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哲学いろいろ

#26

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 g

§6−3(つづき)

ここで さらにあらためて 器官なき充実身体のシャーマンが 台頭してくるのである。パラノイア人に代わって さらに妥当な統一・調和を見出したか それを提示しえたかなどを別として つまりそれらには おかまいなく 社会の経験現実的な秩序をそれとして 重んじるというところから来ている。文化人たる英雄であるから。かくて スキゾ・シャーマンは 社会の指導者である。非生産的停止つまり死において タカマノハラ大統一理論(それの一般)は 達成されるであろうし これによって 出発していれば 社会の秩序も 実現されていくであろうと いわば体を張ったわけである。停止的な生産つまり生産しないこと(死) これによる(これの指導のもとに繰り広げられる)社会におけるもろもろの生産の過程。器官なき充実身体たちの 饗宴と行進。
われわれは 時にこれ〔の達成した成果〕におどろくが みづからがそれと同じものになろうとは 思わないようである。
ここがまずい あそこがだめだと言って かれらに話しても かれらは 統一理論的にして分裂動態(非動態)なのだから いつでも どんなときにも 身をかわす。身をかわすすべは 構造的であり(ビルト・インされていて) 大抵のことは すりぬけ きりぬけていく。つまり ますます 死をねがうわけである。ここにこそ 社会秩序の源泉と実現とがあると考えている。文化有力たりうる人間の栄光だと考えている。縮小構造の者でも 社会秩序の実現は 一つの人間の栄光であるのにちがいない。――これで 政治家シャーマン 学者知識人パラノイア人 一般民衆アニミストという それらすべてを故意に欲望する諸機械の観点から見たばあいの社会の構図ができあがる。
こういったドゥルーズガタリとの提示にかんして 単純にわれわれが言おうと思うことは 普通の同感人出発点の回復ということである。

われわれは欲望する生産と社会的生産(* 一般のふつうの社会生活まで広がる)との間の平行関係をみておかなければならない――とドゥルーズらも ただちにつけ加える。欲望する諸機械の観点からだけ見るのは とうぜん 部分的となる――。・・・端的にいえば 二つの生産の間に平行関係があるということは 社会的生産の諸系あちも また 欲望する生産のそれと同じく次のようなものを含んでいるということである。すなわち 発生してきたものではない〔* =ゆうれいシャーマンの〕非生産的停止 進行に連結した反生産の境域 社会体として規定される充実身体 といったものを含んでいるということである。
(1・2)

《この充実身体は 大地(* 土地)という身体でも あるいは専制君主という身体でも あるいはまた資本でもありうるものである》とつづく。こうなると むしろ ここでは すべて《欲望する諸機械の観点》からのみ 見ていく手法を 著者たちは つづけて 取っているとも言わなければならないようである。無理で無効のゆうれい現象は あらゆる人びとに浸透していて 誰もが 同じ穴のむじなだという見方のほうをこそ むしり提出している。そしてただし この充実身体は

要するに 充実身体としての社会体(* 上にわれわれが見た構図たる)は 一切の生産が登録される表面を形成し この登録の表面から すべての生産が発出するような様相を呈する。
(1・2)

と論じていく。そう論じる視点としては人間のふつうの推進力 その出発点を 見ようとしているのである。あるいは すでにそこに(同感人出発点に) 立った結果としてである。
われわれのこの一重の出発点が 《表面――法律制度・慣習体系となった狭義文化の構造――》から別のところに存在しているとか つまり故意に別であるとか それをまぬかれているとか言わないにしても それから 同時に 自由であるとか 言おうとしているのだ。少なくとも 論理的に構図として そうであるだろう。けれども その自由さは じっさい 指導者スキゾ・シャーマンの活動の自由と 類型的には ちがうものではない。つまりわれわれは 遠慮することはない。ドゥルーズらもそう言っているかどうか わからないところがあると言わなければならないが われわれ読者は すでにそう明言してもよいと思われる。むしろ読者の特権であるだろう。要するに 慣習も変わり法律(登録体系)も変えられてゆく。そういうあたりまえのことでもあるはづだ。つまり《表面》はあくまで表面だから。

社会は〔*――スキゾ・シャーマンの指導によって――〕 生産の過程を登録する(* 合法的なものに 秩序あるものに する)ことによって 自分自身の錯乱(* 分裂 あるいは 少なくともその妄想)を 〔* くりかえせば 合法的な秩序・権威あるものとして〕構成することになる。
(1・2)

ドゥルーズ ガタリは なかなか ふつうの推進力出発点のことを 明示して 説きそうにないから もうあまり引用しないが 言おうとしていることは 見てきたところのものであるだろう。われわれは 出発点を問わなければならない・出発点の 二重となって分裂するタカマノハラ理論形成の誤謬を つかなければならない。また そうすることができる。
(つづく→2008-01-13 - caguirofie080113)