caguirofie

哲学いろいろ

#17

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§4 R.L.ミーク《スミス マルクスおよび現代》 b

§4−1(つづき)

だから 人間が 思想(知解と意志)の主体であるというとき いわゆる近代人として かれは その歴史的に具体なる生活態度を いうなればまづ資本志向において――つまりまづは 主義を問わず 資本志向という素朴なかたちにおいて――描き えらびとったと考えられる。それは 既存のたとえば身分制約的な社会制度に圧迫されることなく それとたたかいながら 自由な意志のもとに合理的な知解をおこなって 生活の基礎である経済活動 この経済活動を ふつうに経済基礎であるものとして おしすすめ 生きてゆくという一つの生活態度である。資本主義志向ではなく 資本=生活資料の 合理的で自由な再生産と消費を志向していくものとして。
スミスは――まづスミスは―― 内面的な存在たる人間(つまり あるいは思想の能力行為)を擁護し さらに 外面に対する知解および意志の 出発点としての内面にとどまるところの 資本志向 この一つの生活態度 ここまでも 《根本的に是認し それに対して楽観的》であったと言えるのではないだろうか。
これは 抽象的で ある意味で理念的な理解なのだが 外面における《先行的な蓄積》が このふつうの資本志向(そういう勤勉)を基本の行為形式としたと もし言えるとしたなら 歴史経験的でもある。つまり ここに想定する近代人の《資本志向》――これは 生活態度を 経済生活という側面を基礎として 言ったものである――は 秘教内面的でもあり顕教外面的でもあると 理解できる。
そして じつは 《資本主義志向ないし 〈資本志向〉主義》――たとえば 資本志向という勤勉に対して 横着なガリ勉――も それがどれだけ通俗的で内面を軽視するかのようであっても 同じく秘教内面的な要因と顕教外面的な諸要素とを もっていると考えられる。内面のほうは まちがったものであっても 論理類型的に普遍性を目指すタカマノハラ理論を出発点にもつ場合である。ガリ勉の貫徹は 合法的なかたちをとるものであれ 暴力に近いと考えられるが つまりその証拠には 供犠儀礼にのっとって 自己が踏み台にしなければならなかった者に対して 聖なるものの地位を与えるかのように 福祉ということを 言い始める。そのようなこの資本主義志向とは何かと言うならば これは かんたんに 説明できる。最初の資本志向という 生活の形式手段が 目的となるばあいである。それは 資本志向という経済基礎での生活態度が 社会一般的に普及し実現した段階のあとで そして実はおそらくはその前段階にあるときでも 目的を実現するためには その手段を確保しなければならないということにおいて 《資本志向》主義をとる場合である。これは ただの説明であるが。
マルクスは とうぜん この《資本主義志向を 強く否認する悲観的な見解》をとったのだと考えられる。ミークは この場合の見解が スミスの中にも なかったわけではないと言った。そして逆に マルクスも 生活態度として資本志向をとるまでの近代人を擁護するスミスの見解を 前提していなかったのではなかろうと。資本志向は 資本主義志向の時代にあっても たとえ無力となっていたとしても なくなっていないし 人間がいなくなったわけではない。だとするならば この有効性は 供犠文化の秩序過程に全面的で真っ向からの批判をくわえていける。その楽観的な部分に 対応しているものと思われる。ジラールは さらにすすんでというか 出発点じたいの議論として 愛を説くわけである。
さらにそして 生活態度の問題(つまり 個人の 実践の問題)として考える限りでは 資本主義志向も 手段が目的に転倒されているとはいえ 資本志向という内面要因をもち これに立っているのであるから ここに着目したスミスは 総じて 楽観的であったし――だからスミスは 有効であろうとする基本的に一つの《生存様式》ということを言うのだし―― マルクスは 《生産様式》(登録体系)に焦点をあてて 資本志向主義には きわめて悲観的であった。生産は 生存の基礎であるが その基礎が 全体の生存を結局において 圧迫しかねないというのであるだろう。にもかかわらず――個人の問題としては―― このマルクスも スミスの楽観を継承している。すなわち それゆえにこそ 悲観的に見 否認するところの資本志向主義〔の社会的な運動法則〕を分析して捉え しかも これに人間が対処していける・対処していこうと語った。とうぜん このようであると考えられるのである。長い眼で見つつということでもあろうが 短期的にもというか そのつどの現在の問題んも対処していくと言ったわけである。
もう少しすすんで――我田引水のごとくすすんで――言うとすれば マルクスも 外面的な生産様式・その経済的な運動法則に 悲観的であっても そのそれぞれの主体である人間の資本主義志向 これには――そのとき たしかにその人間が 疎外された状態にあり 物象化されているとしても―― 外面顕教的な諸要素だけなのではなく 内面秘教的な要因も それが がいこつのような生活態度としてでも 受け継がれて来ていると スミスと同様に捉えていたと見なければならないのではないか。それゆえに もしそうとすれば革命をも志向したのであり 革命のあとで初めて 擁護すべき人間存在が 復活すると言ってのように 降って涌いてくるというのではなかろう。
この点は 別の問題でもあろうが 少数の前衛集団である人間だけが 言うところの革命以前に 《人間》であったというのではなかろう。それは 外面顕教的な諸要素だけの問題である。そうでなければ 人間改造論であるしかない。またおそらく革命論は 少なくとも現代では 古いものであるだろう。どちらも 無理をおしとおす側面がつきまとう。同じくまた 資本主義志向も 封建身分制としての供犠構造の社会文化を 変革してきたわけである。

  • 外面顕教的に 心理の起動力のみに動く人間の状態を ドゥルーズガタリは 《充実身体》と言っている。充実とは したがって がいこつのような・あるいは ゆうれいのような《欲望する機械》のそれであるが その場合も その本体――つまり人間 あるいは ふつうの出発点――は とうぜん 存在している。

要するに これらにも全面的に悲観するなら かれマルクスは 革命を唯一の手段だと語ったにちがいない(ドイツ・イデオロギ)。資本論では 社会の生みの苦しみを短くし緩らげる施策をとることを 主張している(第一版 序文)。ドイツ・イデオロギでも そのつどの現在の問題に対処していくことが かれの思想であり生活態度であると語っている。
(つづく→2008-01-04 - caguirofie080104)