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哲学いろいろ

#25

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 f

§6−3

アメノミナカヌシなるカミとは 類型的に言って 統一神である。唯一絶対の神の場合にも言えるかと思うが 統一というときには 下位の神々を想定して言っている。放射能を人間は操作・利用することができるが 放射能じたいの力と作用は 自然であって 手に負えない。この手に負えない物質(質料)の力を 神というと 単純に考えたほうがよいくらいである。今の場合である。もしくは そのような力の源泉としてである。統一神をとくべつ立てない場合 もろもろの神々のことを またはそれらに共通の力のことを カムムスヒのカミと言うぐあいである。
これらの天之御中主神ないし神産巣日神(または それぞれの思想)を 綜合したものが 高御産巣日神またはその思想だと考えたい。(もちろん 古代日本人の概念や習俗から切り離して類型だけを抽象して 用いているのである)。タカミムスヒ理論は 怪力乱神を語らないのであるが 語る場合を 心にとどめている。留めているだけではなく 利用する。指導する。ただし みづからの指導力が発揮されるためには アメノミナカヌシ教やカムムスヒ教の人びとがいてもらわなくては困るというていのものである。タカミムスヒの神への傾倒は しかしながらすでに 人間であって しかも まだ 全体としてタカマノハラ神話志向を 前提にしたものである。カムムスヒの神々を従えるアメノミナカヌシ統一神を みづからの内にも とりこんだかたち。タカマノハラ神話なる出発点としては きわめて《神》学的であって 一般に思想が具体的に語られるときには 合理的すなわち経験科学的である。
ドゥルーズガタリにあっては 自然の力・作用としての神がはたらくとき これを 機械とよぶ。人間にあっては 欲望する機械である。この諸機械にも 人間なる主体と同じ程度の主体たる役割を見るのは カムムスヒ傾倒のアニミスム。いや人間はそうではなく その中の第一主体たる神でもあると言っていくのは タカミムスヒ傾倒のシャーマニスム。人間の推進力たる知性・精神(あるいは 想像力)を 人間的にはたらかせようとするのだが このことを 欲望する諸機械の生産(ないし 自己運動)の過程となってのように タカマノハラ神話(源泉機械)のもとに だからみづからが源泉機械となってのように おこなう。
源泉機械(自然力)そのものになりたいというシャーマンは みづからの人間身体の器官をなくすかのごとくである。器官はもう要らず 作用だけが欲しいというかのごとくである。じっさいには 身体を脱ぐのではなく 精神・人格を脱ぎ捨てるのである。そのとき 身体も死ぬ。空気のようなものになる。そのことをしも 精神・知性によって おこなうのである。器官なき充実身体となる。

器官なき充実身体〔のシャーマン〕は これら〔アニミストたちの〕欲望する諸機械を全体として迫害装置と感ずるのである。
(1・2)

アニミストたちは さまよいながらも 感覚器官をまだ保っており そのぶん 生き生きとしている。これを シャーマンは こわがる。全存在への脅威と感ずる。また 他方では アニミスムの原始心性のさまよいを 自分たちは 脱しているという誇りがある。文化人なのである。劣等感と優越感をないまぜながら 後者が勝って(なぜなら だれも 自分がかわいい) 文化人シャーマンは 社会を動かす力となろうとする。活路はそこにあるし そこにしか活路はないと考えるようになる。教える側に立たなければ 何もできないのである。そのためには しかしながら 欲望のであれ生き生きしたそのような感覚の発動に対しては劣等感があるゆえに その自分は 死んだ振りをするのがよい。すなわち みづからは いよいよ 動かなくなっているのがよいと考えた。死者であることのほうが アニミストたちにとっては 神秘的に見えそこにカムムスヒの力と作用を感じさせうるかも知れない。そうして全体としてタカマノハラ神話の幽漠とした世界をつくりあげることができると考えた。みづからの精神を脱ぐというその精神じたいは 吃立しているわけである。しかし 二重出発点として。あるいは 分裂出発点として。空気のようなアマガケル身体。やがて みづからが みづからにおこなう弔いの煙が 放射線となって 漏れ出 ただよう仕掛けになっている。あるいは あたかもブラック・ホールのように 吸引力をも持ち始める。それは 死をよそおうといっても まだ死んでいないわけであるから 吃立した精神は がいこつのようではありながらも 自分をこの世の生の世界に 引き戻して欲しいと 願っていることである。しかしながら おそらくすでに確保した自己のタカマノハラにおける地位は 手放さないということになる。

パラノイア機械〔* すなわちアメノミナカヌシ傾倒〕の発生は 〔片やアニミストの〕欲望する諸機械の生産の進行と〔片やシャーマニスムの〕器官なき身体の非生産的停止(* 死)とが対立するときう即材に起こることなのである。・・・しかし パラノイア機械は それ自体においては 欲望する諸機械の転身した姿なのである。すなわち パラノイア機械は 欲望する諸機械と器官なき身体がもはや欲望する諸機械に耐えられなくなる場合に生起してくるものなのである。
(1・2)

単純にいえば パラノイア人は ハムレットと言ってよい。統一神アメノミナカヌシを見るようになっている。タカミムスヒ症候群では タカマノハラにみづからアマアガリしながら この世(アシハラ)に引き戻して欲しいと願い そう願いつつも タカマノハラなる地位は 降りない。こういった・みづから作り出した分裂出発点における葛藤・すなわち もともと無理で無効の葛藤が 起こっている。あたかもパラノイア人は このシャーマンたちの葛藤を 自己のものとして受け取ってのように 解決策をさぐる。アメノミナカヌシ統一神を 観念するのである。いかんせん これは 観念であるし タカマノハラ神話の範疇の中で捉えられており そして シャーマンたちの葛藤じたいが もともと 無理で無効のものであったのだから 懊悩は 深まるばかりである。また これらのことは シャーマンたちの葛藤が その自己とそしてアニミストたちの欲望する諸機械(生き生きとした心理起動)との対立でもあったのだから 〔パラノイア人の発生は〕 シャーマニスムとアニミスムとの対立の中から 生起すると考えられる。
アメノミナカヌシ宗教のパラノイアは 統一を――すなわちしかも それじたいは人間の手に負えない自然力の作用のあいだの統一を―― 見ようとするからには 調和を信じている。その意味で 和を以って貴しと為す。ハムレットも 勉強し努力する。パラノイア人は それとして永遠に――しかも良心的にである―― 学問研究をつづける。
(つづく)