caguirofie

哲学いろいろ

#42

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−1(つづき)

このように思想の出発点を問うて図式的に整理したものは 現代では――上に見る第(2)段階にあるとするなら―― じっさいには解明されており まさに どう実践しているかが 問われなければならないのだが われわれはあえて ここに 滞留している。これを確認しつつ つまりあるいは この確認じたいをも自由に争いつつ 現代においても進んでいってよいと思われる。
で こういった構図に対して なおも整理しつつ進もうというわけだが まづ 一つの行き方として アメノミナカヌシ理論による説明の行き方をとる場合には 思弁的に言って 同感人が異感人になるというのは はじめの背感によるとされる。原罪。はじめの 虚偽となるうそ。または 《はじめの暴力 violence fondatrice / 基礎づくりの殺害 meurtre fondatrice 》。ジラールはまた 《模倣 mimésis ・模倣する欲望 désir memétique 》といった心理要因でも捉えており ちょうどドゥルーズガタリとに重なるかのように この心理欲望が ありがたいものとされ それが 同感人・隣人となろうとする精神や意志なのだと見なされるという分析としても 語られた。異感人の状態にある人も 自己がそして人間が 同感人であることを知っていて ただしわづかに その知解の実践を〔二重の出発点のようにして〕 自己の外に求めてのごとく 人を真似る そうすれば和解する同感人・隣人でいられるであろうと考えるというのである。
あるいは この欲望する模倣のことを さらに 悪く解釈すれば 異感人は 他者に対してその人の真似をしてみせてやれば その他者によって自分の異感人性が解明されることなく したがってまた その他者を黙らせ得ると考えたというものである。背感や嘘があばかれることなく 世の中まるくおさまるであろうと考えているというのである。考えて実行することじたいは 同感人の持つ思考および行為の推進力であると考えられた。
すなわち――相当な重複の議論となるが―― 少なくとも潜在的には 人が同感人であることは 誰もが承知しており それとして普遍的であろうと考えられる。ホモ・サピエンスというのと 異ならない。そして この普遍的な人間の自己認識は つまり同感人は たとえば近代市民として 顕在化した。そしてそれがほとんど世界的に 顕在化した。このとき それは 潜在的であったときから有効であったと考えられるが この顕在化した近代以降の段階でも その有効性が 社会関係の広い範囲を見わたしてみるに 一向に実現されていず 異感人の状態が残っているとするなら この異感人は まづ第一に 明らかに新しい段階での旧い第(1)段階のと同じような状態なのであり 第二にそれでは それがどのように起こるのかと問うなら 《同感人》が すでに解明されているゆえ しかもそれが単なる理念と見なされ これが偶像とされてのように念観されることによってではないのかと考えられた。
同感人は 自己のことであり 自己が自己をそのように 人間のことばで認識するそのことである。その有効がただちに社会的に実現できないとき すなわちその有効性の実現を 異感人たちの《伝統的な》文化有力が阻むとき この《同感人》を 対抗力としてしまいがちである。異感人たちの社会関係は 供犠文化であり 暴力と聖なるものとの分裂かつ連携を 思想の出発点に持っている。俗と聖との いづれも観念(念観行為)によって 異感状態と同感出発点との 循環を捉え この地点に それとしてのやすらぎを得ようとする思想である。経済基礎としてみれば 明らかに――分析反省的にみれば――階級関係である。ここでの同感人たちの社会生活 その意味での闘いが 供犠構造の文化有力のあいだで 異感と異感との闘争になりがちである。階級関係の解決については 今なにも語っていないが その解決過程を阻む要因については 語ることができ その限りで 解決過程の場をそのままのかたちで 捉えあうことができる。
このような抽象論をつづけることがいいかどうか分からないが 《同感人》が 自己から遊離して 偶像理念とされるということ。偶像として推し進めたほうが 有力である場合が――文化有力のあいだでの対抗有力として またその目的達成だけのため有力となろうとした場合が―― 見受けられると言わなければならない。というわけである。つまり偶像理論は 《暴力‐聖なるもの》の分裂かつ連携の構造に ぴったり当てはまっていくようになっている。日本では社会党が かつて それであった。もしくはそうであった側面がある。異感人の状態に未練を残し これを保守しようとする人びとは したがって 同じ穴のむじなじゃないかと言って 膝をつめよせてくる。そういう合理的・合法的な供犠構造が ないとは言えない。
ジラールは こう言いたいのであるだろうし ドゥルーズガタリは 少し意地わるく言えば 同じことをだが まるで うわごとをしゃべるように ことばを並べている(アンティ・オイディプス)。
スミスやマルクスは 出発点理論も具体的な経験科学も 総じて 一般論として論じた。個別的な・あるいは個人の 思想をもちろん離れてではないが 一般論つまり〔経験〕科学として論じている。いまのわれわれのような議論は きわめて抽象論におちいりがちだからである。ルウソは 経験科学よりは個人の思想として 個人の思想一般論としてよりは――体裁はそうなのだが実質的に―― ほかの誰でもなくルウソ個人のすでに実践として 議論をおこなったという恰好である。三人とも 社会の供犠構造(その中の個人個人としては 異感人の部分)とのたたかいで苦労した。もちろん 誰しも苦労しているのであり 中ではただし ドゥルーズガタリによれば そうして 異感人の度合いをますます――器官なき充実身体として―― 強めていく人たちもいるという。人である限り 同感人でなくなるということは考えられないのであり それが骸骨のようになって 異感人の部分のほうが充実し したがって 死の本能で突き進むかのごとく ゆうれいとなるというのである。そのほうが 供犠文化の有力じたいは これを 人びと〔の異感人の部分〕が真似ることによって いよいよ有力となり 全体として奇蹟と見られるような充実身体たる社会体が 現出するかも知れないというのである。
ここからは どこまでも逃走せよと説く人も現われた。あるいは 供犠構造の有力なる言論は これを(その中味を)ずらせという。ただし その人(浅田彰)は 充実身体のことを むしろ同感人のほうが 何ごとからもふっきれてのようにそのとき立ち現われるようになる一つの到達段階だというふうに 解釈しているようである。逃走というのは 同感人の〔消極的なかたちでのかどうか〕持続をいうのであろう。
以上をもう一度まとめて見ると――

 α: 原理的な同感人
   (ルウソの自然人。
    マルクスはこれを立てないが 実質内容として言っていると思われる。義人?)
    ↓
   背感(原罪・虚偽となる虚言)
    ↓
(1): 異感人 / 同感人潜在
   (ルウソの社会人。
    階級人状態。人間存在のパラドックス?)
    ↓
   〔αの同感人は 人間のことばによる説明であって そのかぎりで理念と見られるかも    知れないが その理念でさえ 同感人という現実存在に後行する。つまり普遍的で
    あり 歴史を離れずに 超えている。つまり 《汝じしんを知れ》〕
    ↓
(2) 同感人の顕在と その段階での階級社会人的な異感人関係
   ・・・・自分自身を知った人たちの社会生活の過程
  

したがって現代思想は その出発点としては すでに すべてが自由で民主主義的な(つまり 異感人関係としても これが立てられている)話し合いが 基本だということになる。
山口昌男は 次章からである。
(つづく→2008-01-29 - caguirofie080129)