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哲学いろいろ

#28

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§6 G.ドゥルーズ / F.ガタリ共著《アンチ・オイディプス》 i

§6−5(補遺)

《第二章 精神分析と家庭主義》の《第九節 〈過程〉》というところで 《出発し出てゆくこと Partir 》(段落の見出しである)が 論じられている。
《分裂者》はその――《出発》の――先駆者であり指導者であるということらしい。つまり この点 いくぶん違った見方が提出されている。たとえば

分裂者は 脱コード化した種々の流れ(*――要するに 解釈しておいた社会の現象――)を導き これらの流れに器官なき身体の荒地を横切らせて この荒地(*――要するに 社会や歴史の従来の解釈としての行為形式とその実行の領野――)に自分の欲望する諸機械をすえつけ 活発なる諸力のたえざる流出状態を生み出すのである。
(§2・9 p.164)

表現の用語や手法を別にするならば それほど奇異なことを言おうとしているのではいし じっさい ふつうの考え方である。つまり新しい真実を求めて――あるいは 求めたゆえにその表現行為を新しいかたちで打ち出して―― 進むというほどの議論である。《器官なき身体》といった なかなか理解しがたい用語もさることながら それでもこの議論に 奇異なところがあるとするならそれは 新しい真実を求めて進むその進み方・進め方のうえで 《自分の欲望する諸機械》を活用するという捉え方をすることであり これを現代社会のパイオニアとして実践してゆくのは 《分裂者》であると規定するところにある。
われわれはもう かれらドゥルーズガタリも 《出発》のことを語っていると見たなら それでよいわけで わたしとしては 深入りしたくないところである。上の 奇異だといった点などが それを無視して済ますわけに行かないものだとしたなら もう少し立ちどまって考えてみる。
新しい人間を《分裂者》とよぶのは おそらく《かれら(分裂者)は 信じられないような苦悩やめまいや病いを経験している》(p.164)と見ることなどから来るらしい。《こうした〈欲望人〉たち(それとも こうした人たちはまだ現実には存在してはいないのかもしれない)は ツァラトゥストラのようなものである》(同上。カッコ内は 原文)とも言っている。分裂症――つまり 従来の精神分析での用語をそのまま使っているわけであるが――は それこそが その《苦悩やめまいや病いの経験》こそが われわれの《突破口》なのであって それには《欲望》牽引力の役目を果たすということであるらしい。もと厳密にいうなら 分裂者その人にあっては かれ自身が 人びとや時代の牽引力たる欲望する諸機械(つまり 欲望する生産)そのものであるというのかも知れない。《出発》にかんして・《出発》に際して 突破口や牽引力やその主体たちの問題として こういった一つの筋が提出されることに 今いうところの特別の奇異さはない。用語がいくらか 変に感じられる。だけである。
まったく簡単に解釈してきているきらいはあるのだけれど いま上の《出発》の筋のあり方 これにかんしては その限りで そうかも知れないとわれわれは答える。そう答えるだけである。ことさらの反対も賛成もしないであろう。《出発》では互いに同感しているのである。または そうだとわれわれは考える。
まだ締めくくったことにはならないか。
かれらの説明するに このあたらしい人間としての・現段階における《分裂者》は

気違いになりはしないかという恐れをたんに棄てただけなのである。いわば かれは もはやかれを冒さない荘厳なる病気をみづから生きることになるのだ。こうなれば 精神科医はいかなる価値をもっていることになるのか。いや そもそも価値をもつことがあるのであろうか。
(§2・9 p.164)

などとも語られている。
一つには われわれはおそらく 《精神科医》を目の敵にしないであろう。おそらく精神科医が価値をもたないとわたしも考えるのであるが とくべつ反対しないであろう。占い師や宗教教団などにとくべつ反対しない。もっとも ドゥルーズらも 目くじら立てて抗議しているのではなく 歴史の《過程》を見すえて言っている。早くいえば いまの資本主義の生産様式と精神分析学とは 連れ立って歩いているということであって 時代の問題として見ているし それとして語っているのである。――ということは われわれとの差異は 上の引用文のひとまとまりとしては 原因と結果 論旨をはこぶ上での条件と結論 これらの順序が われわれにおいては 逆であることだ。逆であるか それともそこには とくべつの因果関係――すなわち 《恐れ棄てた→精神科医の無価値》――を見ないかである。そしてもう一点言っておくとするなら われわれも《過程》を見るけれども この見すえている《過程》を 一つの結論とはしないことである。
だから 来たるべき新しい人間が いまの時代にあって《分裂者》となっており 《気違いになりはしないかという恐れを ある日 やおら 棄て》 やっと 精神科医の無価値(あのオイディプス抑制の不当性・不自然性)を指し示し やがては――その限りで――資本主義〔としてのむしろ精神的な《表面》の価値〕を脱皮させていくであろうといった こういった展望も こう表現するような結論も われわれは持たない。なじまない。(オイディプス抑制の不自然とは むしろ《オイディプス》を一個のアメノミナカヌシ出発点に何ら立てていなければ その抑制は人間的な・社会行為として自然であるかも知れない)。
だから もう一つには われわれの側からすれば 《〔この言葉がよく出て来てしまうけれど〕気違いになりはしないかという恐れを〔たんに〕棄てた〔だけなのである〕》という表現現実にも なじまないところがある。《たんに・・・だけなのである》という表現部分は あとで――上で見たように――精神科医の無価値をみちびくために この《恐れの放棄》を強調しているものである。これは 上に述べた点にかかわる。しかしながら われわれは 《気違いになりはしないかという恐れを棄てた》とも――たとえそれが 事実としてそのとおりであったとしても―― あまり語らないであろう。なじまない。
われわれは もし仮りに一人の気違いがいたとして その人と具体的に対面し交通するとするなら あたかもその人と同じように気違いになって――あたかも同じく気違いになってのように―― 話し合いをすすめる。《気違いになりはしないかという恐れ》を われわれは じゅうぶん 持っている。この意味は しかしながら微妙であって それはわれわれが相手を見てその人を理解しようとするとき その人が――自分の自由意志で―― もしそうなら気違いになりえたのであろうという・その意味での理解というか恐れを 持っている。このことである。
ほかの例で話すと わたしは精神科医はほとんど価値がないと考えているが その精神科医なる人と 具体的に対面して交通するとき わたしはその人と同じような考え方になって話しをするなら――つまり するのだから―― わたしはその《社会的に価値のない精神科医〔の言動〕》そのものに自分がなりはしないかという恐れを むしろその精神科医なる相手の人やあるいは周囲の第三者たちに対して 持っている このことである。
わたしも ドゥルーズらの言うごとく《気違いになりはしないかという恐れを棄てた》男のひとりであるかも知れない。だが 引用文のような表現現実には そのことは なじまないと思っている。つまり 事実として重なるところがあるとしてもである。単純に――くりかえして――言えば 《棄て》ていない人もいるだろうとは分かっているのだから この《恐れを棄てたこと》を強調することは ありえない。もし言うなら これが 《過程》である。つまりむしろ空間的に見て 《関係》のことである。その意味でなら こんどは 《棄てただけなのである》と言えるのかも知れない。それにしても そのときには わたしは《もはや自分を冒さない荘厳なる病気をみづから生きることになる》と言ったりしないだろう。詩的な表現の一つとして それは ありうるのだろうか。
要するに ドゥルーズらに言いたいことは 自分のこととして 主観的に ものごとを語れということである。《出発》にかんしては である。
《かれは気違いになりはしないかという恐れをたんに棄てただけなのである。いわば かれは もはやかれを冒さない荘厳なる病気をみづから生きることになるのだ。こうなれば・・・》というような表現現実は まだ《器官なき充実身体の荒地》の中に もしドゥルーズらの表現方式で言うなら まだ《欲望する生産》は そこに――そして逆に――現われて来ていないということのはづだ。器官なき身体に ドゥルーズらは まだ冒されている。わたしは 影響を受けるけれど もはや冒されていない。だけれども 冒されている人になってのように 語ることもある。器官なき身体(空気のような身体・雲の上の声)になってのようにも 語ることがあるわけだから いづれの場合にも 《気違いになりはしないかという恐れを》 その相手や他の人びとのために 恐れている。ドゥルーズらも 少なくともここまで出発して来ているべきであろう。
書物全体の後半で 《主体集団と隷属集団》の区別など おもしろい議論が展開されているけれど ふたたびかれらの表現方式をそのまま使って述べるとするなら このおもしろい一個の重要な議論にしても まだ 《欲望する生産》は現われて来ていない。逆説的にいえばである。かれら自身のこととして 述べたことになっていない。いわゆる迂回路における一つの貴重な説明になっている。欲望する生産は もしそう言うとする限りで たとえ迂回過程にあっても 《表面》と直接――むろん言論として――相いたたかうことになるはづである。表面は オイディプス抑制のネットワークなのであるから。ただし もっとも わたしたちとしては 一重の出発点――同感人――ゆえに 表面の登録体系とも いうとすれば からみ合うのであって また そこに欲望がないという言い方をしないのだけれど 欲望を 出発点においてはいない。この点は はっきりしている。同感人として生きる。そして この同感人として生きる・またその持続といった意志のことを 欲望する生産と表現するのだといえば 話しはまた ややこしくなっていく。
わたしたちは《主体集団》であると はっきり宣言すべきである。わたしたちが完全な人間だと言おうとすることではないが 少なくとも自己の主観における真実として これが確信できたなら――なんなら欲望うる生産として―― 語り出すべきなのである。まちがったら なおせばよい。だがその場合もおそらく 出発の宣言の線で 努力しなおすであろう。
これでもまだ しめくくれない憾みがあるけれど 便宜上にしろもう終えるべきである。
(つづく→2008-01-15 - caguirofie080115)