caguirofie

哲学いろいろ

#23

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 d

§6−2

しかしながら 前節の議論の中で ドゥルーズおよびガタリとともに われわれも使った《死の本能》という用語 これは 少なくともわれわれは フロイトもしくは精神分析学一般における概念として 捉えているものではないことを 見ておかなければならない。書評という体裁に反するかも知れないが わたしは 著者たちの視点から逸れていきたい。
 フロイトがどう言っているか ここで明らかにしないが 精神分析というのは 《精神》という概念を〔日本語で〕用いているけれども 心理をさらに分析して その起動力が 無意識の領域にあると考えるものである。心理といったのは 心理や行動を通じて分析したところの心理を言う。

  • 精神の現象だといえば そうであろうけれど この精神の現象としての心理によって 精神が どうにかなるわけではない。精神のあり方が どうにかなったわけではない。もし病理があるとすれば 心理の圧倒によって 精神がはたらくなったということである。問題は 外側で起こっている。と考えている。

言いかえると 精神や知性によって意識されないところの 超精神(超理性)とでもよぶべき分野に 心理的な起動力の源泉(アメノミナカヌシ)があるとと立てるものである。そう考えるのは 知性・精神すなわち人間の推進力(ムスヒ一般)のものではある。
もう少し へらず口をたたいておくと 精神分析学者(また精神医学者)の《精神》が 人ゲの《精神》も手に終えないような或るもの力と作用を 考え想定し 説明に用いる。それは ア類型的に言ってメノミナカヌシだが 《無意識》――あるいは《元型》?――というと 経験合理的にわかったような気になる。それだけのことである。ただし それだけのことでも わかったような気は 大きな実感を伴なっているのか 一般にタカマノハラ神話症候群で――つまり近代思想を通過した原始心性で―― 心理的にさまよっている人びとは この精神科医の患者(お得意)となるのである。精神分析学者も 患者としてむかえる。その心は――そこに繰り広げられる内容は―― 実質的なところ 精神の出発点に立つなら 精神分析学の言っていることは ああそうか へえそうかで おしまいなのであるにもかかわらず わざわざ まづは知覚不可能なアメノミナカヌシのことを 探究しはじめる。だから 精神分析学は 入門のところで すでに卒業なのである。そのはづなのである。
もっとも たとえば小此木啓吾の『エロス的人間論―フロイトを超えるもの (講談社現代新書 239)』を読んだときには わたしは 精神という出発点にかかわる生活態度が論じられていると思った。わたしの言いたいのは 患者というものは いないということである。もう一度もっとも タカマノハラ神話症候群という病いの状態は 起こっているとは思う。だが これの生産と消費 つまり医者と患者の世界などは まづ ないであろう。
ところが 無意識の欲望(リビドー・エロス)にしろ死の本能(タナトス)にしろ われわれはここで もはや これを 心理的な起動力であるとか その源泉であるとかとも 言わないことにしたい。そのこころは 確かに問題になっているのは 直接には アニミスムなるムスヒ傾倒のさまよう心理作用であるとか これを統一的に・そしてさらに理論的に捉えようとしたところのアメノミナカヌシの神なるパラノイア心理源泉であるとかなのだが すでに触れてもいたように このようなタカマノハラ症候群のばあいには それでよいという思い そうしていたいというともなく そうしていたいというような気持ちを 実質的に その人びと自身は はたらかせているのであって このような思いや気持ちは ともかくの じつは その人たちの精神=推進力のあらわれなのである。心理起動力になってあらわれるものだが だからこそ さまようだが さまよいや悩みじたいを 実は うすうすにでも かれらの精神は 捉えている。それらは 解明されている。誰よりもまづ当の本人においてである。明らかに自分の自由な意志で(つまり 精神推進力で)そう判断し行動しているのである。子どもではあるまいから。
あるいは 子どもにでも それは わかっていて ひとこと 目をあけていなさいとか 自分自身を知りなさいとか 言ってやれば たとえ反撥をともなうとしても もう弁明の余地はないはづである。病気の状態は 頭におこっているが 患者が生産されることはないのである。
リビドーとか死の本能とかの欲望する機械が 直接的・客体的には 問題となるのだが 実質的・主体的には じつは この機械を もはや機械的に働かせていたいと願うところのやはり人間精神が 関与している。われわれは それは まちがいだよと言ってあげるところまでは 内政干渉せずに 自由におこなうことができる。精神分析学とて アメノミナカヌシを類型的に立て まわりくどい言い方をするが めざすところは 同じなのである。
別のことばで言えば 人間のふつうの推進力――人格といってもよい―― これを もはや はたらかせないようにしていたい つまり 脱ぎ捨てていたいという衝動が 起こっているかも知れない。これを 問題にすることもできる。この衝動は 衝動といっても あるいは本能とか無意識といっても 基本的には 推進力精神=自由意志に属する。この知性で パラノイア人もアニミストも 自己の欲望する機械のことを知っているし すべてを捨ててそれに憑依しようというところの自己の衝動のことをも じっさいには自覚している。すなわち 自己は自己を知っている。そして しかし わづかに 知っていたくない・解明されたままでいたくないと 言い張っているにすぎない。
問題は だから この先にある。なぜなら 以上の二例のタカマノハラ症候群は そうだと指摘してやりさえすれば われに還るであろう。または 自己に還るのを それでも いやがるならば われわれは もう放っておかなければならない。それ以上 干渉することはできない。つまり 事がおこるならば そのつど 同じことを 指摘し続ける以外にない。のであるとき もう一例の 合理的な神話理論なるタカマノハラ症 すなわちタカミムスヒ傾倒なるシャーマニスム・スキゾ人のばあいでは――これが 問題だと われわれは言ってきた―― 一方で アニミストやパラノイア人の欠陥を 知っており いわば超えている。そして他方で なおかつ その超越または優越を誇ってのように 干渉・指導しだすのである。
言いかえるとスキゾ・シャーマンは 自己が自己を知っており また自己に還っていると同時に そのような経験合理的のムスヒ理論の中に なおかつ アニミスム〔のムスヒ心理起動力〕やパラノイア〔のミナカヌシ統一神なる観念=すなわちやはり心理起動力〕を取り入れる。生産のためである。生産の《推進》のためにである。かれらには 指導癖がある。啓蒙ちう事業も 時には この例に漏れないことがある。そして 言って見れば 死の本能を 精神の推進力と 一体化させる。かれらは 死と寝る。そうすれば 一方で自分たちは もう動かなくなるけれども 他方で アニミストやパラノイア人たちを 動かすことができると踏んだのである。シャーマン道とは死ぬことにありと見つけたりというわけである。
しかもこれは もし消極的にでも自己犠牲ということばを用いるなら そのふつうの知性の実践と 結構としては 重なるものがある。天使のよそおいをも着る。そういった点では かれらは 自覚していようといまいと 《キリスト教徒》なのである。
そして いまおこなっているただし書きとしては これらすべてを 死の本能だとかいった あらゆる領域での作用と見るのではなく 直接・客体的にはそうであっても もはやそうは見るのではなく あくまで明らかに 人間の精神がこれをおこなうと 見なければならないことである。自由意志がおこなうのである。われわれと同じように かれらも 人格として ただしそういう生活態度をとるのである。この限り ここには神秘はなく 説明不可能なことはない。もっと言えば たしかに病気の状態は起こっているが 基本的に言って 精神・人格(同感人)の出発点に 病気はありえず それでも 心理起動力のほうに頼ろうとする人たちは その病気の状態を そこに見つつ 自分自身の精神で 生産と利益のために むしろ利用しているのである。
病いから自由な精神出発点がおこなうことなのであるから そのような病いの利用は 少なくとも建て前として 合理的・合法的におこなうのである。しかし この病いは 重い。病いを利用する病いは 重い。死に至る病い?
 もちろんわたしは 病いから自由だから こういう議論をしているのだが それは 病む人びとの病いの状態と同じようになって 対話をすることも 自由であるからである。精神分析 あるいは世に言う文化人類学も すでにこれを目指しているか 実践している。建て前も本音も そのはづである。
分析されるべき精神現象は すべて 人間のおこなう思考と行動の問題である。自由意志の関与する限りで そうであり その限りで 説明可能また対話も可能である。やはり経済が基礎になっていると言わなければならないと童子に 少なくとも個人の力の及ぶ範囲としては 意志の問題であるから この経済活動をどう――どんなタカマノハラ理論を出発点として――おこなうかの 思想問題である。思想問題として 捉え 議論することができる。われわれは この限りで 経済政策の側面を別にすれば その人のタカマノハラ理論を取り上げ 時にはその欠陥を突かなければいけない。また そうしていく人間の知恵が有効である領域が われわれの前に・あるいは内に ある。過程されている。

われわれは 分裂症(* スキゾ・シャーマン)を自然主義的なひとつの極点(* タカマノハラ原理・そのタカミムスヒの力)に固定しようとしているのではない。分裂症患者が典型的に類的に生きているものは 自然の特定のありう極点なのでは全くない。(* ただし それを 思想の出発点とはしている。)そうではなくて それは 生産の過程としての自然なのである。
(『アンチ・オイディプス』1・1)

(つづく→2008-01-10 - caguirofie080110)