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哲学いろいろ

#14

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

§3 R.ジラール著《世の初めから隠されていること》i

§3−5(つづき)

へらず口をたたくことを もう やめにして 最後にもう一文を引用しておこう。ジラールが言うのには・・・

福音書が《供犠》を問題にするとすれば それはきまって供犠を退けるために 供犠の効力(* 文化有力)をすべて否定するためです。イエスはパリサイ人の儀礼重視に 〔預言者〕ホゼアの反供犠的文章を対比させます。

私が望むのは あわれみであって 供犠ではない。
(ホゼアの書6:6)

とはどんな意味かを学びにいきなさい。
(マタイ9:13)

次のテクストは 単なる道徳上の教訓をはるかに上まわるものです。つまりそれは供犠の礼拝を退けているのですが また同時にその機能を いまでは過去のものとなったその機能を 明らかにしています。

だから 祭壇に供え物をささげようとするとき(*――タカマノハラ原理の信仰に 没頭しようとするとき――) そこで兄弟が自分に何かうらみをいだいていることを思い出したら(*――ムスヒ理論の領域で 自分にかかわって 問題が尾を引いていることに気づいたなら――) 供え物をそこに 祭壇の前に置き まづ兄弟のところに行って仲なおりをし それからもどってきて 供え物をささげよ。
(マタイ5:23−24)

ジラール世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)2・2・A)

したがって タカマノハラ祭壇が 出発点理論として 構図的にいちおう把握し重んじられなければならないとしても それは 供犠制度流の祭壇ではないのだから すでに そこで 祭壇の構図理論を投げ捨ててのように 経験思想のムスヒ領域(人間の社会関係)に あって むしろ供犠流の構造を持った思想とさえ おおいに 話し合いをすすめていく。このことは ジラールが言い出したことだと思われるのである。その話し合いで タカマノハラ出発点が 構図理論として 引き合いに出されることはありうるし  一般に 祭壇のことは そういうかたちで 触れられるものと考えられる。
一般的にいうところのアメノミナカヌシ信仰形態のもとにある思想が 他の人によって まちがいだちお思われる点について 指摘されることはあっても――なぜなら それも 信教・思想の自由である―― そのアメノミナカヌシ出発点〔をいだく人間の存在〕が 排除されることはない。われわれは こういう〔りんかくで把握される〕時代にあると思うのである。
もう一点付け加えるとするならば 排除が生じることは つまり排除(供犠流の迫害)じたいは 社会文化的な縮小構造として有力ではあっても もともと無効である。この意味で 供犠制度の機能はいまでは過去のものとなったことが 明らかにされている。そうして ここで最初の命題に戻って 自己犠牲の問題〔が生じる場合〕もある。つまり それに対しては あくまで わたしたちが主張してきたように この問題の派生してくるところの縮小構造の社会状態 これを《とおして》 われわれは 言論をたたかわせなければならない。そういう主観ごとの動態 社会関係的な過程が 展開される。だが この縮小構造《において》ないし《それに沿って》 無理を犯して 問題の解明や解決に 向かうことは 準備作業である。つまり 何も準備していないところの供犠文化そのものである。

   *

このわたしの議論では 出発点の部分 そのりんかく的な考察が 主題となっている。経験的なムスヒ理論の具体的な内容をとりあげるときは ともすればその――体系的であるべきかどうかを別として――全体的な把握については おるすになっているかも知れない。このことをお断わりしておかねばならない。

   *

なお もし横着な議論をつけ加えることがゆるされるなら ジラールが 精神分析学を取り容れた文化人類学を基調とする立ち場から 聖書を・だから結局それをとおして社会を 捉えようとしていることは その出発点が 経済学の行き方と 遠いものではない。このことは 結局 現代の経験科学は その一般的なタカマノハラ出発点において 経験を超えたところのアメノミナカヌシ原理を明示的に言うか言わないかを別として 具体内容としてのムスヒ人間理論が 広く経験合理の思考を基礎としているというただそれだけのことを物語るにすぎないが これをいまいちど確認しておく値打ちはある。
というのは その確認事項が ジラールの所説を参照することによって いくらか充実したものとなる。ジラールは タカマノハラ原理論の中で たしかにキリストなるアメノミナカヌシを立てるのであるが そのような《聖書の 非供犠的な読み》を主張することは とりもなおさず 人間推進力なるムスヒ理論として とうぜん 人間の 非教義的な読みをとなえることにほかならない。あるいは 供犠の文化構造――《暴力‐聖なるもの》の連動する循環過程としての神話有力による文化秩序――をもった社会の 非供犠的な読みであるにほかならなかった。ここで乱暴にだが マルクスを持ち出せば 搾取は 暴力にほかならない。搾取された労働者が 供犠文化の過程で 聖なるものへ揚げられていくその社会的な経験現実が ないとは言えないから。
つまり マルクスならマルクスも この暴力とは相い容れない愛のことを とうぜんのごとく 十分に 言っている。つまり出発点は そうなのである。ジラールにおいて暴力とは両立不可能な愛は マルクスにおいて搾取を揚棄する力に 単純に言って 対応しており そのマルクスにおける力が 何であるか必ずしも容易にわからないとしても――もしくは あくまで 人間のムスヒ推進力が 人間ないし個人の側としては 基調であるから もうそれを超えたような愛に対応するところの言うとすればアメノミナカヌシを 言わないし それにかかずらわないということかも知れない としても―― 供犠の文化秩序ないし搾取の経済秩序を基にしたいわゆる国民経済学のタカマノハラ出発点理論に対しては 正面から あたかも自己犠牲をためらわないと言ってのように 反対していくというそのかれの出発点からの踏み出しは 類型的に 同じものである。
つまり 当然のごとく 縮小構造を超えている。ただし 超えたところのものを 言わない。つまりあるいは それは 何もないと 言う。アメノミナカヌシなどないと言うとしても 縮小構造を超えることは――その言明されないタカマノハラ理論として―― まさに存在していて これは 動かない。
踏み出しにおいて さらに具体的な手法として あたかもマルクス経済学にあっては 自分たちも暴力を避けないという一面も出て来たかも知れない。出てくるようだ。そして ジラールにあっては 可能性として言おうとすると 愛という文字・観念をふりかざしてのその別の暴力が おそれられる。かれの文章には そのようなおそれがある。
経済過程を基礎とした社会の文化秩序に対して 基本的に 非供犠的な読み・またそこからの読みなおしを おこなっていくということは 共通しているように思われる。この点が これまでの議論で 浮き彫りになってきた。不案内な議論ではあるが。
(つづく→2008-01-01 - caguirofie080101)