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哲学いろいろ

#24

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 e

§6−2(つづき)

われわれは 分裂症(* スキゾ・シャーマン)を自然主義的なひとつの極点(* タカマノハラ原理・そのタカミムスヒの力)に固定しようとしているのではない。分裂症患者が典型的に類的に生きているものは 自然の特定のありう極点なのでは全くない。(* ただし それを 思想の出発点とはしている。)そうではなくて それは 生産の過程としての自然なのである。
(『アンチ・オイディプス』1・1)

ここで言う《自然》とは 人間にあてはめれば その自然本性(つまり 人間という生物 理性的動物であること)の はだかの部分ないし衝動の部分のことを 言っていると思われる。またわれわれは 特にこだわらないならば タカマノハラ神話症を タカミムスヒ傾倒すなわちスキゾ・シャーマンの思想形態に 特定して今後は話しをすすめたいと思う。括弧内に注釈したようにである。
《生産の過程としての自然》は 社会という一般的な場におけるそういう(自然という)部分であり 《自然の特定の〔タカミムスヒという〕ある極点》は 前者の場と連絡して その人の思想の出発点となる。人間の自由意志の出発点としての(そうしてしまったところの)《源泉機械》。そして このことをおこなうのは あくまで 精神推進力・知性・自由な意志であるという恰好になっている。
生産が生産するのではなく 自然衝動の極点が衝動をおこすのでもなく 人間が生産し企画し行動するのだし 人間が その自然あるいは思考の極点を 出発点と見なすのだし その衝動に身を任せつつ むしろ衝動を利用しているのである。病いをわざとよそおい これを利用し 目的を達しようとする。それらの全体として シャーマ二スト・スキゾにとっては 《生産の過程としての自然》がある。そのかたちで 早く言えば 死の本能と化す。
自然は生きていると言うかも知れないが これとあたかも同化するのは そうだとしたら 人間にとっては 死である。われわれの普通の精神出発点が これを 策略するのである。すなわち 精神・知性をはたらかせているのであり すべては――人間的な論法で言う限り―― 意志の自由な選択にのっとっている。このスキゾ・シャーマンの場合は タカマノハラ原理論にしても具体的な思想にしても むしろ 合理的に考えられる最高の内容をつねに 問い求めているし 実現してさえいると考えられる。出発点のタカマノハラなる合理的な神話理論にしても たとえ内政干渉(他を統治したいという欲求)の要素を持っていても それは たとえば 秩序を求め確立するためだといった理由が ほとんど無理なくと思われるかたちで提出されるであろうし その意味で一般に 欠陥は表に現われて来ない。
たとえば エコノミック・アニマル(獣偏に円という漢字一文字で表わされる)という一つの欠陥の指摘は 心理起動力やそれに憑いている状態を言っており 経済政策の領域で対処することを別にすれば 人間推進力の点では だれでも この非難をくぐり抜ける。
わづかに みづからは動かずして 人を動かすところの出発点理論や具体思想を述べるとき それの合理性とは裏腹に 肉眼では見えず心の眼で――そして感性的にも――見られるところの放射線を発するというのが 表に現われる欠陥である。あごや目で人を使うことをとおり越えて 電波で――その意味で 肝胆相い照らして―― 人を動かす。すべて 《衝動自然(だから やはり 心理起動力による推進)としての生産の過程》において おこなわれるのであり ここには 神秘のひとかけらもない。それはそれで 経験現実そのものとして すべて ふるまわれていく。わえわれは 放射線の垂れ流し 電波による不法侵入を やめなさいと言うことができる。
つまりなおかつ われわれは 衝動自然・欲望する機械としての生産および消費の過程 それの出発点を 問題にする。それは 理念的でも理論的でもありうるように 観念や意識として 自覚されている。いちどは 自覚をとおている。欲望とか自然とか 自然界やその資源を含めては その要素であって とくべつ 問題とはならない。と同時に それらに同化しようとするようにして それらを出発点とすること その仕方に対して 異議をはさむ。ただしこれは 話しがそこまで行ったならばである。内政干渉のためではない。じっさい しかし シャーマン・スキゾの思想によれば そのようなタカマノハラ出発点こそ 有力に作動して 人びとは 心理的な起動力によって充実し 生産と消費を推進していけているということになっている。われわれは これでは ぐあいがわるいと言う。それは 器官なき充実身体であり――自然衝動人であり 条件反射人であり―― 死の行進だという。心理起動力に いくつかの供犠文化の構造に沿った行動のチャネルが できあがっていくのであり 条件がととのえば 無条件に反射して この自然の生産の過程に入る。なぜなら 出発点んは 出発点そのものであるはづだ。すなわち 意志・知性・精神そのことであり これとしての自然本性のほかではないから。この同じ出発点に立ったゆえにこそ 条件反射あるいは無条件反射が 成立し ある意味で その軌道に乗るのである。そうでなければ 人びとは ただちに しんどいと言って 投げ出すであろう。だから じっさいには 普通の資本志向の生活態度とそして資本志向主義のそれとがあって 後者は ぐあいがわるいとわれわれは考えるが 両者は 互いに入り組み合って混じり合っており その結構としては 上の人間出発点(同感人)の互いの推進としての人間社会の過程 その中での生産と消費の動態 でしかないということになっており そう見ることはしておかなければならない。
これは 抽象的な言い方だが 非経験的も神秘的でもない。すなわち なぜなら シャーマン・スキゾやその思想のもとに生をいとなんでいる人びとのすべてが どんな出発点をえがいているにせよ その一つの出発点を持ち具体的に理論としてえがいくというその広義の本性としての出発点は 人間に普遍的であり まったく明確なものだからだ。われわれは 二重出発点を――そういうタカマノハラ神話理論を―― ゆえなきものだと見るわけである。ふつうの出発点に輪をかけた幻想の出発点のほうに 異議をとなえる。おそらく話しは 遅かれ早かれ こういった領域にも 進み入るものと思われる。ゆえに こういった議論も可能であり しておいてよいと思われる。だが それも ジラールに言わせれば わかりきったこと すでに つねに解明されている領域なのだし それは それとして 内面秘教的な・つまり心の眼でしか見られないようなことでもあるのだから 話しは おそらく ここまでである。実際に人を相手にして対話過程に入らないなら もう話しは進まないと思う。だが 単なるレトリックでしかも告発調に言うとすれば 二重出発点での発進が 器官なき充実身体にまでいたれば それは 死の行進だと 鬼のようになって われわれは 叫ぶ。声を出さずに さけんでいるわけである。
次の一文に対して われわれは 賛同と異見をのべる。

《過程》としての生産は 一切の観念的な範疇をはみだすものであり 欲望を内在的原理としてひとつのサイクルを形成している。したがって 欲望する生産は唯物論的(* 質料論的)精神医学の現実の範疇であり この精神医学は分裂者を《自然人 Homo natura 》として定立し またそうしたものとして取り扱うことになる。ところが このことはあるひとつの条件の下において成立することであり この条件が《過程》の〔次の〕意味を構成することになる。つまり 《過程》というものは 目標や目的であると考えられてはならない。
(1・1)

われわれは 分裂者であろうが別の症状であろうが たしかに自然本性をもった一人ひとり人間であるとして――それは すでに定立されている つまり スミスに従えば 同感人として―― 相い対する。それ以外に ほんとうには ない。われわれは そうしてこそ そうだとしたら 一人ひとり精神医学者である。このとき たしかに 《〈過程〉というものは 目標や目的であると考えられてはならない》と考える。過程的な解釈が 一つの目標であるといったことと 別の意味でである。
社会生活の過程は 仕事や余暇をふくめて 人間の一つの目的であるのだが 《一切の観念的な範疇をはみだ》さないで つまりタカマノハラ神話理論の観念の領域の中で 目標や目的であると考えられてはならないのである。社会状態の縮小構造から自由だということである。この自由の実現というか すでに〔個人として〕自由であることの享受としての 社会関係における実現の過程 これは 一つの目標となる。器官をもった普通人〔の身体〕 の運動。そしてしかも そのような目標は 機械的に目標となり それへと向けて回転していくのでもないわけである。もし個人の弱い言明としていうことが 不適当ではないとすれば 資本主義志向の有力となって主導するところの《資本》は タカマノハラ観念出発点の範疇のなかで 器官なき充実身体が 機械的に回転し その過程が 目的となっているそれだと 言えると思う。われわれは そのときには 自首しなければいけない。自己に対して 自首しなければいけない。上の引用文に対して 賛否両論入り交じったかたちで 評することができると思う。
一般論としてわれわれは 《欲望する〔タカマノハラなる〕内在的原理としてひとつのサイクルを形成している》とは 言えない。一般論なのだから むしろ自首するためのよすがとして そう言うべきと言うかも知れないが そうではない。そのようなザンゲ論は タカマノハラ神話症の例にもれないのである。《自然衝動としての生産の過程》は たしかに 《欲望を内在的原理としてひとつのサイクル――欲求の起動から 生産をつうじて 消費による充足まで――を形成している》かも知れないにもかかわらず その出発点つまり人間・《わたし》は けっして サイクルでもなければ 内在的原理なる欲望〔する機械〕でもない。はっきり そうではない。わたしは 欲望ではない。わたしは 欲望がないわけではないと知っているわたしである。ふつうの一個の出発点である。
出発点が 出発点に対して もしそれを無視し 逸れたならば 自首するかも知れないが それまでである。ザンゲすることはない。自己を責めることも ほんとうには ない。ザンゲとは あらぬところに観念した出発点 自分ではない観念(ある理念の念観)によって 自己を責めることである。その意味での《自己否定》。それは じつは 自首してはいないのである。いまだ 二重出発点の範疇のもとにあり そこで遊んでいる。すなわち このわたしたる出発点は 過程としての生産ないし社会生活の過程を いとなんでいるが ここには 一切の観念は――幻想は―― ない。この過程は 神話理論における目的とか目標となることはない。
神話理論は 自己がつくったのである。出発点の二重である。それは 自己そのものではない。自己そのものではない神話出発点が 目標や目的をさらに設定するなどということは あそびでなければ 気が狂っている。われわれに 二重出発点の分裂は ありえない。わかりきったことである。
経済制度の理想の実現が このスキゾ出発点の病いを癒やすとは思えない。いや それは ありうるかも知れないのだが もしそうだとすれば それは 理想を考える人の出発点において すでにそのとき 出発点の神話繁殖とその分裂は 癒やされている。この意味で 精神分析学ないし思想と 経済政策とは 連動している。またその連携をはかっていく一つの出発点に立って 社会生活の過程をすすめていける。
(つづく→2008-01-11 - caguirofie080111)