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哲学いろいろ

#43

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−2

山口昌男が語る。

天皇制における《中心》がどのような構造の上に成立しているかということは これまでそれほど論じられているわけではない。政治的世界という場ではあまりにも当たり前のことと思われているからである。しかし 象徴的次元での《中心》性は 法制的な次元で説明がつくとは限らない。
(『知の遠近法 (岩波現代文庫)』 第十三章 天皇制の象徴的空間 〈天皇制と歌舞伎〉のくだり)

このとき 現代社会を歴史的に明らかにしようとする場合には これまでも見てきたように その歴史の研究は 必要・有益であるのだが たとえばいま現在の象徴天皇の制度を 論じようというのなら もうすべて 将来へ向けての 《法制的な》問題として 民主主義的で自由な話し合いをすすめていくのが 基本であって そのほかに議論することはないのである。《法制的な次元で説明がつくとは限らない》というのは 現代までの歴史的なつながり(または われわれ《臣民》との切り結び)を理解しようとするときにだけ 問題となるのである。
もちろん法制的にだけ議論するといっても 杓子定規をあてることではないから しかも純然たる法律問題だとまで言うのは すでに人間問題が 非供犠的なふつうの 合理的に話し合っていける理論および実践の問題で済むようになってきているという意味である。すなわち端的には 憲法の第一章・第一条

天皇は 日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって この地位は 主権の存する日本国民の総意に基づく。
The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

をめぐって もし論じようというのなら 話し合われていけばよいのである。そしてその限りでいえば すべて《法制的な次元に問題は限られる》のである。
山口昌男は自己の天皇制論が 《結局は均衡論(* たとえば 供犠文化構造の中の異感人有力と別の異感人有力との均衡あるいは調和という意味であろう)で 天皇制護持理論ではないか》と疑われていると もらしている(第十二章)。わたしは そうであるかどうか まだ 言っていないわけだが(――言いかえると 現在の憲法にかんするところの《天皇制》の護持か廃止かといった議論じたい わたしはまだ 提起していないし 山口昌男じしん この一書物の限りで 同じく提起していないと考えられる。ので 判断をする・しないとは かかわらないのだが――) もし そのような読者や周りの人びとからの疑いがあって それに答えようとしているというのなら はっきり自分の意見を 自由に のべるべきだし そしてそのときには もう ほとんど法律的な次元のことで 議論すべきなのである。
もちろん まづは――まづは――現状に対してどうのこうのという感慨を述べるという議論もあるだろうし あるいは もしどうにかすべきという方向で意見を述べるという場合にも その趣旨説明として たしかに 条文の中の《象徴》とは何をいうのか それは 《法制的な次元で説明がつくとは限らない》かも知れないのだから たとえば文化人類学的な理論を大いにひろうするという基礎認識の作業も 必要であるのだろうけれど それでは 十分ではない。
十分な議論をすべきかどうか いま 別にしつつ あげつらっていることにもなるのだが 山口が上のように 自分の《論の立て方が結局は均衡論で 天皇制護持理論であると考える方は『道化の民俗学』をはじめとする一連の考察に目を通していただきたい》(第十二章)というその言い方では 十分ではない。《自ら導き出されるはづである》(第十二章)というその言い方では 十分ではない。《自ら導き出される結論》は 法制的な次元の問題であることによって初めて十分となるはづだからである。読者に 勝手にみちびいてくれというのは 別にそれが非合法のぎろんではないだろうけれど われわれの言う出発点を 大いにあいまいなものにしていると思うのである。現代思想としてはである。(現代思想としてでも その中の 基礎知解の作業 純学問的な研究としては 別であろうか)。
つまり こういう点が まさに 現代の思想の たしかに出発点の問題であり そうであるばかりか すでにその少なくとも一歩踏み出しとしては 実践(=社会生活)となっているのである。
昔のことをふりかえって見るのは 大いに必要であり有益であるが そしてわれわれもこれをおこなってきたのであるが そのとき 《出発点》に焦点をあてたということがそう(次のことそのもの)であるし そのささやかな振り返りの一つの結論としても むしろもう今では たとえ振り返ったとしても その社会情況ないし人間の社会的なあり方は そうとう新しい段階に来ているということであった。われわれは これから具体的な提言をしなければならないかも知れないが いまでは少なくとも その提言の仕方の必要で十分な条件は 知っているつもりなのである。つまり 十分条件のほうに ここでは力点があって まさに当たり前のごとく 経験合理的に意見や方策をのべるということであり そのとき方策は もう法律的にしろそうでないにしろ 具体的な目標は手段のことを含んでいるであろうし 意見というのも 基本的にいうならば 供犠文化の幻想観念を あらためてわざわざ それの廃棄といったこと自体を目的として 議論するようなものは要らないということだ。
必要条件というのは まさに歴史的な(また 現状認識としての)裏づけということだが そして そのぶんでは われわれのここでの考察は 十分ではないのだが だから文化人類学のにしても その成果を活用するということだが それにしても この必要条件の内部だけの〔仮りに〕十分が 現代思想の出発進行にとって 十分条件となるのではないと知っているのである。
すなわち いまの簡単に例示してきた論点としていえば 山口は 必要条件(基礎知識)の分野で その研究成果を発表していると見なければならないか それとも すでに現代思想として確かに出発しているのだという場合には 十分条件(具体提言)をみたしていないと考えなければならないのである。少なくとも あいまいである。念のために言い添えるなら わたしたちは 山口の意見が 天皇制護持理論であると言ったのではない。そうでないとも言っていない。それは 天皇制ないし王制一般の文化人類学上の理解という 必要条件の分野にまだ とどまっており 出発進行の現代思想ではないと思われることである。つまりその十分条件をみたしていない。つまり この例をだしにして われわれは 現代思想の出発点の十分条件について 考えるのである。
すなわち 天皇制の議論一般は 現在の象徴天皇制を含むだろうから このことではっきりさせるなら まづ 主権の存する国民がどう考えようと自由なのであり 次に 意見をただ 日常の感慨として述べるというにとどまらないのなら この論点では むしろいまでは法制的な次元の話しに 焦点を合わせていなければならないであろうということである。日常の感慨を超えて そうしろとか しないでよいとかは また 別の話しである。すなわち 出発点の問題としては 現代では 思想(すなわち 社会生活の新しい進め方)としては 供犠文化の類型にはまる異感人の社会階級関係からは――その幻想観念の部分からは―― 自由なものとして 提言しているということが 十分条件なのだと考える。必要条件(学識)は必要だが たとえ乏しくても(そうあってよいことは ないだろうが) 十分条件をみたしているなら その意見の――ささやかな必要条件知識を用いての――説得力のほうも 重要であろうと考えられることである。極端な話し 《きみ みづからを知りなさい》という一句だけでも――むろんそこに具体的な人間関係の土壌があっての話しだが―― 必要条件をそれとして満たし 説得力を持つ場合だって 考えられないわけではない。だから それゆえにこそ われわれは ガリ勉ではなく勤勉 つまり勉強しなければならないのだが。
出発点の踏み出しのあと その具体的な進行においては――ただしここでは それへ進みきろうとは していないが―― たしかに 事は複雑であり 一般化した議論はとてもむつかしいことになるが 前節でのひととおりのまとめを終えて いくらかの考察をしておきたいと思うのである。民主的で自由な話し合いという《出発点の踏み出し》なる結論を もう少し具体的にである。山口昌男の所説を出汁にさせていただく。
(つづく→2008-01-30 - caguirofie080130)