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哲学いろいろ

#40

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§10 《パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

(1) パパラギは いつもからだをきちんと包むように心がけている。あるひとりのとても偉くかしこい白い人が 《からだは罪深い肉である。首から上にあるものだけが本当の人間である》と私に言った。
・・・
しかしながら 肉は罪 アイツウ(悪霊・悪魔)からの贈り物――これより愚かな考えがあるだろうか わが兄弟たちよ。


(2)かしこい兄弟たちよ・・・おまえたちも あの宣教師の言葉をはっきりと覚えているだろう。《神は愛である。ひとりの真の救世主(キリスト)が常に愛そのものであるという善をなしたもうた。だからこそ白人の崇拝は 大いなる神にのみ向けられる》と。
宣教師は私たちに嘘をつき 私たちをあざむいた。パパラギが宣教師を買収し 大いなる心の言葉を借りて私たちをだましたのだ。丸い金属と重たい紙 彼らがお金と呼んでいる これが白人たちの本当の神さまだ。


(3)それからパパラギは 私たちのことについて こうも言っている。

きみたちは貧しくて不幸だ。きみたちには 多くの援助と同情が必要だ。きみたちは何も物を持っていないではないか。

たくさんの島と愛する兄弟たちよ。物とは何か。おまえたちに告げよう。――たとえばヤシの実はひとつの物である。ハエたたきも 腕輪も食事の皿も 髪飾りも すべてこれらは物である。
しかし 物にはふたつの種類がある。ひとつはヤシの実や 貝や バナナのように 私たち人間が何の苦労も労働もせず あの大いなる心が造り出す物である。いまひとつは 指環や 食事の皿や ハエたたきのように たくさんの人間が苦労し 労働をして作り出す物である。・・・


(4)パパラギは本当に空を打ち破ってきた人 神の使者のように見える。なぜなら彼は 自分の喜びのために天と地を支配する。彼は魚となり 鳥となり 虫となり そして同時に馬となる。大地に穴をあけ 大地をつらぬき通す。もっとも広い真水の河の下をも通りぬけ 山も岩もすりぬける。足に鉄の車輪をつけ もっとも速い馬よりも速く突き進む。彼は空に昇る。飛ぶことができるのだ。私は彼がカモメのように空を飛ぶのを見たことがある。彼は巨大なカヌーをもって海を走る。大洋の下を走るカヌーを持ってりう。彼は雲から雲へカヌーを走らせる。


(5)どのパパラギも 職業というものを持っている。職業というのが何か 説明するのはむずかしい。喜び勇んでしなくちゃいけないが たいていちっともやりたくない何か それが職業というもののようである。
職業を持つとは いつでもひとつのこと 同じことをくり返すという意味である。・・たとえば私が自分で小屋を作るとか むしろを編むほか 何にも仕事をしないとする。――すると私の職業は小屋作り あるいは むしろ編みということになる。


(6)ひまなんて とてもあったためしがないと言い張るパパラギたちがいる。この連中は まるでアイツウにとり憑かれた人のように 首のないまま走り回り 行く先々どこにでも 災いと大混乱を起こす。


(7)パパラギは一種特別な そして最高にこんがらがった考え方をする。彼はいつでも どうしたらあるものが自分の役に立つか そしてどうしたらそれが自分の権利になるかと考える。それもたいてい ただひとりのためであり みんなのためではない。このひとりというのは 自分自身のことである。
パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集

西サモア ウポル島ティアヴェアに住んだ酋長トイアヴィのこの議論は すでに百年近く前のものである。第(2)の議論は ほかの事項とつながって つまりたとえば アイツウにとり憑かれたごとく時間を追い掛けて労働して作り出すような物は トイアヴィたちは持っていないが 《しかし大いなる心が造り出す物について アリイ(=紳士。パパラギ)はひとことも言えるはづはない。そう いったいだれが私たちより豊かであり だれが大いなる心の造り出す物を 私たちよりたくさん持っているだろう》という主張につづく。かれは やせがまんを張ったのかも知れないが われわれは ふつうの勤勉で 物を作り 持ってもよいだろう。

(8)《精神》という言葉がパパラギの口にのぼるとき 彼らは目を大きく見開かれて すわってしまう。彼らは胸をはり 背を伸ばして重々しく呼吸する。敵を倒した戦士のように。なぜなら彼らはこの《精神》というものを とりわけ誇りに思っているからだ。精神といっても ここでは宣教師が《神》と呼び 私たちみんなはその貧しい似せ絵にすぎぬ あの強く 大いなる心のことではない。そうではなくて 人間が持ち 人間にものを考えさせる小さな心のことである。

とまづおさえて トイアヴィは そのタカマノハラ出発点において 必ずしも アメノミナカヌシ傾倒に陥るわけではないようだが かといって ふつうのこの精神なるムスヒの思考作用・思考行為に 重きをおくものでもない。

(8・つづき)たしかに私たちは 知ることの練習 パパラギの言葉を借りれば《考える( denken )》をたいしてしているわけではない。しかし あまり考えないのが馬鹿なのか それとも 考えすぎる人間が馬鹿なのか それは疑問である。
・・・
おまえたち 考えることをしない愛する兄弟たちよ。私がおまえたちにありのままの真実を残らず告げた今もなお 私たちは本当にパパラギのようになりたいと努力し 彼らのように考えることをおぼえねばならぬだろうか。

すなわち 《私は言おう そうではない!》ということなのだが――こういう議論は すでに 考えることをとおして おこなっているのだと言わなければならないことも 然ることながら―― それは 《私たちの頭と心をたたかわせてしまうすべてのものから 自分を守らねばならない》 すなわち 《考えることが重い病気であり 人の値打ちをますます低くしてしまうものであることを パパラギは身をもって私たちに教えてくれた》〔事項の(1)(2)など〕という意味でのことである。トイアヴィは 《精神》を 排斥も放棄もしていないわけである。アメノミナカヌシ理論でいえば かれらの《大いなる心》へ向かう《小さな心》 ムスヒ理論ふうにかんたんにいえば 健康の道としての精神 これだけでよいと言ったことである。
そのアメノミナカヌシ信仰形態としての表現形式をまじえて 説き 次のようにしめくくる。

(9)愛する兄弟たちよ もし 私たちが神さまと同様にあがめ 尊び 最愛のものとして胸に抱くものを偶像というなら パパラギは今 むかし私たちが持っていたよりも ずっとたくさんの偶像を持っている。・・・だからこそ彼らは 神さまのご意志ではなく アイツウの意志で動く。


   *


愛する兄弟たちよ。だれひとりきらめく福音の光を知らず 暗闇の中にみんながじっとすわっている そういう時代が私たちにはあった。自分の小屋を見つけられない子どものように そのころ私たちはさまよっていた。心は大きな愛を知らず 耳は神の言葉を聞くことができずにいた。
パパラギが私たちに光りを運んでくれた。彼らは私たちのところへ来て 私たちを暗闇から救い出してくれた。・・・パパラギの宣教師は 私たちにはじめて神とは何かを教えてくれた。そして 宣教師が誤れる偶像と呼んだ私たちの古い神々から 私たちを遠ざけてくれた。偶像の中に本当の神はなかったのだ。

だから 《アイツウ(悪霊・悪魔)の意志で動く》というのは 自分の意志でということである。アイツウに従うことを 自分の自由な意志によって選びとったということである。すなわちわれわれは 偶像出発点〔による発進〕を指摘するということ。あるいは 同じ一つのふつうのタカマノハラ出発点(つまり 人間知性・同感人であること)の偶像化をである。
もし《サモアの意識( Das Samoatum )》というものがある(持たれる=それに凭れる)とするなら それは 《サモアの意識》を意識する自分が 自分のアイツウ(背感・異感)の意志で動くことにほかならず――ただし そこで 自己=同感人〔の有効〕が まったく消滅したのではない―― けれども《サモアの意識・エートス》なるものは たとえ理念的な真実であろうと それを動因とするのなら 偶像であるにほかならない。《祈りかつ働け》という意識(また観念。ないし それを念仏のように唱え あるいは理念でもあるときそれを念観すること)の奴隷になることにほかならない。《心は大きな愛を知り 耳は神の言葉(十字架上のキリスト・イエスおよびかれの復活)を聞くことができた》とき すなわち言いかえると(言い替えなければならないと思われるのだが) 自己が自己に還ったとき その出発点から ふつうに生活し そこでは 祈りかつ働くことをもおこなっているであろう。
いわゆる近代化を選び取るか否かは 相対的な問題で 人びとの自由である。サモアは トイアヴィの時点で 選びとらなかった。われわれは ほとんどすでに選びとっている。またそこからの再出発が われわれの課題である。現在のサモア あるいはその他の土着文化について わたしはまだほとんど知らないか 報告しうるまでの勉強を積み重ねてきていない。それゆえにでもないが 次に 山口昌男の登場となる。

追記(1)

《アイツウ(悪霊)の意志で動く》というアニミスムの心性は 現代では《アイツウの意志で動くことを 自己の意志とした》ことにほかならないと述べた。この《 aitu 》は 日本語の《オニ(鬼)》と比べられたことがある。

Samoa : aitu
Indonesian: hantu
Tagalog : anito
Palau : 'aliδ
Satawal : yaliu
Yap : anyi
Hawaii : uhane


Japanese : oni

ただし日本語のオニは 漢語《隠》から出たと言われる。(銭→ゼニ; 文→ふみ; 簡→かみ(紙)のたぐい)。だからひとつの愛嬌としてである。

追記(2)

すでに十九世紀の終わり頃に R.L.スティーヴンスンはサモアの人たちに次のようなことを語っていた。

酋長たちよ。・・・私の申し上げたいのは 外敵に対する勇敢な戦士としての諸君の時代は既に終わったといふことです。今や サモアを守る途はただ一つ。それは 道路を作り 果樹園を作り 植林し 其れらの売り捌きを自らの手で巧くやること。一口にいへば 自分の国土の富源を自分の手で開発することです。之をもし諸君が行なはないならば 皮膚の色の違った他の人間共がやって了ふでせう。
・・・即ち 此の島の酋長といふ酋長 島民といふ島民が残らず 道路の開拓に 農場の経営に 子弟の教育に 資源の開発に 全力を注いだら ――それも一(いち)ツシタラ(=スティーヴンスン自身のこと)への愛の為でなく 諸君の同胞 子弟 更に未だ生まれざる後代の為に さうした努力を傾けたら どんなに良からうと思ふのです。
中島敦光と風と夢―他二篇 (1956年) (角川文庫)1942)

要領を得ない単なる抜き書きだけれど パパラギたちの文明との ほとんど抜き差しならない交わりとぶつかり(あるいは かみ合わなさ)の すでに進行していたことを示していると思われる。なお中島の上の作品は 現代の情況について 依然としてまだ不案内に終わるのだけれど 自身がパパラギのひとりでもあるところのスティーヴンスンの サモアとの関わり方(それをとおしてのサモア史の一端)について われわれによくおしえてくれる。

追記(3)

トイアヴィの演説集は ドイツ人の手による作り物だという話しがありました。
http://pub.ne.jp/cubaorganic/?entry_id=293974​
(つづく→2008-01-27 - caguirofie080127)