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哲学いろいろ

#19

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§5 栗本慎一郎幻想としての経済 (角川文庫 (5672))

《経済人類学の方法》という点で 質問させていただければと存じます。
とりあえず具体的には ご著書『幻想としての経済 (角川文庫 (5672))』の中の第二編が 表題としても この《方法》を扱っているので これを考察の対象とします。


第二編の中のさらに一編 《聖なるものと経済》と題された論考が まだ簡単ながら簡潔でもあり それだけに基本的な内容を 説明したものだと推し測られます。まづ《方法》のこの基本的な内容として わたくしなりに理解するところを述べて ここでの質問としての議論の行方を 今度は栗本先生に  推し測っていただこうとしたいと思います。
わたしの理解するところによりますと 先生の方法は 《聖なるものと経済》といった二領域を対置する一つの視点だというよりも 経済じたいに 《聖なる部分(あるいは 非日常性という基層)》と《日常性なる表層》とがはたらいており だから この両者を綜合して 《生命の発現》とでも呼ぶべき歴史の観点から――その意味で 単純に 《生活》の観点から―― この観点の具体的な成り立ちやその動態をも 捉えていこうということだとおもいました。
言いかえると この場合の経済は 物質(質料)的な生活資糧の生産や消費やの領域に限らないのであって 生活の共同自治たる政治 あるいは生活の中の生産や消費にかんする決まりの部分(すなわち単純に 慣習および法律)を 包含して言っていることになる。したがって さらにまとめて言いかえてみますと いわゆる社会一般(だから 自然界をも含めるでしょうから そういった世界と世界史の全体)にかんする学問として その行き方として 経済人類学の方法は 《生活の日常性》と《非日常的な聖なる部分》という二つの基軸概念をもって 認識を・またその認識にもとづいた提言を おこなっていくことが それだと。
《日常生活》に モノの流れの《表層》と 観念的な(あるいは幻想的な)そしてまた聖なるものをその表層から〔さえも〕作り揚げていくところの《基層》とが 見られる。これら全体的なはたらきを見究め わたしたちが現実に生活しあっていくことが 肝要なのだといった内容であるかと思います。――こうしたかたちで 《暴力ないし供犠 あるいは それらの幻想神話化》の縮小構造の過程を そしてさらに それの社会有力化を 監視いや理解していこうといったことかと思われます。


ここには わたし自身の――概括的なものにしてしまっただけではなく―― 主観的な理解の仕方も 入りこんでいますが まづこの前提で 話しをすすめてまいります。
わたしの主観的な理解が 入りこんでいるというのは じっさい 言ってみますと この方法は 一見して M.ウェーバーの社会科学の方法に陥りがちであるから 陥らないように――ひじょうに皮肉った言い方ですが 陥らないで あたらしい・少なくともウェーバー理論の展開をおこなおうと試みられていると 見させていただきたいと 勝手ながら おもうように―― 唱えられ始めたと考えるからです。
かんたんに この点を述べるとしますと ウェーバーの場合では 経済的な利害関係といわゆるエートス生活様式ですが)とが 一たん分離して互いに対立している恰好になっている。あるいは なりがちである。したがって そこでは 日常的な利害関係とそしてやはりむしろ日常的な観念の部分 すなわち エートス(特にはこのとき 心理的な起動力の部分)とを そのように 分離対立していると捉える限りで 〔ウェーバーの方法のばあいには〕一般的に言って とにかく学問する とにかう客観的な認識作業をおこなっていくといった〔不用意に規定してしまえば〕学問至上主義に 陥りがちである。あるいは 道徳の喚起を意図しているかに思われる部分もあり その部分では その喚起に終わってしまいがちである。
そうではなく経済人類学は エートスも利害関係も 日常生活の経済〔かつ経済心理〕的な表層の部分であって またその同じ日常生活〔の社会過程や歴史過程〕の中に 非日常性のはたらきがある。これを捉えることによって 動きというものが生じてくるし そしてそれは 人をして ものごとの客観的な認識作業たる学問にのみ 閉じ込めるものではなく 社会全体に開かれた歩みを可能にするのだと。つまり言うとすれば ウェーバーの方法によっても それが価値自由な認識をおこなう理論だといっても そこでも 文章の中に――文章は それじたいが たしかに判断なのだから―― 言ってみれば心情倫理的な――その意味で《聖なるもの》にかかわった――その理論家の価値判断が出てくるし また ウェーバー自身 この価値判断をしないのではないと言っている。そのとき 経済人類学は 非日常的な領域を 日常生活じたいの基層として捉えることによって この《聖なるもの》じたいをも 歴史的な――今の――動きの中に ひっくるめている。人間の意志をこえるものであるかも知れないが そして特にウェーバーのばあい この聖なるものと人間の意志との関係を捉えていても そのとき 人間の意志を超えたもののほうに 重心が傾きがちである。もしくは重心をどこにも定めない。と思われるとき この聖なるものを 現実経験の動きの中に ひっくるめている。つまり逆に言うと そこで 《幻想》という見方が出てくるのかも知れない。ウェーバーの方法からのそういう変革がある。
よって 経済人類学の方法は その全体が 価値判断でもあれば 価値自由に認識しその認識すを通じて判断・合理思考をおこなうものでもあるのだと。学問のために・学問じたいのためにではない ということ。
ウェーバー理論の吟味をせずに言っているので もう少しつけ加えますと ウェーバーとて そうであるのかも知れない。ただ 考えられることには エートスをとうぜんのように現実の動きの中(世俗内)において捉えるというとき そのエートス要因の中には やはり人間の意志をこえたもの(一種のアメノミナカヌシ)をも 含めて見ようとする。重心をそこに置かないとしてもです。――経済人類学はこれを 幻想と言うし しかもそれを幻想と見ることが問題なのではなく 日常生活の基層にある非日常性のうごきから その幻想が生じてくると捉えることが 問題なのだ(あるいは むしろ主題なのだ)という見方をする。基層とは非日常性とかは ここで あいまいなものですが それは 人類のあるいは人間の存在のパラドックスにかかわるものと されているのかも知れない。そしてさらに ウェーバーとて 同じくやはり このことを知らないわけではないと言わなければならないとき しかもウェーバーは タカマノハラ出発点において アメノミナカヌシ論に走ったり陥ったりするのではないが それにもかかわらずというか そうであるがゆえに 真理の探究といった学問作業にこそ 活路を見出そうとしたとも言えるし 同時に そこに閉じこもりがちだとも考えられる。その学問は 迂回生産として 正当な準備作業であると言わなければならないとともに 実践としては・また個人としては 何も準備していないことにあるのではないか。もしくは 準備を準備するだけである。こういった事情があり この事情を打開するために 《幻想としての経済》ということが 出されてくる。そうすることによって 矛盾をはらんだ人間存在のパラドックスを それとして認識していればよいというものでもないだろうから 現実に一歩踏み出そう 踏み込もうという動きが出てくるのだと。経済人類学は 必ずしも《政策提言には色気を出さない》と語っているとしてもです。
こういう方向をもったものとして 栗本先生の方法を わたくしは 理解したのですが きょうここでは この前提の上で 次の一点だけについて質問させていただきたいと存じます。


まづこうおっしゃっています。

過剰エネルギーは 日常的な次元では《富》として存在する。しかし これがもはや成長のうちに日常的な形で 消費されていくことができないほどのものになったとき それはいわば元来の性格を巨大化させて《聖なるもの》となる。・・・人間は この特別に過剰な《聖なる部分》を 祝祭のような時間と空間において消尽する。
幻想としての経済 (角川文庫 (5672)) pp.66−67)

《過剰のエネルギー》というのは 質料的な自然(また資源)のそれとして そして 人間の――人間も その身体は 質料で出来ているわけであり その人間の――むしろ広義に見た労働のそれ もしくは労働の成果としてのそれ これらを含めて言われていると思うのですが したがって 質料的な富の剰余という問題だけではなくして 上にわたしが我田引水して解釈したように この《過剰のエネルギー》ということで いわゆる経済活動のみではなく 一定の集団(社会)としての共同自治つまり政治や あるいは 端的に法律であらわすことができるその社会の人びとのあいだの交通関係の規則やをも 含めて捉えられていると考えたいのですが このとき
このとき わたしの疑問は それでは――つまり そういう命題が出されてならば―― 学問じたいというもの これも この《過剰のエネルギー》の一環であるはづだ。したがって そうだとしたならば この学問――すなわちほかならずこの経済人類学も それの一つである―― これは これも 《いわば元来の性格を巨大化させて 〈聖なるもの〉となる》のか。
バタイユの表現に基づけば 〈呪われた部分〉である》のか。したがうならば 《人間は この特別に過剰な――学問としての――〈聖なる部分〉を 祝祭のような時間と空間において消尽する》と言いうるのか。言うべきなのか。そうではないのか。言いうるとすれば それは 当の経済人類学じたいをも含めて どのようになのか。まだ 新しい学問分野では その消尽の段階に至っていないから かまわないということにはならないはづです。わたしの質問は このこだわりです。
一方で 学問だけは 《過剰のエネルギ》から無縁であって いわば治外法権を持っているとは おそらく考えられず 他方で じっさいに学問は 《もはや成長のうちに日常的な形で 消費されていくことができないほどのものにな》るものなのかどうか。
もし 学問にも《生産と消費》とがあるとしますと このわたしの疑問を解くかぎは 先生の次のことばが 有効であるかも知れません。

生産の本質は生産ではなく 交換の本質もまた交換ではない。それらはいづれも 最終的かつ結果的には消費と破壊とを目指して行なわれるものなのである。
幻想としての経済 (角川文庫 (5672)) 1.序説 / 幻想として経済 p.8)

そして もしここで学問も 《成長のうちに 消費されていくことができないほどのものにな》るのだとしますと――じっさい そういう一面もすでにあると思うのですが―― それでは 《破壊》あるいは《自己解体》(――『相対幻論 (角川文庫 (6124))』)に向かっているものなのか。いや むしろ 学問も――つまり 人間の社会的な生活行為の一般が―― それ(その生産)じたいにおいて 自己解体の過程としておこなわれていると見るべきなのでしょうか。だから 《幻想としての経済また学問》なのでしょうか。
つまり 社会的な分業の中で どの人も その部分的な役割を担って――大きくは 日常性としての生産的労働と 非日常性としての非生産的労働(政治・学問・芸術)との社会構造の中で――生きていけばよいということなのでしょうか。
わたしのこだわりを こだわりの内容そのものとしては これで 申し述べさせていただきました。
(つづく→2008-01-06 - caguirofie080106)