#41
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第二部 踏み出しの地点
§11 山口昌男『知の遠近法 (岩波現代文庫)』
- 作者: 山口昌男
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2004/10/15
- メディア: 文庫
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§11−1
これまでの議論にもとづき 人間社会をたとえば 近代の以前(1)と近代以後(2)との二つに分類して 次のように認識してみる。
(1) 供犠制度の社会
(文化潜在=経済〔知解〕基礎の潜在)
・・・《人を黙らせる暴力‐犠牲の神聖化》といった供犠制度による〔それとしての〕文化秩序
(2) 供犠構造の社会
(文化開化)
・・・《経済自由の合法的な力‐経済文化自由(法理念)の神聖不可侵〔たとえば 富国による合法的な力の犠牲者への福祉などのつぐない〕》といった合理的な(文化を開化させた)・しかしながら 供犠構造をとると思われるところの経済社会的な秩序世界
供犠《構造》の段階では 制度として法(法治社会)が 前段階の供犠《制度》に取って代わっている。観念的に 観念共同の構造様式としては まだ 残っているかも知れないと見て。
《供犠ないし犠牲》の一観点からのみ見て しかもそれが 乱暴であるのだが (1)と(2)との両段階の大雑把な分類に そのねらいがある。およそどの民族社会においても その昔 土着文化(ないし文化潜在)を持っていたと考えられ それを 供犠制度の観点で捉えることは 可能であるだろう。そして これまでのわたしたちの議論では この供犠制度的な各地の土着文化を たとえば近代人(つまり 歴史知性をこれで代理させていうわけである)が のり越えてきたとは言っていた反面で なお供犠制度は残っているというような意味合いを含ませていた。ここでは(これからは) そこに一定の区別をしておこうと思う。
土着文化としての供犠制度(偶像崇拝などのタカマノハラ神話理論とその現実)は おおよそ捨てられ ただしわづかに(と言っても なお 神話症候群を残すほどだが) 供犠制度の 或る種の出発点構造(たとえば 単純に 《聖と俗》) これは 残っているといったような見方である。言いかえると 近代以後の(2)の段階では 社会生活の基礎たる経済活動が そのままともかく自由に 経済基礎となったのだと。
このことを (1)と(2)との間に いくらかは話しのつごうとしてでも アダム・スミスを持ってくるならば 同じく次のように見ると。
(1)同感人(出発点)の潜在
・・・状態として異感人である人びとの社会統治ないし共同自治(経済の潜在)
(2)同感人の顕在
(自覚・実践→生活基礎としての経済活動の自由化)
・・・スミスの《同感人=経済人》(道徳感情論=国富論)も ここでも こんどは 《もっぱらの経済人》の自由な活動をゆるしたかも知れない。またそれは 正当にもであったかも知れない。(同感人出発点は 供犠制度のおきてであるのではないから)。よって 異感人(ただし 文化自由を理念とし しかもこれを念観するところの観念的な――疎外されたと言ってもよい――同感人)による 経済合理的にしてかつ骨格として供犠構造をおびた共同自治。
(2)の段階で 十八世紀の人スミスのあと 十九世紀の人マルクスは スミスの基本線にのっとり しかしながら もしその主張の通俗的に理解される先端の部分のみを取り出してみるならば 結局は 自己疎外し人格が物象化して 異感人となった経済人(あるいは経済学)によるところの 依然として供犠構造をとる経済社会自治を 全面的にあらためよと 説いたとされるかたちである。
これを 通俗的な理解であり 依然として《供犠的な(怨念に発する)読み》であり 誤解であると知っている人びとのあいだでたとえば 経済じたいが幻想であるというまでの見解があらわれた。なお極論をとりだして言ったわけだが 文化が開化したあと(もしくは 歴史知性はすでに開化していて それが 文化一般として普及したあと) なおも供犠の構造骨格は これを採るかたちの社会関係の中で 精神分析学は やはり異感人たちの精神ないし心理の現象の側面に 焦点をあてて この分野から 同感人の回復をめざそうとした。文化人類学は 制度ないし構造(このばあい 制度の名残り)としての供犠文化の存続をむしろ掘り起こし 近代市民としての異感人による共同自治の歴史相対性を 明らかにした。
(歴史相対性の問題は それ以前にも となえられていた)。
現代経済学は 異感人=擬似同感人であることを やすらかに思ってはおらず かつ それ(経済学)として 経済運営のことに意を用いる。また 経済学は特に 社会全体の観点に立つから 個人の問題に触れるのは つねに間接的である。
ちなみに ジラールによれば そのタカマノハラ理論としてアメノミナカヌシ要因を説明の中に取り入れて 上の図式分類を言い直したものとしては 次のごとくである。
――〔α=ω はじめのことば(同感原理)〕――
(1) 同感人潜在の異感人たちによる供犠制度を用いての社会秩序
――〔α=ω キリスト・イエス(同感原理が歴史経験でもあること)〕――
(2) 同感人顕在の異感人たちによる供犠構造をとる世界秩序
・・・(この段階の初め たとえば手っ取り早くスミス以前には 思想ないし経験科学的な思想は 神学であったか それを大いにまじえていた)
アメノミナカヌシ要因の理論形態は――つまり 神を持ち出すと―― ふつうの信仰および思想の説明としてのものでもあれば 神話症候群になるのでもあると思われる。
スミスおよびマルクスの基本的な見解は 異感人状態の揚棄=同感人の回復(実現)という人間学にあり ムスヒ理論=経験思想(および科学)を すでに直接の課題としている。経験を超えるアメノミナカヌシ理論が もしあるとすれば スミスにおいてはいわゆる理神論(見えざる手のみちびき) マルクスにおいては唯物論である。
- 唯物論は アメノミナカヌシ一般をすでに言わないものであるが 類型的にそのタカマノハラ出発点=ムスヒ理論は アメノミナカヌシ要因を 排除いていない。もしくは 排除する・しないを問うていないと考えられる。無神論という規定をしてしまうと じつは通俗的なかたちだけとしても 無神というアメノミナカヌシ形態(つまり 別種の有神)にならないとも限らない。
大きな構図としては――そうしてはいけないかも知れないが―― 上のジラールの見通しとして立てたものと それほど ちがわないであろう。つまり 歴史的な順序でいえば スミスやマルクスの線から ジラールは それほどちがわないであろう。(わたしとしては そういう見方で ジラールを取り上げた)。史的唯物論は 人間を歴史主体と見るかぎりで 供犠文化暴力とは 相容れないところの同感人を たとえそれが有効性を擁護し 主張したものであるだろう。ここにいたれば 歴史過程の問題 実践動態の問題としてわれわれは 言論を展開する。そしてスミスやマルクスのあと なおもジラールのような言論も提出されるということは それは ややさかのぼって(表現形式としてさかのぼって) ルウソのように 社会文化の 総じて異感人性に対して それ以前の(つまり それに先行する)自然善を われわれは見ると宣言したような内容も いまの基本線にはあるとさえ言ってよいものであろう。われわれはこれを 《同感人出発》を基軸とするのだというように 簡単化した。
このように思想の出発点を問うて図式的に整理したものは 現代では――上に見る第(2)段階にあるとするなら―― じっさいには解明されており まさに どう実践しているかが 問われなければならないのだが われわれはあえて ここに 滞留している。これを確認しつつ つまりあるいは この確認じたいをも自由に争いつつ 現代においても進んでいってよいと思われる。
(つづく→2008-01-28 - caguirofie080128)