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哲学いろいろ

#33

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§8 小林昇(稿)《 Das Japantum について――住谷一彦『日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー)』を机上に》―― c

§8−3

以上をまとめて どういうことが言えるか。
《観念の資本》というのは 上に触れた限りでは 習慣化した生活態度のことを言います。知性が新しく人間関係(≒資本)を切り開いたその新しい生活態度が 慣習となり観念(観念共同)化したものです。はじめの知性に 倫理や道徳まで また 法律などとつぃての規範的な要素も 前提事実としては 含まれていたであろうか――つまり もう少し正確に言うと 新しい知性は 古い既存の倫理や道徳から成る情況にあって これらに衝撃をあたあえる結果となり それとして普遍化し また時に 習慣化していくなら 新しい倫理やまた法律にまでなっていく部分もあるということであろうから―― これらを含めて エートスとしての観念の資本という。
このエートスという社会情況がある限りで 観念の資本は そのものじたい どうということはないわけである。(きびしく言えば 《習慣》というものは すでに 狭義の推進力つまり個体の知性・精神から 離れる――もしくは 知性の或る種の部分が すでに 横になり眠ってしまうことがあるだろうから 観念の資本というのは 明らかに われわれの外にあるものである。また それとして 内面へも往来するであろうが それは 心理でありその起動力だと考えられる)。だが この観念の資本を対象として 認識することはありうる。エートス論は その限りで 一つの研究である。また 観念の資本が はじめの狭義の推進力・一つの淵源としての知性を その中にのこズように持っているとするなら この限りで エートス論は そのエートスの淵源にさかのぼっていくことによって 推進力につきあたることは 可能である。
この意味で 小林は 観念の資本の次元で論じていつつも 狭義の推進力をないがしろにしようとしたわけではない。つまり いづれにしろ かれは 《精神史》と言うことで 各自の精神(その交流の歴史)が ともかくそれだと 住谷の見解に異を唱えたことになる。それは わたしのと同じように 同義反復なのだが 住谷が 観念の資本の核たる・そして統一的な核たる実はまた《観念》を――つまり《高神・高神信仰》を―― 提示しようと試みることに いやその行き方に 反をとなえたことである。小林もわたしも 《生活意識の奥深いところで生きつづける信仰》を みとめないわけではない。それは 知性・精神というのと――そして特に 個体的なということにおいて 信仰と表現するのと―― おなじことであるから。
となると 推進力論にとって――もしくはいわゆる《近代化》論にとって―― 必要なのは その知性の具体的な 経験過程的な あり方であるにほかならない。これは 評者・小林昇にとって 書評の枠を超えたところにある。正当にそうだし その点 ほかのところで(ほかの著書などにおいて) 論じられている。そして もし 住谷が この具体的な知性のあり方を 把握し例示していたとするなら それは 集団的な性格ないし団結力を見ていたということが それである。(少なくともここで この一点にしぼった)。抽象的に高神信仰というのは この具体的な団結力〔としての知性のあり方〕をいうのと 同じであるだろう。この一論点の限りで そういうことになるであろう。けれども 集団帰属意識というのは まだ《依存効果》形態のエートスにほかならない。これを いわば純粋思想のかたちにして捉え 《 Pietas 》をもたらしうる高神信仰なのだと言っても そのエートスは 観念の資本を超えない。もしくは はじめの知性へとさかのぼっていかない。言いかえると 類型的には つねに狭義の推進力を視野におさめようとしては いる。そしてただし 前面および全面に出てくる。この全体観こそが 狭義の推進力だと言ったかとも 捉えられる。
もし それでも 氏神だとかというときの日本の《高神》が・その信仰が はじめの推進力たる知性のあり方を 基本的に 構成しているものなのだという反論が 住谷から出たとしよう。だとすると わたしたちは 住谷に だれが これを始めたのかと 問い返さなければいけない。集団的な事例を歴史の中に探り出し その情況証拠で 推進力論を展開するのは 《豊かで複雑で層の厚い〈日本の精神史〉》と小林が言うのと ちっとも変わらない。それですむ。つまり 《複雑で層の厚いエートス》も それでいて 集団的正確を持っていたと言うのに等しい。《高神信仰》の事例を 説明に加えるところが違うと言っても それは 言われている《日本教》をもってくるのと 変わらない。広義のエートス その情況証拠で 推していくからであると思われる。
つまり 日本教論にも 広い意味のエートス論としては それなりの説得力があるのであって しかも それなら――それだけなら―― 各民族ないし国民経済に 固有の高神信仰があったとして説明するに等しい。イギリス教(または スコットランド教) フランス教 ドイツ教等々があって 近代化を推進したのだというふうに。これは 純粋思想のように捉え 真実を言い当てていないのではないとしても 実際の経験過程としての観念の資本を そのまま 一つの統一的な観念のもとに説明する作業の域を出ない。もしその説明で納得する人は しかしさらに この各民族教を いったい誰が 発明したのかと問い返さなければいけない。それとも どの民族も 近代化に際して みな そういう経過をたどる――人間なら誰しも そうなる――ということを 言いたいのであろうか。
言ってみれば 人間は この《一般エートス general theory of ethos 》のもとに生きて死んでいくとの宗教社会学的な原理を説くことが 住谷の推進力(知性)なのであろうか。つまり この理論は ほかならぬ住谷が 始めようとしたものにちがいない。むしろいま かれが創出しようと腐心していることにほかならない。これは 観念の資本である。その加速度効果・乗数理論である。もしくは 住谷その人にあっては 知性・推進力なのであろう。
小林は そうではなかろうと反論するだけでは 足りないのである。今度は 書評の枠内で 反論の根拠をしめす必要がある。
これは 荷の重い仕事なのである。なぜなら 経験現実の観念の資本 その情況証拠をあつめて その観念の資本じたいを 説明し証明するていの議論に対して 反論しなければならないからである。住谷の議論の内容に即して言うならば 氏神氏神信仰)を氏子にたちがおのおの どこまで狭義の推進力としていたのか。氏神信仰としう広い意味での推進力による集団的性格というエートスに対して 氏子一人ひとりの知性は どのように関係していたのか これを論じることによって 淵源の推進力に到達しなければいけない。これを 高神信仰だとして その情況証拠をとりそろえて 《日本の意識》論の中核にすえるのは そのことが 結局 絶対真理なのだと われわれに 説教したことに等しい。
これは自由だが 住谷が自身の考える新しい知性のあり方を提示するのは自由だが われわれの反論は 一つに むしろはっきりと そういう性質の議論だということを住谷自身 はっきりと明らかにすべきだという点。もう一つに しかしながら この知性のあり方は 何も新しいものではなく 結局いまのままの観念の資本のあり方でよいと言っているに等しいことのゆえに とることが出来ない点にある。つまり 民俗学である部分は それとしてある。排斥することなど ありえない。日本教の理論と同じように それを取る・取らないは 関係ないところの 基礎知識的なエートス論だという点にある。
 なぜなら もし現代の日本で そろそろ 団結力をやしなう高神信仰が衰えてきたと言って ふたたびのかたちで 新しい知性のあり方を提案したというばあいにも おそらく その議論の展開の仕方にもとづくなら むしろ依然として 集団的性格が強いゆえに 高神信仰をないがしろにし始めたとこそ 見るべきであろう。《一般エートス》の中の各民族教エートスの一つとして 高神信仰たる日本教があるとするなら 一時的に衰える・衰えないといった事態は 論じるに値しないものであるから。
もし論じるに足りるものだと考えるなら それは たしかに 過去に対する展望として近代化論をそのように言い当てたということになるけれども むしろ議論のねらいは そうだとしたら これからの未来への展望として まったく新しいエートス理論を提示したというところにあることになる。つまり 住谷のタカマノハラ理論ないしかれの知性が これらの推進力だと言ったことになる。けれども そういうときのも 一般的にして基本的な考え方は やはり人間の知性が推進力だということに落ち着くのである。その中の一つの提案だとはっきり住谷は 述べなければならないし しかしながら その新しい形式は 具体的にはまだ何も提示されていない。住谷個人が示されただけである。自分自身を示しただけである。なら それだとして はっきり宣言すべきではないだろうか。だから どちらにしても 住谷の見解は 実質的な内容として 基礎知識の確認はあるが 新しいものではないはづだ。新しいものだとしたら 日本全体にわたる住谷教の教祖として立つと言ったことに等しい。
(つづく→2008-01-20 - caguirofie080120)