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哲学いろいろ

#21

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 b

§6−1(つづき)

死の本能 これがこの身体の名前である。この死には モデルがないわけではない。じじつ 死の充実身体は みづからは動かずして欲望を動かす《不動の動者》であり このために欲望はこのことをも(* つまり死をも)また欲望することになるわけなのである。
こうしたことは ちょうど 生のもろもろの器官が作動する機械 working machine であり このために欲望が生を欲望することになる事態に対応している。
(『アンチ・オイディプス』 1・1)

後半(これは わざと段落分けしている)では 健康体のばあいにも 心理起動力〔および 精神(知性)推進力を含めてというべきかも知れない〕のことが 《機械》と言われている。これは これとして 見止めておくことにする。表現上の問題としておく。
前半では 一つに 思想がまったく健康でなくなったばあい したがって 《死》と定義づけられ しかも その成熟(定着)した段階として その死は また死を欲望するというふにも 捉えられた。これは おそらく 死が死なないようになる第二の死のことだと思われる。もう一つに〔前半では〕 この器官なき充実身体の死の思想は モデルがないわけではなく 《みづからは動かずして欲望(機械)を動かす〈不動の動者〉》が 例示されている。これは いわずと知れたタカマノハラなる天つ神の模型としてのことでもある。
ドゥルーズらにあっては キリスト教の神が 言われているのであろう。すなわち この神が 文字として そして 心理起動力の源泉として 信じられ思想されるときのタカマノハラ神話症(アメノミナカヌシ傾倒)のことである。

  • ウェーバーも この心理起動力のことについては それを解明したあと どの方向に自分は向かうのかを必ずしも明らかにしないかたちで 議論をしていた。まさかシャーマンになったわけではないだろうが その成れの果ての資本志向主義の精神――いやいや これが 精神ではなく 心理起動力なのだ――を 告発するかのようである。

心理起動力というのは 近代人としてはもう合理的な理念の部分も多く含まれてさえいるのだが その理念などを 観念として想像するというときの起動力であり それは 《念観する》という言い方で捉えるとよいかとも思われる。自分は動かずして 念観しているなら 相手がこれを察してのように 動いてくれるという部分も 大きいということだと思われる。もちろん ガリ勉で人一倍努力するのだが その電磁力が 伝染するという要因つまり伝染すると思っているという要素も 見逃せない。
不動の動者(あとの《動》は 他動詞・使役動詞である)なるタカマノハラ原理は アメノミナカヌシ傾倒すなわち パラノイア人にも 起こりうる。欲望する機械を すべて――すべて――無意識あるいはリビドーなるアメノミナカヌシの所為だと 肯定的にはもちろん 否定的にの場合でも 信じたり考えたりするときである。カムムスヒ傾倒すなわち アニミスムのしかもスキゾ傾向の思想にも 起こりうる。これは アメノミナカヌシ症のようには ものごとを 統一的に捉えず したがって人に説明したり治療をほどこしたりせず また人をみちびくということがない場合のことである。その場合 不動の動者を立てることによって 素朴な相対論である汎神論の中に 分裂(スキゾ)が 起こる。あるアニミストは蛇を信じており  別のアニミストは狐を信じている。分裂した片一方の側面では 次のタカミムスヒ傾倒すなわち おそらく真正のスキゾフレニアのシャーマン指導者についてゆく。自分自身では 蛇と狐との綜合・統一をおこなわないからである。
タカミムスヒ傾倒すなわち シャーマニスムのスキゾ人の思想に 不動の動者が 入りうる場合というのは 社会において指導的な地位に立ち ものごとを統一的にも捉えるというとき むしろ神秘的にではなく経験合理的であることを 保つ場合でもある。言いかえると アメノミナカヌシ統一神を 人間の外に(意識を超えて)抽象的にはもはや捉えず むしろ自己が しかしながら この一個のアメノミナカヌシとなる場合である。人びとをみちびかなければならないとは 思っているのであり ほとんど すべては自己の肩にかかっているとは思っているのであり 経験合理の人間ムスヒ理論が ここで タカく 翔けあがってゆく。アマアガル もしくは アマガケル。
不動の動者だと呼ばれたばあい 難なく これを受け入れるようになる。もはや器官なき充実身体で――なぜなら そのときまでには およそ資本志向主義のガリ勉の努力で走ってきている―― さらに自己を保持するには どうすればよいかというとき 自分は動かなくなり しかも欲望や意図をはたらかせたいのであるから よって人を(この場合 だいたい スキゾに寄って行ったアニミストの人たちを) 動かしたい 動かせばよいと考えるようになるらしい。それは もはや健康ではなく死なのだが――ということであるようだが―― この死の定着こそが(たとえば むしろそれが《聖なるもの》と見なされて) 人間の人間たる生だと 考えるに至っている場合である。生産しなければならないし この生産の手を 是が非でも 休めるわけには行かないと考えたから。考えたならである。


タカマノハラ神話症は もう現代では 古いと思われるが そして特に カムムスヒ傾倒=アニミスト=スキゾ人であるとか アメノミナカヌシ傾倒=パラノイア人であるとかは きわめて単純なタカマノハラ症候群であると言ってよく 問題は 残るタカミムスヒ傾倒=シャーマ二スト・スキゾ人の思想形態であると思われる。現代ではもう それでも 古いというのは この場合でも その思想の 人びとをみちびく時の・あるいはそれによって説得する時の 推理や論理じたいは まづ経験合理的なのであり 症状といったものは ほとんど表に現われないと思われるから。ただし それゆえ 問題として考えておかなければならないかも知れない。
だから これは――いま 結論を先走って言ってきているけれども―― 重症なのであって その証拠に 完全な 器官なき充実身体となって その欲望する機械=むしろ放射線は 垂れ流しになるからである。むしろ欲望しないことによって 《欲望する機械》となるかたち。したがって 聖なる死を欲望していることによって さまざまな欲望の放射線をはなつ。もしくは  漏らす。これは 理論的にどうこう言うよりも そういう経験現実が おおいに 感じられるからである。そういう種類の証拠が見受けられるようなのである。(もちろん人は これを 異常感覚だと いうことはできる)。動かない 器官なき充実身体は それ自体として充実するとき 欲望する機械が むしろその作動を止められたようになって そのことにより 日夜をつうじて はたらき まづはその放射線が 漏れ出てくる。かれらは 自分のまわりに 磁場をつくっている。これによって それとして 社会的に有力である。
わたしたちは この状態を称して 《空気のような身体》とも言う。天に上がってしまっているのである。それでも地上にいるから ゆうれいのようなものである。ゆうれいが 《充実》していて もう死なないようになった思想機械として立ち現われる。
パラノイア人やアニミストのスキゾ人の思想というのは たんに むしろそのような偏執的な統一癖や 逆に 分裂的な汎神論やを よろこんでいて それらの習慣の中で じゅうぶんな未練をのこし あそんでいるふうがある。そうしていたいというものである。シャーマニストのスキゾ人の思想は たしかにシャーマンでいたちという側面もあるのだが 反面で かれらは パラノイア人やアニミストでい続けてはいけないと考えているところがある。いけないとは表立って言わないとしても 自分よりほかのこれらのタカマノハラ症の二例に対して 優越感を持っていて 自分たちの心情からすれば それらの症例の人びとに対して あわれみの気持ちをいだき 発揮しようと思っている。それも 《自然に》発揮しようとである。
経済的には 生産のため 消費を生産しなければならないと企画するし 思想的には この経済運営のために 人びとをして 心理的な起動力の起こることを得さしめようと 《日夜》努力する。経済的にも思想的にも 活性化をおこなう。これが 問題のタカマノハラ=スキゾ=シャーマニスムの思想である。
(つづく→2008-01-08 - caguirofie080108)