caguirofie

哲学いろいろ

#77

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§14 補論 思想についての考え方 e

§14−3 今村仁司:《批判への意志》(つづき)

けっきょく この議論にかんれんしてわれわれが言えることは やはり 確かにわれわれも 思想の出発点に 《絶対的な神格》を想定するといったような広義のタカマノハラ理論で説明しようとしてきたことと まづ 重なるところを見る。
ただし わたしたちとしては この補論においては 思想の出発あるいは動態にかんして 原則を立ててみて それに照らしての有効か無効かを問い とくに無効に対しては内政干渉しないことを基本とした。したがって 事の実態としては――すでに思想の生きる現実にあたっては―― 《尺度・基準》を問わない。思想の自同律たる原則を立ててみても それを じっさいの表現行為に ふつうはもう持ち出さない。言いかえると 事ここに至っては 言うところの《価値》も 動態なわけである。あるいは思想動態のなかの 使用価値や交換価値にかんする経済活動なわけである。価値にかんする理論を《絶対的な尺度・基準》として 持ち出さない。
まづこういう議論として補足したい。これは 言うまでもなく――ここまでは――今村の上の議論を 勝手な角度から捉え これを借りて 勝手につけ加えたものである。
今村の見解との異同を明らかにしなければならない。
かれは 引用文のあと 議論をつづけるのであって 《この〔第三の価値概念たる〕社会的な力は 伝統的に〈正義〉として表象されてきた》けれども あるいは そうであってかまわないけれども つまり 構わないのであるが まづ《それは〈測られる〉ものではなく 〈測る〉ものである》という。のだから 再々の一結論として この神格〔なる出発点〕は 人間の主観またその力と 通底していると見るようである。《測る》主体は その限りで 人間・個人のことであるだろう。そうして この限りでは わたしが上につけ加えた解釈は 少なくとも今村の見解とさほど異なるものではないであろう。
このほかの今村の所説についての解読としては この補論の前段にのべた 有効・無効といった思想の原則からは ひととり離れて 捉え直さなければならないだろう。


まづ つづく議論を ひととおり最後まで追っておこう。かいつまんた形になると思われるのだが。

この問題をめぐって K.マルクスはこの基準を《社会的労働》に求めた。社会的労働は対象化的労働(生産)ではなく 社会体を発散から守り諸部分をひきつける社会力(協働―アソシオン)である。・・・これに対して J.S.ミルやL.ワルラスは この基準(正義・公平)を政策と応用経済学の課題とみなし いわゆる分配論へと移動させた。現代の社会哲学(例えばロールズやアロー)はミル=ワルラス的伝統にのっとっている。この合理主義思想の視点からすれば 価値とは政策的実践(ポリティっク)の問題であって 経済学の純粋理論は効用(第一の価値)と比例性(第二の価値)の《快楽計算》に自己限定される。
(同上)

このような《三層構造をもつ概念の仕組み》が かんたんに学説史的に 説明されているのをわれわれは見る。われわれの観点に引き寄せて見るならば 全体として言って 合理的な価値額の快楽計算に自己限定されない人間個人の思想過程が打ち出されていると考えられる。つまり 快楽計算をも自己の思想過程に取り入れた経済活動 またさらにその上位概念として 現実の生活 これである。マルクスの《社会力(協働―アソシアシオン)》も それを単純に個人のものとして捉えうるなら やはり同じようである。すなわち その限りで 上の 価値にかんする一つの全体像は これが 一個人の思想過程のうちに捉えられているとまで 言える。ただし粗い議論だから 作業仮説とか定義の問題として 取り上げようとすれば そのように言えるのではないかというまでである。本論の中のミークに冠する一章でも 《出発点》としての議論までであった。
なお 思想原則の問題をわざと差し挟むならば 引用文の中で《マルクスはこの基準を〈社会的労働〉に求めた》というとき その《基準》は 個人の出発点として考えるのがよいと思われる。個人の主観の領域では合理計算 その個人を超える社会的な力としては 正義・公平などの基準・尺度なのだと 必ずしも分けないほうがよいのではないか。《見えざる手》や正義や社会的な力などは おそらく当然 個人の力を超えたところに確かに想定されているのだろうけれど またそういう構図はおおむねわれわれのものでもあったと思うけれど さらにわれわれとしては 個人の側からの思想出発を議論したのだから この一種のアメノミナカヌシ神格の想定は これを個人が分有し その限りで個人に内在するものとして やはり想定しながら 進めてきた。その限りで基準・尺度は もうわれわれのものだし――とくに尺度・基準というときには そうだし―― そのようにして じっさい個人の力・主観の及ぶ範囲での思想実践を 焦点としたし ひとつの最終段階(=つまり開始段階)として打ち出すところに出たと思う。
だからこの観点からいくと やはり引用文の中の《社会体を発散から守り維持する》というときの《発散》とは じっさい無効の表現行為のことであり 思想の自殺〔による経済活動〕のことだと ほとんど言い切るようになる。《維持する》とは 有効な思想過程とそれの中における経済活動また価値行為のことである。逆に言うと このような狭い観点からの思想表明は 明らかに 個人の力の及ばない範囲の社会運動の過程 これについては 何も語っていないということである。また 無効の思想に対して 基本的に 内政干渉できないという意味では それでよいし それでしかないとまで 考えているわけである。
この点にかんして今村は 一方で 主題を具体的に《労働および暴力》論に取って 同じく当事者個人の思想実践の問題を考えているし 他方で《テクストと空白》(《現代思想の系譜学》の一章の論題)というように 同じく確かに当事者個人の力の及ぶ範囲を越えた領域にかんしては 《空白》として残す。つまり空白として述べるというかっこうである。《空白として述べる》ところをわたしは 構図としてのタカマノハラ出発点の理論的な想定で 進めた。
いま述べていることは わたしの後発者としての責務の問題に過ぎないかも知れない。
退屈を承知でということになるかも知れないが 最後にあらためって まとめておこう。
われわれの問題は 主観を焦点とする。その力。それの及ぶ範囲。議論として結局のところ そうなる。及ばないところの超人間的(超個人的)な力に対しては それがあるとするなら その作用の結果を 〔結果は経験現実的なのだろうから〕 やはり主観が受け止めるということ。また引き受けるということ。あるいはさらに どのように受け止め引き受けるのか。そしてなお これに対してどこまで主観の思想行為を及ぼしていけるか。これらを焦点として 考察している。
このような思想過程の問題である。その生活基礎である経済過程を直接あつかうなら なおはっきりと経験現実的な実践にまで行きつけるであろう。
まとめとして論点を一つづつ取り上げて行くならば たとえばスミスのいう《見えざる手》にかんして これは つまり われわれ個人の主観行為が 少なくとも直接に及ばない領域は どうでもよいと見ていることになる。どうでもよいというのは スミスのように認識してみせても それはそれとして かまわないであろうということだ。
ということは 次の論点として 今村がここに語った《それ自体の何がしかの根拠をもって存立するところの社会体・その力》を 《根拠》とか《根源的な力》とかの規定を抜きにして とにかく《社会》なら社会として 表現しあっていくのがよいだろう。とわれわれは考える。わたしはここでは 同じことを 例のタカマノハラ理論構図として 取り上げねばならなかったのに それを棚に上げて言うことになるとしてもである。いづれにしても 思想表現の焦点としては 個人以上のもの・だからそこには本当のところ思想の歴史があるとは見ない《社会》を したがって主体とは見ないし 立てない。言いかえると この社会という土台ないし舞台の上で・あるいはその中で 単純なことだが われわれ人間は 個人個人がその主観をはたらかせて 価値の創造・充足をおこなって行くのだと見た。それが 論議しうる思想過程であると。社会科学の理論はすべて 個人に取り入れられるのだと。社会の動き一般も そうである。つまり とても取り入れられず 引き受けられないなら そうなのだとして 考え方の中に取り入れるのである。
だから この主観の捉える価値が 一つには モノ・コトに即して使用価値と交換価値の問題として分析されもすれば もう一つに実際問題として 市場価格(ものの値段)をとり結びあい これをわれわれが受け止めあい これをめぐって あくまで思想過程として 推進していくと見る。個人の思想過程が――時間的にではなく 考え方として―― むしろ個人より有力であると思われる社会の動きに対して 先行すると見る。
したがって この 経済学を取り入れた経済活動をふくむ個人の思想過程に――つまり生活に―― 《正義とか社会体の根源的な力》が 含まれていると見るかどうかは どちらでもよいことになると。含まれると見る場合には そうだと想定するという前提の上で ものを語るということだ。ただし具体的な価値としては 単純に思想過程における対象(モノ・コト)として見ているのは 差し障り無いはづだ。
そうなると この世は 快楽の合理計算という・やはり無効に近い思想が力を持ち あるいは社会的な一つの文化有力となり そのなったまま われわれは生きなければならなくなるだろうか。
(おわり)