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哲学いろいろ

#27

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 h

§6−4

ドゥルーズガタリが 自分たちの意見をなかなか 明らかなかたちで 説きそうにないといった点で 議論をつづける。わたしのことばでは わたしたちの普通人の知性と知恵の動態のことを そうだとすれば かく論じるかれらも はっきりさせていないといった点である。
《登録 enregistrement 》という概念が 前節であらたに出て来た。発生状態においては 個人的におこなう《錯乱の統一 調和をもった接続的・生産的な綜合》のことだと思われる。社会生活の上で 習慣制度・法律体系のことだと思われる。
アニミスム原始心性(その名残り)としての心理のさまよい(その意味で 近代人としては スキゾ=分裂症(当時の名称)をともなっているかも知れない)は それじしんにおいても 神々(あるいは 精霊)の調和を見ようとしている。とは言える。それではまだ錯乱(さまよい)を免れないだろうと見る人びとは 統一神を観念する。この観念の調和に 固執するのは パラノイア人である。心理錯乱や観念調和をさらに超えようとするのは 近代合理思考であるが 観念調和・だから現実非調和 という錯乱を なおも観念神(あるいは 観念人)によって 綜合・調和させようという近代合理人が シャーマ二スト・スキゾである。たとえ自分自身は 錯乱をまぬかれていたとしてもなのである。
この観念神(その意味でのタカミムスヒのカミ)の体系ないし観念人たち(神格視された英雄など)のもとにおける社会的な諸関係の体系 これらは 登録という表面現実となって現われるというものである。この場合は 法律や学問は 別なのであろう。あるいは 登録〔体系〕によっておおわれるということであろう。そうして要は スキゾ・シャーマンが 表面人となるということである。
この登録は 生活基礎にもはや じゅうぶんな形で 経済活動を見ており持っているから その限りで 原始心性の心理錯乱をほとんど許さないといってよい力を持っており また その心理錯乱を 観念統一神〔を念観すること〕によって調和あらしめるパラノイア思想をも 古いものとせしめる。つまり もう どこから見ても 経験現実的な過程に立っている。それを知っている。しかも この《過程》が つまり言いかえると《表面としての登録によって規制・領導していこうとする過程》が 目的とか目標となるなら それは とうぜん いま一つ別の観念調和であらざるを得ない。スキゾ・シャーマンの体系は われわれの同感人=経済人の出発点に立ちながら 微妙に逸れて 増殖・分裂するのである。その作用は 狭義文化の構造にもとづくならば 暴力ないしはそれとしての合法的な思考作用である。そこでは人は 登録制度に登録されて初めて 人間となるというぐあいであるから。そういう暴力が 作用している。背感・異感・分裂したからである。はじめの出発点は 縮小構造のなかに《登録された》という経験現実かつその観念に おかれたことになる。《表面》が 人を 覆い 襲う。それでよい または やむを得ないと見るのが 秩序の元締めたるスキゾ・シャーマンである。かれらも 人間存在のパラドックスを知っている。
登録――法治社会(あるいは 民主政治でもよい)――は 経験現実的にして合理的な 錯乱の綜合である。登録じたいは おそらく 手続きとして そうであろう。これが 目的となるなら(未開からの文明化) 観念神=観念人による調和・秩序 その意味での社会支配である。観念神(タカミムスヒ)=観念人(スキゾ・シャーマン)とは 充実身体のことであり 《大地(地域=民族共同の秩序・統一)でも あるいは〔少し古いが〕専制君主という身体でも あるいはまた資本(だから いわゆる物神)でもありうる》。この文につづけて 言う。

マルクスが それは労働の生産物であるのではなくて むしろ労働の自然的なる(* 衝動自然〔という神〕なる)あるいは 〔それゆえに むしろ〕神聖なる前提(* 出発点)として現われるものなのだといったのは まさしくこの充実身体についてなのだ。

  • 登録には 神聖なる侵すべからざる出発点が 文化の観念有力として ある・ありうるということだ。

じじつ 充実身体は 単に生産の(* あるいは アニミスム・パラノイアの心性一般)そのものに対立することに甘んじているものではない。それは 一切の生産の上に折り重なり(* そこに自分の像を写して) 生産力と生産の担い手とが分配配置される表面を構成するものなのである。

  • これによって みづからが《格が上》になった。

このことによって この身体ならびに各部分を意のままに操作することになる。となると この全体と各部分とは いまやこの充実身体から発出してくるかのような様相を呈することになる。

  • 二重出発点の分裂が 社会一般的にも伝染する。

まるで それが ひとつの原因に準ずる働きをするもの(* ひとつの準原因〔=第二出発点〕)ででもあるかのように。生産力と生産の担い手と(* 要するに 一般市民)は 充実身体(* さらにその象徴は 資本なり民族なり)の力を奇蹟のような形において示すことになる。つまり この両者(* まとめて一般市民)は 充実身体によって奇蹟を授けられているようにみえるわけなのである。〔要するに 充実身体としての社会全体は・・・(と前節の引用――(1・2)からの引用文――につながる)〕。
(1・2)

登録は このように 資本なり民族なりがあたかも原子力発電所のように一つにまとまって 生産の過程総体を 奇蹟のようにして いとなむ推進力の一つの形態 あるいは 起動力の社会装置だと考えられると言う。奇蹟という用語があるからには すべてがもはや 経験合理的に進められつつ なおかつ 観念神の存在するかに見えることを 明かしている。人びとは 合理経験を超えたところに 何らかの神の力を観念しているかのごとくになる。いやさらに この観念神が そこらじゅうを歩き回っているとさえ。それには 端的に 充実身体をすすんで取るスキゾ・シャーマン――不動の動者――の思想が 介在するものと考えられるというのである。それは ほとんど自由に 合法的にである。自由に合法的にというのは 登録制度のことでもあるから(あるいは 登録制度を制定し運用するときの思考と行為との形式でもあるから) もう循環論法(自同律)になっていると見えてくる。
なるほど そうだとすれば そこには 欲望する諸機械のサイクルが 社会生産の過程として 見出されるというぐあいになる。
 しかも われわれは 人間の出発点を サイクルとは見ないし 欲望・機械とも考えない。それらを調和し統一する観念神にも  用はない。これらではいけないと分かっていて なおかつ自己の内へ この観念神をとりこんで 自己確立するという行き方 これをわれわれは取らないと言ったし これが問題だろうと言った。しかも それらではいけないと分かったなら その分かった時点で 自己の出発点は 回復されていると考えた。そう考えつづけているものである。
この自己確立の(自己還帰の) 社会的な実現のために その手続きとして 新しい法律を取り決め 登録制度を用いることは ある。その点 たしかに《経験合理(その理念)を念観しつつ身体を充実させる近代スキゾ・シャーマンによるところの登録制度》と 重なる面を持つ。出発点がちがうし――重なりつつ ちがうし―― 順序が逆であるわけである。われわれの自己確立およびその社会生活は 観念の大合唱を必要としないから スキゾ・シャーマンのように充実身体を取り得ないし それによる社会生産の過程として 神秘も奇蹟も見ない。おどろくことはあっても 充実身体のようになりたいとは思わない。それは 能力によって出来ないことである。
ドゥルーズガタリの議論においては ここのところが あいまいである。わたしは その方向を示唆していると読んだが それは わたしの読みちがいであるかも分からない。

器官なき充実身体は〔* 統一指導的な立ち場に立って〕 欲望する生産に〔* 上から〕折り重なり この欲望する生産を引きつけ〔* 吸引し〕 これを自分のものにする。(* つまり 領有する)。
(1・2)

と捉えたドゥルーズガタリは ここから 何を言おうとしているのだろうか。このような経験現実は 不可避のことで それこそ人間社会のあたかも真の姿だと 言うのであろうか。それとも このあたかも繭の中に棲息するような社会生活の形態 これを 突き破ろうと言おうとしているのか。後者だとして しかしながらさらに あたらしい観念神をもった別種の充実身体の出現という奇蹟をねがっているのであろうか。奇蹟をもってしなければ なにごとも いまの経験現実を突き破ることは出来ないと言っているのか。あるいは この経験合理的で民主的な登録社会は 突き破ることなど考えられないと 人間の勝ち得た一つの栄光であると 考えているのであろうか。
登録社会は 人間の一つの栄光である。そして これゆえに もはやそこでの自由と形態的には同じ自由で われわれは 次へとすすむことができる。《吸引と領有》は その形態を 変えていくことができるであろう。だから もしそうだというときには そのための経済制度(登録)を改革していこうということと同時に 思想的には いまの登録社会の 思想的な出発点を問題にして 自由な討論をあたえていける。
ドゥルーズガタリは こう言う。

しかし 一切のことが生起し登録されるのは 器官なき充実身体の上においてである。

  • つまり 現代の社会で そのような経験現実=思想が 有力かつ優勢である。

つまり 諸動因(* 欲望する諸機械)の交接や 《神》の分割さえもが(* ――すなわち あたかもこれまで行なってきたような わたしたちのタカマノハラ神の分割とかそれを整理した把握さえもが――) また碁盤の目のように縦横に走る系譜やそれらの系譜の入れ替え交換さえもが(* ――すなわち 登録制の実態内容の 新しい方向への変換さえもが――) 生起し登録されるのは この身体の上においてである。しらみがライオンのたてがみの中に住みついているように すべてのことは 創造されないで始めから存在しているこの器官なき身体(* 資本ないし民族)の上に存在しているのである。
(1・2)

ここで――スミスに従ってのわれわれの同感人を しらみと言うのであるが―― ドゥルーズガタリは 反面教師となっているのであろうか。わからない。あいまいである。字面の上では 悲観的な宿命論である。もしくは このような――われわれには宿命論に見える――悲観的な現実把握の上にこそ われわれの自由の発揮されるところがあるということなのであろうか。あるいは 自由などどうでもよろしいということなのであろうか。――わたしたちは わたしたちの意見を もう いやというほど語った。
なお 引用文の最後で 器官なき身体が 《創造されないで始めから存在している》というのは もしふつうの出発点を持つ人間が創造されたのかどうかを問わないとすれば その器官なき充実身体という別種の出発点が――われわれには 別種としてあるいは第二次として想像されたと考えられる出発点が―― 《知性・精神の可能性として すでに〈創造されないかたちで〉一つの想像理にあって 〈始めから存在している〉》ことだと考える。タカマノハラがそれであり けっして人が勝手に編み出したものではなく 理念としては《自由・平等・愛》とか あるいはもう少し具体的に《資本ないし一定の土地の上の〔諸〕民族的な社会秩序》のことである。《資本》も 社会生活の資料として そこに利益の概念を容れたとしても それらの理論的および論理的な―ーつまりは 自由で平等な――生産と消費との象徴概念でもあると考えられる。スキゾ・シャーマンはこれらを 妥当で正統な出発点と見出し つまりは理念を根源的な一つの出発点と見なし みづからを空しくして これら自身につき しかしながら 出発点は もともと これらの理念が理念であり(代理概念であり)その限りで妥当であると見なすときの精神・知性・意志の自由だったのであるから そうであるのに その能力器官を有する自己を去ってのように 器官なき充実身体となる しかもその上このことが 《創造されないで始めから存在している》と考え 意を強くし この念観を再生産していくというものだと 思われる。われわれに 念力は 無用なわけである。自己とは何か あるいは何でないか その出発点 これのみを語るという虫のいい議論に終わったけれど 以上のように。
(つづく→2008-01-14 - caguirofie080114)