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哲学いろいろ

#22

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 c

§6−1(なおつづき)


経済的には 生産のため 消費を生産しなければならないと企画するし 思想的には この経済運営のために 人びとをして 心理的な起動力の起こることを得さしめようと 《日夜》努力する。経済的にも思想的にも 活性化をおこなう。これが 問題のタカマノハラ=スキゾ=シャーマニスムの思想である。
それらは ほとんどすべて 合法的に おこなわれると言わなければならないかも知れない。かれらは 有能となろうと努力し 社会にとって おそらく――もしそれが供犠文化の縮小構造そのままであるとしたなら――不健康なかたちで 有益であろうとする。

器官なき充実身体は 反生産の領域に属しているが しかし 生産をこの反生産に(* つまり 反生産の境域に)連結することが やはり持続的綜合(* すなわち 生産的綜合)〔であると考えていることが そ〕のひとつの性格である。
(『アンチ・オイディプス』1・1)

反生産というのが 言い過ぎだとしたら 消費目的を転倒させた生産のための生産形態といえばよい。ドゥルーズらにあっては 初期の欲望・ふつうの欲望に対する反対の方向 こういった意味内容を この《反生産》の語は 持っているようである。生産された物じたいは どんな形態で生産されようと 過剰であるかどうかを別として だいたいにおいて 効用を持つものである。生産物に罪はない。そして 一般に スキゾ=シャーマニスムの思想人は ともあれ この生産を推進していく――大きく見て 推進していく―― したがってのように 社会を運営していくその指導者である。しかも その出発点が 不健康なら つまり反生産的で死へ向かうというのなら ありがた迷惑である。その思想人の本人にとっても ぐあいがわるい。抽象的に論じて このあたりが 問題の焦点になっている。
ドゥルーズガタリに言わせれば 精神分析として・思想の出発点として

資本は まさしく資本家〔であること〕の器官なき身体なのだ。
(同上1・2)

ということになる。経済政策については 言っていないわけである。また そう(上のとおり)であるかどうか そうであるならどうすればよいかは さらにわたしたちが かれらを含めて 互いに議論し知恵を出し合っていくところのものであるということだ。

しばしば オイディプスは簡単なものであり はっきりと与えられているものであると思われている。しかし ほんとうはそうではない。オイディプスは 欲望する機械のとてつもない〔* 意識的・社会的〕抑制を前提として成立しているのだ。では これらの欲望する諸機械は 何故 またいかなる目的で抑制されるのか。こうした抑制に従うことは ほんとうに必要なことであるのか あるいは望ましいことであるのか。・・・
(1・1)

消費の神話には それの奨励のほかに 抑制(もしくはタブー)の側面もあるという。あるいは 非日常的な・つまり従来のものとは違った新しい消費が《生産》されるとも 言うのであろう。従来の日常的な活動領域では 欲望は 社会的に抑制される側面があると言う。そのときには おそらく タカミムスヒ・スキゾ人は 《勤勉家》の模範なのであって そこでかれらが行なってきた欲望の抑制は 一般にアニミストの人たちに特に 有力に 伝わっていくということであり それらの結果 社会の全体的に スキゾ・シャーマンたちは これらを指導する者として そびえ立つというぐあいになっている。というのであろう。
実際には抑制されていないのだと思われるが または ある部分で抑制されていて 他の部分では そうではなく むしろ聖なるものの消費が行なわれていくということだと――栗本慎一郎の議論に従って――思われるが オイディプスの問題については 次のように考えられる。
オイディプスはここではまづ このように スキゾ=シャーマニスムの経験合理的な(精神分析学という学問的な)タカマノハラ理論の中に組み入れられた《アメノミナカヌシ=無意識 ないし 欲望の源泉機械》のこととして 捉えられているから その書物の題名が 《アンティ・オイディプス》なのである。つまりまづ《アンティ》の発言を別にして 《オイディプス》を主題としている。そして 《消費の生産》が経験合理的に神話化されるその反面で その神話の実現にとっては不合理で無駄なところの 人びとの欲望や考え方(器官機械)は 抑制が奨励されるようになっている。そのこと・つまりシャーマンからの放射線連鎖として いもづる式につながったような意識的・社会的の とてつもない抑制は――つまりそれらの大合唱は―― 何故 いかなる目的で 必要か 望ましいかと問うている。
要するに 出発点においてアメノミナカヌシ類型物として建てられた《無意識ないし 欲望の源泉機械》 これが 資本主義志向の人間においては・そしてほとんど同じことで 精神分析学の志向する治療(その理論)というものにおいては 《オイディプスという無意識》として 限定され 据えられるという。そういう規定としての水路が決められていくという。すなわち 三角関係における抑制を果たしてこそ アメノミナカヌシ教の信徒は 精神的に社会的に健康だという恰好になっていくのだという。愛し合う二人に第三者が割って入り 一方をおかすといったことがないのが 道徳的に健康なことは 分かりきって鋳る。少しあやふやな類推で考えてみると 次のようになるというのであろうか。
生産において まづ 協働しようという二角がある。ふたりの人間の協働である。その二角関係の協働の成果 つまり 始めにあった価値に加わったところの狭義の成果 これは 利潤のことであるが 第三角である。第三角は 価値を言うから まづいかも知れないが 初めの二角を 人間の労働量ととればよい。その二角のうち 一方――仮りに第一角――は 資本という労働量(つまり 資金なら資金)であったかも知れない。そしてこのときには あたかも男の子であるところの第三角(=利潤)は もともと二角関係協働による成果であったはづだが じっさいは あたかもその父であるところの資本という第一角 こちらのほうに 帰属する。もっぱら労働なる第二角を――あたかも母を―― 第三角のオイディプスは 恋してはならないというわけである。ムッシュー資本とマダム労働とのあいだで――それらの第三角をめぐって――抑制が 敷かれたというわけである。
精神分析学が努力しているところのことは 現代社会におけるアメノミナカヌシ教――つまり 資本教――の託宣としての 《抑制としてのオイディプス》だというわけである。法治社会の中で法律に対して それとして従う または道徳の要請を それは満たしたほうがいいに決まっているから それとして満たすといったこと自体 このような側面は 別にしての話しであるが。
いわゆる精神分析学においては その出発点が 一般的には《無意識・リビドー》であるが 実際問題では この《抑制としてのオイディプス宗教》である。ゆえに 著者たちにおいては これに異を唱え 《アンティ・オイディプス》なのであるが その意味は 一般的な出発点の《無意識》――《欲望する生産》ともいう――については 受け継がれているということである。ひとことで批判していうなら このようなアメノミナカヌシは 立ててももらいたくないところである。説明の中の論理には 明らかに 建てられている。
(つづく→2008-01-09 - caguirofie080109)