 文学実践的に《人間が変わる》ということ 社会実践的に《仕組み・権力のあり方が変わる》ということとであった。価格に決定にかんして いわば外的に付随するこれら議論のほかに いってみれば内的に付随する補遺の議論は このようであると思われた。主観判断における精神の捉え方の問題 特に規範精神のそれだと考えられる。


一つの見方として――一つの見方として―― 価格は いま現在おこなわれている労働(二角関係協働) これが 基本的に 構成するという提案を 前節にかかげた。
すでにおこなわれたところの労働にかかある価値のすべて これらは 価格を指標として取り終えて すでに 社会資本(そういう関係過程・構造行為)となっているという見方。土地は 労働のおこなわれる場であって その意味でのやはり社会資本であるということ。個々の社会資本の 全体の中での配分の合理性のためには 過去の価格の経過 またその累積が 統計的に評価されて 経済学的な価格指標(信号規範)となることは ありうるかも知れない。そして これも つねに将来へ向けての交通整理のためのものであることは 言うまでもない。将来へ向けて 社会資本を 合理的に配分しようというとき その説得のための指標とは なりうる。
これを言いかえると 経済学的な交通整理は いわば二本立てとなる。二つの構造的な視点から おこなわれる。基本的な一つは いま現在の労働がもたらす価値 これの価格指標による交通整理。もう一つに その底流となってのような 過去の価値の蓄積 つまり既成の社会資本の価格指標的な累積に照らし合わせて 将来へ向けて 交通整理する観点。
すなわち 現在の 会計技術的な交通整理と 過去から将来へかけての統計技術的なそれと。後者は ただし 価格そのものの決定には あまり あづからない。量と質との配分(また発展)の問題である。しかし前者も 労働生産物の質と量との問題であり 基本的にそれで足りるのであり 便宜的に これに 価格指標が用いられるであろう。
この価格指標は 精神的なそれ(規範的な一種の合理性)であってもよいのだし 社会全般的な経済状況にかんする知識のことであってもよい。この知識には 後者に挙げた 過去から将来へかけての社会資本の経過・累積にかんする統計が 資するはずである。
この二本立ての交通整理がそれぞれ 細かく具体的に どの種類の・どんな内容の価格指標を用いているかは 経験過程的なそのつどの社会の進みぐあいに かかわっている。この具体的な方策の考察と実践とに われわれは怠惰ではないであろう。
(おわり)