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哲学いろいろ

#29

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§7 網野善彦中世再考 ?列島の地域と社会?》 a

中世再考 (講談社学術文庫)

中世再考 (講談社学術文庫)

網野善彦が《日本中世の自由について》研究発表するところは 《現代日本人の自由について》論考するものである。また その意味で 《中世再考 列島の地域と社会》という書名の目指すところであるということでなくてはならない。
副題の中の《社会》というのは どうぜん 《自由》を 《社会》的・歴史的な自由として議論するということであり 同じく他方で 《列島の地域》とことわるのは 一つの一般的な見方として 日本社会が 《東と西》とで いくらか この社会的な自由の追求にあたって 異なった歴史的な展開をたどって来ている・その視点も重要であるだろうことを意味する。
日本列島を 東と西とに二分したそれぞれの地域的な事情にかんしては 中世社会にかんがえみて 日本人が《自由》を模索するとき その歴史経験の上からは 西の地域では天皇 東の地域では将軍 これらが よかれ悪しかれ 一つの思考のあるいは生活の基軸となったであろうことに 求められている。
というのは 社会経験的な自由とは 思考にとって ことばの問題として 《公(おほやけ)》というのが やはり基軸となったであろうゆえだという一つの見方である。西国では 天皇が《公家》として 東国では将軍が《公方》として それぞれ人が《自由》を考えるときの《おほやけ》(つまり 普遍性のことである)なる基軸概念となっていたという捉え方である。じっさい それは 基軸概念であるだけではなく 経験事態であったのだと。
中世社会に住む日本人にとって 自由――必ずしも ここでは哲学的なそれではない――は 《公事》の実現であったというのが 一つの基本的な考え方であるから。または接近の仕方として そう考えると。社会的な・つまりは要するに日常生活の 自由を追求するにあたって おほやけごとの実現は 公家なる天皇ないしは公方なる将軍の 早くいうなら権威ないし権力 これをとおして 獲得されるという考え方である。
単純に言って 史実がそうであったろうと考えられるし 一方で 少なくともそういう形でだがそれだけの力量と実践とを むしろ自分たちの側から中世日本人は持ったとともに 他方で この社会生活のあり方が 中世から現代にいたるまで おおよそ変わっていないとするなら これらの力量と実践とは 何らかの限界を持つと見なければならないというものである。民主主義・法治社会のもとに まづ 武力が それとして保持されつつも棄てられたとするなら その現代の市民政府のもとに ただし 天皇の象徴的な権威ないし立法・司法・行政の権力が やはりおおむね 《公事》をになっていると見なければならない限りでは 《日本中世の自由について》考えられるところは 現代日本のそれに 少なからず 尾を引いているというものであるうんぬんということであるらしい。
そして ところが 中世日本においても その自由の実践から見て 必ずしも もはやすでに 武力や不条理の暴力が 支配していたとも考えられないと 網野は論じていく。
それでは 日本中世の社会経験的な自由はどのようであったか。



まづ中世日本人は 次のような人びとから成っていたとする。

  1. 公事の担当者である天皇ないし将軍
  • かれらが各地に派遣する領主
  • 各地の土着の支配層としての領主
  • 平民=農民
  • 平民=農民の共同体から自由な(そこから離れた)職人・芸能人
  • 賤民ないし非人

である。
(6)の非人は 犯罪者等で 自由ではなくその社会生活は 拘束されている。債務奴隷を含めて律令国家のもとで身分制によって つまり賤民という身分であることが 親から子へ無条件に受け継がれるのは 《自由》にかんする問題であった。いまでは このことは 過去である。
日本中世の自由は (4)の平民と(5)の職人にかかわる。この時代の限りで その自由は (1)の為政者の力に頼っている。(2)と(3)の領主層は (4)と(5)の民衆が (1)の為政者とのあいだに取り交わす公事たる自由に むしろ拘束される。そこで民衆の自由とは どうであったか。
各地の共同体に住む農民の自由とは 公事として 年貢を為政者におさめることによって・それをとおして 同じく公事として共同体の秩序を維持していくところの社会生活である。職人・芸能人たちは 自分たちの宗教的などの(また信念にかかわる)生活態度にもとづき この共同体から離れるのであって――その離れる自由があったと考えられる―― しかも その工芸の職能によって公事に仕えるという形では 大きく社会生活の中に生き そのような自由を形成していたというものである。
こうであるなら 武力による専制的な支配がこの社会を支えていたのではなく まさに日本中世の自由が 生活の思考形式として・またそれの社会慣習的な形態として おおむね 形成されていたというかたちである。少なくともこの一つの観点を打ち出すことも重要ではないかと。
農民にとって 直接の具体的な為政者は (2)および(3)の領主たちである。かれらに圧迫されるなら 抵抗するというとき それは この領主たちによって支配されるがゆえに社会生活の秩序を守っていたということを 意味しないのであって 自分たちが公事の自由をかたちづくって生活しているところへ 領主たちが入り込んで来ていたことを 意味し あくまで下からの・つまりは日常生活での自由が 先行しているとという見方をとりだす。

こうした古代・中世の平民の自由民としての特質は この人々が古代の首長 中世の領主などの暴力を含む《私的な》圧迫により 共同体成員権を失い 首長や領主などの私的な隷属民――奴隷 不自由民に転落する危険にさらされたときに 明確に表に現われる。平民たちは個々に あるいは共同体全体の力により 逃亡など 自らの権利を行使した消極的方法から 正面切った訴訟 集団的組織的な逃散 さらには《一揆》など実力を行使した手段でこれに抵抗し 自らの立ち場を守ろうとするのである。
この意味で平民の自由は まさしく《私的な隷属民になることを拒否する自由》 《私的な従属化に抵抗する自由》といってよかろう。
(p.30)

このような農民の共同体からさらに自由となった職能民たちは しかしながら やはり同じく公事のもとに 自由に 自分たちの《二次的な共同体》をつくるという。

多くの場合 職能によって結びつき 自立したこの共同体は 蟖次(らっし)による老若の階層を持つ《座》の形態をとるのがふつうであり 階層別にではあるが成員の平等を原則としている。ここには平民(農民)の共同体のあり方が投影されているが 職能民の場合 それがより自覚的な形で現われていることは間違いない。
(p.41)

《平民の共同体のあり方が投影されている》というのは つまりは公事の自由であって 行き着くところとしては確かに《それが天皇 将軍 仏・神に直属しているが故の特権 という形でなされている》(p.47)ことだ。これが 平民の場合に比べて《より自覚的な形で現われている》というのは 公事が何らかのかたちで宗教的な意味を持ち またその自覚が より顕著だということである。
農民の共同体 職能民の二次的な(自覚的な)共同体 これらは 中世日本人の主体的な 社会における自由の現われというわけである。
一揆》が それらの象徴的な例示となる。

神に対して 定められた作法――《神水を呑む》などの作法を行なうことによって誓約した一揆の成員は 主従 親子等々の関係をすべて断ち切った 自立した個人として平等であり そこで多数決によって決定されたことには 全員が従うことが義務づけられたのである。
これは 平民の自由をさらに一歩こえて その共同体から自覚的に自らを解き放った自由な人々によって生み出された組織であった。
(p.42)

網野の議論を紹介するしめくくりとして このような中世日本人の自由の限界については こうである。
(つづく→2008-01-16 - caguirofie080116)