caguirofie

哲学いろいろ

#44

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−3

前二節をおぎなっておきたい。
栗本慎一郎の言うように――その所説を字句どおりとってしまうなら―― すべては幻想なのだとすれば その場合には 供犠制度の名残りとしてのその文化構造の部分 これが なお近代市民の合理的な社会運営の場でも 尾を曳いているとしても その観念幻想的なものを 廃棄するとか あるいは極端に言って 肯定し強化しようとするとか そのどちらの行き方も 同じく幻想になるのだから それらが 無意味だと言わなくとも――つまり 《幻想としての現実》のかたちで意味を持つということだろうから―― その言うところは すべての思考と行動とは 相対的なものであり のっぺらぼうのものということなのであろう。言いかえると あれやこれや ちょっとした感想を述べることと 具体的な提言をおこなうこととが 同等の思想であり実践であるというものなのであろう。この行き方では 出発点にとって 必要条件(学識)と十分条件(出発進行の具体策)との二つとも 区別されない。極端にいえば 学識と幻覚とも 区別されない。
もっとも ちょっとした感想も実践に直結する場合はあるだろうから 《幻想の一般理論》をむしろ言わなければ ふつうの人間真実だとも考えられるが それだと もういまでは 人間行動の相対性は解明されているのだから これを確認するだけのものとなる。
これに対しては われわれとは 見解(少なくとも 表現形式)の違いという点で 一致するであろう。栗本の主張内容が 上に言った字句どおりの解釈のものであるかどうか ご自身にたずねてみなければならない。
山口昌男は おそらく察するに 上のような見解の相違を われわれと 持つものではないと思われる。網野善彦は このとき われわれの言う十分条件については 保留すると はっきり断わっているわけである。もしくは 消極的に間接的に触れようとしていた。住谷一彦は 幻想説に立つのではなく しかも われわれのいう十分条件としての提言を むしろ 基本的としてさえ 学識としての必要条件の中に――そのエートス論の中に―― 捉えようとするし じっさい おこなおうとしている。すなわち 一面的に捉えてしまえば エートス(ないしその認識)が 推進力なのだと。それに対する評者の小林昇は それは 供犠構造ないしさらに昔の供犠制度の段階へ 回帰するものではないかと やはり――勝手に推察させていただくなら―― これまでの歴史的な積み重ねとのつながりを知るところの学問研究つまり必要条件と それにもとづく現代思想としての提言つまり十分条件とは 区別しなければならないということだと思われる。区別しつつ一体になると。
パパラギ》の演説者トイアヴィは 力点としては すでに 十分条件すなわち今後の進み方を提言しようとしている。ただ それが サモアの島における社会のこととしては ヨーロッパ近代市民(パパラギたち)のすでに出発進行している文明の点では これをとらないと 言っているのである。出発点は すでに供犠制度(偶像崇拝)を旧いものとし さらに供犠構造の文化有力をも超えて 近代市民の同感人に立とうというのである。つまり その反面で 物質文明としては これを採らず 昔のままでよいと語る一面がある。昔のままの生活様式の中での ふつうの勤勉である。(現在のサモアがどうであるか 詳しくは知らない)。これは たしかに一つの見解であり われわれと相対的なものである。ただしわたしたちは すでに物質文明としても 出発進行してきているのだから その点で おのづから 見解は分かれる。物質文明の速度を落とすとしても ちがった踏み出しとなる。
ニュージーランダーのR.L.ミークは 同感人の基本出発点を 明らかにしようとしたと考えられる。ドゥルーズガタリの二人は おそらく この同じ線の上でだが あたかも塀の上を歩くかのように・あるいは境界としての峠のあたりをさ迷うかのように 必要条件の理論把握をすすめ そこから少しでも 間接的にでも 十分条件の今現在の踏み出しを さぐろうとしている。ジラールは 大局的な観点に立ってのように この人間存在の基本出発点のことを さらに愛のこととして 説こうとしている。南海の酋長トイアヴィも――言うとすれば 洗礼を受けていて――決してこれから隔たるものではない。また 高神信仰をいう住谷も これと別のところに わざと行こうとしているのではない。網野は この基本線の問題を 中世日本人のこととして またあくまで具体資料にあたって 歴史事実の基礎認識から始めようというのである。
ジラールの愛すなわちキリスト・イエスに対して ルウソやスミスは 言うとすれば 多かれ少なかれ 自然宗教ないし理神論のかたちで しかも同じそれを捉えていたであろうし マルクスにしても結局 字面の無神論にもかかわらず そのタカマノハラ理論の結構として捉えるならば 上の人びとと 異質なもののようには思われないところがある。このとき山口はどうなのであろうか。


この点は 議論して片がつく性質のものではないから いちどたずねるだけであるが 十分条件――つまり踏み出し――の問題に 入って行く順番かと考える。ここでちょっと言ってみたかったのは やや抽象論のかたちで 出発点として 山口は おそらくわれわれと見解の相違を持たないのではないかと 考えられると同時に その踏み出し(経験現実と同時一体の 出発地点)では 全体として あいまいなところがあると 考えられたからである。これは これだけである。
山口は その天皇制論が 王制一般の文化人類学としての理解であっても いまの具体的な日本の象徴天皇の制度にも 歴史的に重なるところの理解を持つのであるから――法律問題を超えるというかたちで そうであろうから―― こんどは その必要条件の知識が 十分条件の出発進行をふくむはづだと 主張しているもののように捉えられる。このことは 今度は――議論の新しい進め方として―― 必要条件の研究は 出発点の把握をそれとして含むであろうから 基礎知識というものは それだけで 出発点の踏み出しのことまで じっさいには 触れるところがある。こういうふうに ひるがえって あらためて 捉えなおす必要が出てくるものと思われる。
そしてもし この線で理解するならば 山口の《宇宙論》とか《祝祭》とかは 供犠文化の構造や成り立ちを 基礎知解の作業として 明らかにするだけのものではなく すでに個人の思考や行動の問題・つまり基本出発点のこととして 一人ひとりに迫っていこうとしていると考えられる。飛躍していえば 祝祭は 後者の面では 外にある祭りやまつりごとのことではなく 個人の愛のことなのであると。
すなわち――愛は 抽象的になるから―― 人間の推進力のことなのである。つまり この出発点たる 推進力が推進力であるのは そのとき――もちろん飛躍であるが―― 人が宇宙の中の一存在として 何らかのかたちで祝祭を見ているということだというものである。山口の議論には こういう幅がある。この観点からあらためて論じなければならない。
すなわち具体的な一論点で例示すれば 《天皇制》は そういう社会的な文化有力の構造たる祝祭過程であるという総体的な(また 外・表面なる)事態と観点とを言うだけではなく それとして個人個人の出発点と見なされている一経験現実があると言おうとしていることだし さらにそれだけではなく 祝祭とか宇宙という概念を持ち出すのは 外の総体的な供犠構造(少なくとも 《象徴》を立てる構造)と はげしく接しながらも それを超えるところの個人の《同感人》出発点のあることを 言おうとしていると採れる。同感人が有効に同感しあうとき 宇宙感覚的なかたち(実態である)をも個人の内面において採るであろうし その点では 祝祭人と名づけてもよいであろうということだと――強引に飛躍して――考えられる。
だがわたしたちは――二転三転して―― このような祝祭理論などを基軸とする文化人類学は 要らないと言うであろう。もしくは 過去の歴史の基礎的な整理であると言う。そこまで 文化構造とはげしく接して 説明する仕方を採ることもないのではないか。供犠構造としての枠組みに沿うことは 経験現実におけるわれわれの言う踏み出しを ねらっていると考えられる反面で じっさいにはわたしたちは そのような激しい接触の口調をわざわざ採らなくとも すでに この文化有力の中に存在していると 知っているし その中から語るはづである。理解の仕方(必要条件)が 踏み出しの仕方(十分条件)だというときにも 前者が あまりにも 過去の歴史に立脚し過ぎているのではないだろうか。わたしが山口の思想を すでに実践として捉えようとするとき それは どうもあいまいだなぁと考えるという ただそれだけのことであるが あるいは曖昧とは 両義性のことでもあるから 高等手段として 大いに十分条件の提言をおこなっているのかも知れない。しかも そんな考えで 捉えたとき なおそのような一結論しか出て来なかった。わたしは なお丹念に 所説を読んでいかなければならないかも知れない。それだけの読者をかちえているということだろうから。また この『知の遠近法 (岩波現代文庫)』をわたしは おもしろく読んだわけである。
(つづく→2008-01-31 - caguirofie080131)