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哲学いろいろ

#20

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§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 a

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

§6−1

生産や交換が 消費を目的として・あるいは 前提として おこなわれるものであることは 事実である。消尽しなければならなくなること・あるいは破壊を 目的とはしていなかったであろうが 消費(使用)は前提であって 生産する人・交換する人は 消費する人でもあるところの労働人ないし生活者であることに まちがいない。すなわち 個人としてみればである。
同じく個人としてなのだが 利益を目的として生産する場合の生じてくることも やはり同じく事実である。詳しくいえば あくまで消費を目的とした生産を 自己の利益のために利用するという事態である。利益という目的のもとでは この消費の一部に・あるいは消費に代えて 消尽ないし破棄をも持って 綜合的な生産をおこなうというものである。利益目的でないところの蕩尽は 消費目的の一環であるだろう。
消費目的をこえるためには 消費を たしかに 非日常的な――すなわち 従来の日常習慣を破るところの――ものごとの想像と観点とから したがってその意味で《聖なるもの》として 捉えようとする消費の神話(神話化)が編み出される。われわれは けっこう 神話によわいようである。というよりも 〔生産者の側に立ってのように〕自己の利益には つよいようである。また 利益目的も 将来の消費目的の一環だという理屈も なりたつ。一般的に言って タカマノハラ理論(=出発点の理論)が そのつどの現代思想として・つねに よりモダンなものとして 再生産されていくという恰好になっている。神秘的な内容をもつアメノミナカヌシの神であろうと 持たないムスヒの力であろうと こういったタカマノハラ原理は 結構(=構造)として まだ 現代思想の よきにつけ悪しきにつけ 出発点である。
ふつうの社会生活――その意味での《生産‐消費》目的 あるいは 資本志向のふつうの勤勉――の思想も 構造としては タカマノハラ理論に重なる。
言いかえると 現代の――すなわち 時間的・歴史的そして社会的の――思想というときには 否定的にしろ積極的にしろ 神話を含めていると考えられる。否定的にというのは ムスヒが 人間・個人・自己のことにほかならず アメノミナカヌシは 無ないし不在のものであると考えていて 神話の余地を持たない――あるいは 神話幻想化されることさえ 自由であると考えている――思想である。積極的にというのは ムスヒなる推進力が 人間なら人間という理念になり この理念を持つ自己が ムスヒの神となったり あるいはさらに この個人としてのムスヒのちからが アメノミナカヌシの神を持ち出すことによって補強されるという思想形態である。
もちろん後者は 幻想と言っていい。かまたは 譲歩して言わなければならないならば 一般には 議論しがたい部分である。あるいはまた 前者のばあい 否定的にしろ神話を含めているというのは 後者の思想に対して それらが 幻想のばあいでも 結構は いちおうみな 同じだからである。言いかえると 人間は たしかに どんな思想を持とうと 同じ存在であると考えているし また信じているからである。つまり それゆえ 真実でないと思われる思想に対して われわれは 否定を表明することができる。そういう議論をいどむことまでは 神話思想を人がいだくことまでと同じく 自由だということになっている。
《資本主義と分裂症*1の第一巻 アンチ・オイディプス》においおて ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは 《消費を目的とする生産が 利益という上位目的のもとにおかれて 消費なる目的が神話化されるばあい》を すでに 《消費の生産》とよんで 分析しようとしている。
利益のための生産が 大目的となってくる場合には しかしながら 消費という目的を それでも 捨てきれないから またかえって利用しようとするから この消費も 生産の一行為と見なせばよいということになっているのかも知れないというわけである。これは 極力 非合理な神話を排除して建てた生産タカマノハラ理論だというわけである。たしかに 一つの目的である消費は 一般に不利や損失をめざしておこなうわけではないので そこにも 利益ということは 含まれていると考えなければならないかも知れないから この資本志向の出発地点と同じように その資本主義志向(利益大作戦)のタカマノハラ理論も 持ちこたえる部分がある。
《アンチ・オイディプス》は 精神分析学として さらに この消費の生産が 唱導されるようになるときの出発地点 すなわちそのタカマノハラ理論の精神現象的な成り立ちを 解明しようとする。
かんたんに言って またわれわれの言葉に翻訳しようと思えば 《パラノイア人(偏執者)》が アメノミナカヌシ病であり 《スキゾ(分裂者)》が ムスヒ病のことである。後者の中では タカ(≒アメ)ミムスヒ傾倒が 何らかの指導的な地位につくかたちでの呪術師(シャーマン)の傾向をおびて パラノイア人に近くあり カム(=カミガミ)ムスヒ傾倒が 汎神論の傾向をもった夢見る人(アニミスト)である。
アメノミナカヌシ傾倒は タカミムスヒ傾倒に近く 汎神論アニミストなるカムムスヒ傾倒から出発してのように それが 統一〔神〕志向を持って成り立ったものである。カムムスヒ理論(アニミスム)というのは 人間や自然現象あるいは社会現象(つまり 人間にかんして とくに非日常的な言動)のそれぞれに 経験超越的なカミを見るというものであり ただし アメノミナカヌシのような一つの中心神をいだかないことにおいて 相対的な見方を持っており 素朴な(あるいは 原始心性の)かたちで 人間ムスヒ理論に属する。アメノミナカヌシ教は 唯一神を持ち始め これに執着し パラノイアックな傾向をおびる。タカミムスヒ傾倒は 両者の中間で しかも両者の欠陥をこえようとして 人びとの指導的な地位に就く。そのとき あたかもその代償としてのように パラノイア人やアニミストの欠陥を 自分の中に輸入してのように これらをまとめ統治しようとするゆえだと思われるが 統一〔神〕志向をやはりおびる。いわゆるシャーマンだと思われる。
ただし 思想の具体展開としては 非合理を できるだけ 排除している。少なくとも もう現代では。経験法則を捉える経験科学のその法則の部分――それは 真実には ちがいないが―― これを 客観抽象的な普遍性と見て またさらにいわゆる科学主義をとってやはり普遍〔神〕をどこかで志向している恰好である。
で 要するに これら三種二類のまとめてタカマノハラ神話症候群は 《充実身体 le corps plein / 器官なき充実身体 le corps plein sans organes 》になるという。傾倒せられたアメノミナカヌシやムスヒや それらが 何ものかとして存在するかのように そして 原子のごとく・あるいは電波・放射線・磁力のごとく 飛び交いつつ作用し 《欲望する機械 machine désirante 》となるという。(ジラールも こういうことを言っているらしい)。
文字どおり《機械》であるから 《身体》の語で言うのである。あるいは その逆。つまり 身体=自然から 欲望する機械という用語へ。むろん 精神現象(ないし 心理的な起動力)がそうなる あるいは そうするというのである。中でも 指導的な立ち場に立つタカミムスヒ傾倒の科学主義は その科学的な真実としては おそらく 誰にも異論はないであろうが それにさらに 輪をかけ心理起動力を発揮し やはり機械的ガリ勉になるというわけである。
これらの場合 われわれとしては 病いでありその思想では ぐあいが悪いと考えているから 精神というよりも 心理と言い 推進力と言うよりも 起動力と言うほうがよいと思われる。同感人の精神からの 背感あるいは従って異感の状態 そのときに起こるタカマノハラ出発点のそれとしての思想形態〔群〕。精神は 心理がさまよい しかも何ものかに固定し傾倒していくなら 少なくともそうなっているとさらに そこで 認識・判断する〔推進〕力である。これを 図式的に 普通のタカマノハラ出発点 つまり ムスヒ存在 つまり――スミスにならって―― 同感人と名づけた。
この推進力によらない行動(また思考)は じつはまだ 想像までの心の動きなのであって この心理〔的な行動〕それじたいに 罪はないと思われる。そして その心理起動力による想像・推理が 機械的に 正しいと信じられるなら そこで 対人・対社会的にも 起動力を発揮していく。欲望そのものは 感性から発しての単なる心理の動きであり 精神は これを見定めているが そして 同感人の出発点を隠そうとするのが とうぜん 背感・異感であり それにもとづくところのタカマノハラ神話理論が――起動力をもって――発進するということであるようだ。精神(理性)は むしろ感性から発しているとする(Th.ホッブズ)なら 身体の感覚全体をとおして 知覚し 判断するとも 言っておくといよいかも知れない。ゆえに同感の《感》(スミス ルゥソ)。
むろん人間に 欲望がないわけではなく 心理(要するに心の動き)を持たないのではないあ。人間も この欲望を 動物と共有している。人間は それだけではないので 欲望や心理の起動力を発揮して行動するときにも じつは 動物――これの場合は特に本能とよばれる――とまったく同じなのではなく したがって 動物になるというよりは 機械になると言うというわけである。または 充実身体。背感が充実していくという意味であるのだろう。資本志向(勤勉)→資本志向(勤勉)主義⇒資本主義志向(ガリ勉)という充実へ。心理の起動力は 精神の推進力に取って代わってのように 充実していくというわけのようだ。
なぜ 《器官なき》か。かんたんには 機械の構成要素を 器官とは言わないからである。それは 部品と言う。ただし この理由は まだ タカマノハラ神話症の初歩の段階なのであって これが 落ち着いてくると・つまり 昂じてきて定着してしまうと 《欲望する機械》そのものになるからである。欲望する機械というのは むしろ初めには 心理起動力の個々の作用――すなわち 放射線・電磁力――をいうのであるが したがってその初期では 感覚および知覚のまとめて精神の器官を とうぜん 持っているし 健康である。健康でなくなりきった段階を 《器官なき充実身体》とよぶと いわれる。

(つづく→2008-01-07 - caguirofie080107)

*1:分裂症:この用語を 当時の用法として そのまま 載せることにします。