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哲学いろいろ

#32

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§8 小林昇(稿)《 Das Japantum について――住谷一彦『日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー)』を机上に》―― b

§8−2

人びとは 《エートス》によって 影響されることはある。広い意味の依存効果 dependence effect である。人びとの欲求・欲望が 消費じたいへの欲望・生活じたいからの欲求によってではなく 生産の過程からというか すでに大量に生産されたものの存在とそれの購買へと促す広告・宣伝から 駆り立てられるように 影響され 影響しあう。ことはありうる。つまりこれも エートスだと見ようとおもうのだが それは 大量生産=販売の時代におけるこの一つのエートスの以前には それ(機械による大量生産)が 安くて質のよい品物をつくりうる・よってそうしようとして始めたところの 経験的な論法でいう・推進力が――つまり人間の知性が――あったわけである。だから 広い意味の《依存効果》という一つのエートスは この狭義の推進力のあとにではあるが 人びとのあいだで影響しあって 言ってみればそれも時代を推進してきたわけである。表現の問題で争わないとすれば それも 推進力である。
だから 住谷とそして 小林は たとえばこの依存効果の社会一般に現われる時代よりもさらに遡ったところでだが 広い意味の《推進力》を 論じていることになる。住谷は 《日本の意識 Das Japantum 》として ユダヤ民族の唯一神を抱くようなかたちのエートスが 日本民族の中にもあったのではないかと つきつめて言うと 論じた。小林は いや そうではなかろう それのみではないのであって くだけて言ってしまうと 《八百万の神々》という表現にあらわされるような形のエートス つまり 《豊かで複雑で層の厚い〈日本の精神史〉》たるエートスでなくてはならないと 反論している。
わたしは 先に 《エートスは 生活態度が習慣化した部分を言うであろうから 推進力ではない》と言った。ここでは新しく 《習慣化した生活態度(ないし 生産の様式)も 人びとの間に影響しあって その意味で社会を推進するから エートスも 広い意味の推進力である》と言った。言い替えた。
ここで わかっていることは 住谷の言う《悪評高い集団帰属意識》は とうぜん 《習慣化したエートス》である。(それは 尊重され 思考や判断の一基準になることはあっても 出発点ないし最終の目的ではない)。第二に 同じく住谷が 《〔この集団的性格というエートスは〕 その生活意識の奥深いところで 高神信仰が生き続けてきた事態と何処かで関係しているのではなかろうか と思えてならない》というとき それは 生活態度・知性 としてのエートスである。つまり 経験的に言う限りでの狭義の推進力である。
したがって第三に これに対して反論をあたえる小林の言う《層の厚い〈日本の精神史〉》は 《高神信仰》といった生活態度(それは アメノミナカヌシ理論型であるが)のみには基づくのではないところの むしろ――広い視野としての一概念でありつつも―― 狭義の推進力に言い及んでいること これである。層の厚い日本の精神史には 個体としての一日本人の精神も 含まれているから。
第四に わたしは この狭義の推進力は 知性 或るひとりの人の個体的な・知性をはたらせての生活態度のことにほかならないと言ったこと。これらが いま わかっていることがらである。
これら四点において 互いに矛盾のないことがらを まづ確認することができる。わたしの言う《知性》は 《精神》――ただし 個体のだが――と同じものであるから 小林のように 《精神史》といっても その限りで 大差ない。しかも 住谷も 《生活意識の奥深いところで 生き続ける信仰》という表現をとってはいるものの やはり《精神 / 知性》と それほど ちがわない。アメノミナカヌシ いや 高神(氏神)が 人びとをして 集団的性格をとらせているということではあるまいから。たといそうであっても 個人個人の精神を通してであろうから。また わかりやすい喩えとして 依存効果のような――それの一類型としてのような《集団帰属意識》そのものの――エートス これを しかしながら 狭義の推進力だとは だれも見ていない。くどいように言うなら この集団帰属意識なるエートスを尊重しなければならないなら 尊重すると判断し実行するところの出発点 なんなら狭義のエートス つまりそのような知性・精神が おのおのの個体に 先行して存在する。と言わねばならないから。
異なった見解は 次の点にある。狭義の推進力としての生活態度を 住谷が さらにすすんで 《高神信仰――これが 氏神と氏子との関係をとりまとめ 氏子たちのあいだに 団結力をうながし つちかう と言う――》を捉えようとすること。つまり 類型(ないし理念型)として言って アメノミナカヌシ理論に言い及ぶということ。小林が そこまで進むべきではないだろう 進むとしたなら(また 進んだ結果 それをそのまま提出してくるのは) 回帰であろう。あるいは 退歩となるのではないかと言って やはり漠然と《豊かで複雑で層の厚い〈日本の精神史〉》と言うにとどまること。わたしは 経験的には ただ つねに 知性・精神であって それ以上の(ひろがった・ないし抽象的に分析して明らかにするところの)エートス形態は すでに習慣化した生活態度だと言い――民俗ともよぶべきものだと言い―― はじめの《狭義の推進力》の同じ概念にとどまること。
これらである。

  • また アメノミナカヌシ理論を提出するときには それを 一つの説明前提とし 構図理解としてそうすることを ジラール論で諮った。

ながながと くだくだと こう述べてきて 何が言えるのであろうか。
わたしにしてみれば 個体的な知性 そして この知性の初形による新しい生産ないし生活の形式(出発点では イデアである)の実現 ここまでが 狭義の推進力であって その後 社会一般的な生産の様式の形成・それによる社会的な相互の影響がエートスとして 過程されることや このエートス過程を分析して《高神信仰》を人びとの生活意識の中に見出し取り出してみせること また そこまでは進まずとも その同じ次元で 総体的に《日本の精神史》というふうに言いかえると これらに反をとなえることである。後者の二つの行き方は 《推進力》論から離れるゆえである。もしくは 広義の推進力を論じたのだというぶんいは それはしかし 依存効果的な相互影響としての推進であるゆえである。(それらを 《観念の資本》とよんでもよいと思う)。
住谷のは なるほど《個体的な》推進力についての議論にまで入るのであるが それは よく見ると 個体的な推進力にかんする一観念の相互影響・滲透を論じているかっこうになっている。個人がいないのではないだろうけれど 一種のアメノミナカヌシがすでにその個人を覆うと見ている。悠久の昔からそうであって もし歴史知性の登場にも触れるとするなら このような歴史時代以前からの《伝統》を各個人はもう そのまま受け留め受け取る以外にないというかっこうである。つきつめていくと 歴史知性は要らないか ただアメノミナカヌシ信仰に従属して仕えると見ていることになる。そうしてただし そういう見方をするのは 歴史知性の――つまり 住谷個人の歴史知性の――おこなうところとなっている。
小林にしてみれば 住谷の 観念の資本〔への一見解〕について 習慣的なエートスの中に 狭義の推進力たる信仰を――表現の問題であらそわないとすれば―― 見てもよいが それを 高神もしくは唯一神に対するものとして 捉えるのはどうであろうか。《集団的性格》――それがそうであったとしても――と 《統一的・全体〔主義〕的な性格》とは ちがうであろうと言いたいわけである。わたしなりの解釈がここには入っているが 当たらずといえども遠からずだと考えて さらにすすめたい。
住谷にしてみれば かんたんに言えば わたしの言う《知性 / 精神》(類型的に ムスヒ存在である)のさらに《奥深いところに生き続ける》核を知りたいし 提示してみたいということではあるまいか。
さらに小林に対して わたしなりに よく解釈するなら 《自分は たしかにこの書評では 観念の資本(エートス)の次元で 論じたが むろんそれだけではない。ただし住谷の言うように それを高神信仰だと規定して言うつもりは ない》ということになるのではないだろうか。
臆測による議論とはなったものの これで――ここまでで―― 先に指摘した一つの問題点を 別の角度から ひととおり論じ進め得たと考える。
(つづく→2008-01-19 - caguirofie080119)