caguirofie

哲学いろいろ

#34

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§8 小林昇(稿)《 Das Japantum について――住谷一彦『日本の意識―思想における人間の研究 (同時代ライブラリー)』を机上に》―― d

§8−4

だから どちらにしても 住谷の見解は 実質的な内容として 基礎知識の確認はあるが 新しいものではないはづだ。新しいものだとしたら 日本全体にわたる住谷教の教祖として立つと言ったことに等しい。そうでなければ 《歴史はなるようになる そしてそれは 〈一般エートス〉の関数である》というのが 大筋の議論なのだ。
いや そこまでは 価値判断をしていないし むしろ どうでもよい(つまり 読者の判断にゆだねる) したがって じつは なるようになるだろうと いうのだろうか。研究の姿勢 その成果の発表のねらい こういった領域が 考察される必要があるのではないだろうか。また そういった考察をする議論で 結局は 具体的な知性のあり方の問題を 見定めておくということになるのでは。無難なところでは 住谷は 《わたしは一個の知性である》と語ったのであり それだけである。(民俗知識とその研究史の知識を別にするなら)。
網野善彦は 《中世日本人の――また個人としての――自由について》論じ その当時の人びとと現代の網野じしんとの関係については 《模索》の過程にあると ことわった。住谷は 模索をふっきったのなら 高神信仰をどういう新たなタカマノハラ理論に変えていくのか あるいはむしろ高神信仰をあらためて出発点として復興したいというのなら それだとして はっきり宣言して進むべきではないだろうか。そうして そうであるかも知れないし そうでないかも知れない。後者の場合には ふたたび 大方の判断の材料を提供してみたのだということになるが じつは 準備として有益となるけれど 何も準備していないという議論が 出てきても おかしくないのである。つまり 学問に回帰していると考えられるのである。
わたしは 住谷から離れなければならない。
大量生産の例を挙げたから 近代化の推進力は 具体的なあり方として 単純に 機械の発明にあったということにしてみよう。つまり 機械を発明しよう――もちろんこれを利用しよう――というその個人としての発明者 また実用化した人の 知性という意味である。そしてまた これを普及させ 生産性を高めるなどして合理的に利用していこうという――そしてそのときには とうぜん 団結力も促されて発揮されるであろうところの――《精神史》なのだと。ハードウェアのほうも含めて言っているから 落ち度はないであろう。ここに 時代と社会に応じたいくつかの形態のエートスが 形成されていくと見ることに 不都合はないはづである。――ちなみに このときにも 歴史は《一般エートス》の関数なのだと 言って言えなくはない。ただし 観念の資本による説明としてである。エートス情況じたいは どこにでも・いつでも 展開されているだろうから。
わたしのこの単純な説明が 観念の資本ではないと言い張るのは ここには 発明者(ハード・ソフト両方の)がいて その知性によって 始められたという歴史を言っているからである。アメノミナカヌシがそこに介在したなどと言うこととは 別であるし あるいは何もわたしが 号令しようとするものでもありえない。第一の発明者でなかったり またじっさい何の発明者でもなかったとしても ここには とうぜん 《豊かで複雑で層の厚い〈精神史〉》が 過程されている。
ソフトの領域の根幹とも言うべき人権の対等性(自由・平等・友愛)は 機械による生産をつうじて――長い視野をとってみれば―― その製品が人びとに対等に享受されていくようになったという言わば依存効果の側面も指摘しなけれならないのかも知れないと同時に じつは 考えてみるに 人間の生産とか労働・つまり生きていく上での人びとの仕事が 自由に対等に遂行されるようになっているというその社会における発明者たちの知性のあり方 これが はじめに存在した。または その実現を問い求めた。このことにも遡って捉えられると言っても それほど牽強付会のぎろんではなかろう。近代化は このはじめの近代市民という知性・またその具体的なあり方が 狭義の――経験的な意味での――推進力だったということに どうして まづ とどまらないのであろうか。
知性の自由なあり方――自由とは 所有からの自由つまり 自分の持ち物をすべて剥奪されたという負の事態でもあったが――が 獲得されていくこと 獲得のためにどのような闘いをし 獲得したものをどのように 自分たちのあいだで持続させ普及させていったか これは 各社会と各段階とで ちがうであろうから そこに 日本なら日本で《日本の意識》というエートス論も出てくるわけである。しかし 《日本の意識》(その登録体系)が 日本人の知性〔の自由なあり方〕に先行すると言うのなら それは 〔近代〕日本人と〔近代の本場の〕ヨーロッパ人とで 《人間》がちがうと言っていることに等しくなる。もしくは やはり元に戻って 表面の登録制度たるおのおの民族資本の社会が 人間に絶対的に先行するかたちであることによって初めて 人類はみな同じ存在だといったことになる。
習慣的なエートスは 狭義の推進力たる知性に 先行することはない――時間的にではなく 原理的に考え方の上で 先行することはない――・その逆であると 言わなければならないのであって この知性を例にあげることによって 《人間》は 民族・人種の別なく 同じ存在であるだろう。このことをこそ言うために 《高神信仰》を持ち出すのであるかも知れない。だが その場合も つきつめていくと 構図理解としてのそのようなアメノミナカヌシ理論なのだと ことわっているか それとも はるかなる歴史の起源より保持されてきたこの高神信仰を いま自分が はじめての歴史知性としてのごとく 自覚し再形成するのだよ みんなよく聞きなさいと説いているか 二つに一つしかないのではないか。
そしてもい 民族教――各地域的な 供犠暴力的な文化と経済の社会体――が 人間の存在をこえて あるというその意味での人類の平等なのであれば 学問研究は さして重要な意味をもたない。おそらく 学問研究を深めようが何もしまいが どちらにしても 飲めや歌えやで いいわけである。つまりそのときには 学問することと 飲めや歌えやの生活とは 同等の人間行為であると言ったことになる。
エートス論には反抗しないけれど エートス論の扱い方には抵抗するのであって その問題は 上のような議論にまで行き着くものと考える。《近代化》のマイナスの側面 これを議論しなければならないことは また別の問題である。
(つづく→2008-01-21 - caguirofie080121)