caguirofie

哲学いろいろ

#18

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§4 R.L.ミーク《スミス マルクスおよび現代》 c

§4−2

わざと大雑把な一つのまとめをするのですが マルクスは ひじょうに やっかいである。物神礼拝とか抽象的人間の礼拝とかいうふうに――あやまったタカマノハラ理論を出発点に持つことを そのように指摘するかたちで―― 資本主義志向のことを認識するばあいにも 秘教的な要因を・あるいはその要因で語ることを きれいさっぱり 突き抜けている。(あるいはつまり 精神分析学的に・文化人類学的に語ることを突き抜けている)。
その思想は そして生活態度も 経済学のことばで語ろうとしているし――それゆえか 顕教的な経済事態やその理論(国民経済学)に対して ほとんどつねに批判的な姿勢でいるし―― また たとえばその思想の視点も 人間主義自然主義というときにも これを ただ内面的に理解すればよいというような理念として語るのでもなければ この理念で既存の理論や事態を切っていけばよいとして語るものでもない。そしてスミスの時代よりは うんと進んだ資本主義志向の時代の複雑さによっても つまり言いかえると この志向が個人の生活態度〔の力の及ぶ範囲〕を超えて社会経済的に一定の法則をもってのように運動するというときのむしろ単純さ(階級関係)によっても それらに対するかれの解剖学は その思想の視点をわれわれが捉えることが 複雑やっかいなものになっている。
階級関係は ふつうの資本志向の生活態度によっても 社会必然的に生じうる――つまり 自由な経済主体の合理必然的な経済行為の遂行は 社会総体として 自然必然的に(偶然必然的に) 階級関係を生じさせうる――と考えられるから ふつうの《資本志向と同時に 自然志向》としての人間主義自然主義が 単純に その出発点であるというわけにはいかない。階級関係――供犠文化の社会循環でもあるような――とは 相容れないところから 出発していると言わなければならない。階級意識とか階級闘争とかは 最終の 思想視点ではないわけである。逆に言うと とうぜんのごとく 資本主義志向による階級支配は 供犠文化の暴力(自己背理)が 経済基礎の生活活動の面でも 定着した状態なのであるから それの揚棄は 最終の思想視点(つまりは まわりまわって 出発点)の 代理表現にはなりうる。ただし  この代理表現は それじたいはまだ《隠されていること=解明されていること》のその解明内容として 後行する二次的な理解であり 理解でしかないという見方も成立すると 考えていなければならないのではないか。――《人間存在のパラドックス》?

  • 《資本主義志向による階級支配》と 《供犠文化の暴力(自己背理)》とのつながりは こういう具合である。つまり供犠が 儀礼制度化すると 社会制度としても成立することであるから 供犠の犠牲になったものは それとして《聖なるもの》と見なされ このことも定着してくる。つまりは この聖なるものの固定が 習慣・慣習として出来上がる。すなわち 供犠文化とは この《聖なるもの》を 何らかのかたちで 崇めることを――心理共同のうちにせよ 幻想の共同のうちにせよ――人びとに強いることを伴なう。と同時に さらには この聖は 禁忌となる。つまりは この聖なるものの崇拝と禁忌視することによって 人びとにとって暴力と化す。これは 自己背理である。そして 支配階級が この《聖なるもの》の側に回れば その支配体制としての文化・慣習が 定着する。

それにもかかわらず われわれは たとえばアダム・スミスとともに 楽観的なわけである。マルクスが同じく基本的にそうだったというように 非供犠的な読みに立っているわけである。かと言って それは 祭壇の前に居坐りつづけることではなかったから ふつうに社会生活をしているとき 少なくとも分析反省的にわれわれは 階級意識(または 原罪意識?)をたぶん持つこともあるであろうし 少なくとも事後分析的に 階級闘争の展開ということを見るはづではある。すなわち はぐらかすようにして元に戻ってみることができるとしたなら そういう矛盾対立を含んだ一つの留保条件をつけて考えるのは 階級関係(また供犠制度)の解剖学が これもまだ われわれのタカマノハラ出発点そのものではないからである。いや おそらくそれらは 出発点の具体的な理論展開ではあると思われる。そしてただ 具体展開する理論が われわれにとって 先行するものではないということが 成り立っている。楽観的であるのは そこよりの出発としてである。こういうことになっているものと思われる。
言いかえてみると 社会の階級支配が すべて資本主義志向の生活態度によって・だからしかも 擁護する必要のない社会偶然〔という自然必然〕によってのみ おこったのならばそれは 純粋に政治や法律の問題である。暴力と言わずとも 供犠制度の文化有力――つまり社会的な力――の問題であるにあるにすぎないとなる。人びとの資本志向(ふつうの勤勉)を 生活態度の問題としてまでは・だから実際 これによる社会の経済的な形成についてまでは 基本的に もし前提しており これを擁護するという観点に立つのなら――言いかえると この資本志向は 根本的な出発点ではないが その出発点にのっとるものだとは考えるのなら―― 大きくスミスの楽観論にもとづいて その中で悲観的に見なければならないところの問題に 依然として市民社会(商業社会)の線でこそ 対処していくということにならざるを得ない。つまり われわれがどうも具合が悪いと考えているところの資本主義志向は――またその社会は―― 資本志向の生活様式の上にのっかっていると考えられるような側面がある。資本志向も悪だという場合は 話しはまた別である。
整理して言うと 資本志向(ふつうの出発点の歴史的にとった一形態)と資本主義志向(端的には 分裂出発点)とは すでに互いに入り組んでいて混同しあうようであるし このときスミスの楽観論に立つというならば そのことは むしろ資本志向が 横着で有力な資本主義志向を 基本線の上では 包含し主導していると見ることを意味する。だとするならば あとは こんども政治――ただしこのときは 経済政策――の問題だといってもよいはづである。ふつうの出発点=資本志向のふつうの勤勉は 共同自治というわけである。
言いかえると マルクスを捉えるときの厄介さは スミスの市民が――たとえば 自由な意志による合理的な知解にもとづく資本志向の生活態度を持つ者としての同感人が―― この資本志向で社会生活をいとなみ そのときには ガリ勉の資本主義志向の発生をも含んでい〔なければならなくなってい〕るであろうとき この結果 いわゆる資本主義の時代になった段階で 言ってみれば新たに 階級人とならなければならないところの生活態度を持つようになったと 見るべきかどうかにある。新たに 市民が分裂市民に 同感人が背徳人になり 全く新たな階級人という人種が 出現しきったと見るかどうかにある。
生産様式とか社会の経済的な運動法則とか 特に顕教外面的な諸要素で捉えるとき たしかに 資本志向の同感人は 資本主義志向の経済人=階級人へと変質したと捉えられないではない。問題は なお同感人市民が 基本線として有効であるかどうか 有効だと見 まづは有効なものとせしめて再出発することに あるのではないか。それが 階級人への対処の仕方ではないか。階級人の改造だとか 階級人としての原罪意識の想起だとか これらは 先行しない。スミスとマルクスとが 思想の視点において 同一の系譜に立つと見るとするなら かれらのあとの現代において その視点の継承は 上のようだと考えるのである。それとも この時代の思想=生活は もっと別のところへ 別のかたちへ 移って来ていると言うべきだろうか。



これは 処方箋は述べないし また 単に出発点の地点としてのみ 議論したものである。(ミークにあやかろうとしてのように)。
生活態度としては新しく 資本志向=自然志向といったような考え方を 打ち出さなくてはいけないだろうし また 同感人の基本線に立った楽観論は 計画経済とか中央調整経済とかの手法を――それらが実際 起こり得たというように―― 自由にえらびとって しかるべき対策はこれを自由におこなうことができることを 含んでいるものと思われる。どういう手法・対策をとるかは もちろん争われるべきである。
同感人の資本志向という生活態度が 分業社会の中で われわれが必ずしも統制できないような社会的な分業の動きのほうで 自律するようになり われわれはこれをすでに受け取らせられているという側面もあるようになったのだとしたら 同じ同感人であることによって 個人的な生活態度および社会総体的な経済政策を とうぜん自由に――協議とそれへの同感行為の過程をとおして―― えらびとっていける。われわれ個人が統制できないような社会総体の経済運動が成立しているというのは とうぜん 資本志向と資本主義志向との入り組んだ生活態度の諸関係の結果としてであろうが そこに はじめの資本志向の同感人の基本線が なくなったわけではない。もしこれがただしいなら 人は 階級人に対処しようというとき はじめにこの階級関係をどうにかしようとしたのち その後 たとえば人びとの同感人であることを回復するというのではなく そうではなく その逆の順序が考えられるし とられなければならない。少なくとも考え方として そうである。
同感人というのは 一個の自由な市民――なにものからも自由な・つまり あらゆる生活手段をうばわれたひとりの人間――という意味である。おそらく同感は 手っ取り早くは そのようにして成立する。というときには じっさい問題としては 同感人の回復→階級人の克服ということここに示した順序は これら二つの事柄が それほど順序立てて区別されるものではないと 言わなければならないとしてもである。現代の再出発の地点として まづこのように考えた。(出発点は 抽象的に 人間存在であり 出発の地点とは 歴史具体的にである)。
その心を くりかえし述べれば 生活態度としては 階級人であるに至ったそしてこれを保守しようとする資本主義志向は 現代が依然として近代の同感人の系譜に属すると見る限りで ふつうの資本志向〔として そのときにも階級関係を持ちつつも 分業=協業の社会をおのおの自由にいとなんでいこうとする交通関係〕の上に 立っている。資本主義志向が 資本志向の上にのっかって 走っている。と見るところにある。同感人(自由人=絶対的な貧困)に 階級人(所有人=所有の貧富の自由人)が なにか別のあらたな人間の本質として 取って代わるように出現してきていると考えられるときには 話しは別であるが。


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次の章への橋渡しとして 同感人が すなわちそういう一つの〔ムスヒ理論としての〕出発点が 解体するかに見えるということを物語るかも知れない一つの考え方に 《幻想としての経済》という視点を 見出すことができる。この視点――やはり一つの出発点――は 同感人が解体したとは言っていないのであって 言っていないけれども そしてその考察の姿勢は 良心的であるのだけれども しかもそこのところが あいまいである。もしくは 微妙なものとなっている。分岐点のようなものを 担っているのではないかと考えられる。それとして(色眼鏡で見て)取り出せばであるかも知れないがなのだが。次章である。

(つづく→2008-01-05 - caguirofie080105)