caguirofie

哲学いろいろ

#74

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§14 補論 思想についての考え方 b

§14−2

よって 思想は 思想することであり 生きることである。そこにある制約は この《生きる》を思想としては ただことばで説明するものだという性格から来る。この制約が しかも 権利でもあれば義務でもあるというその意味は したがってむしろこの義務を果たすとき人間は自由であるというそのわけは 《ただ言葉で説明する・また説得する》そのことをとおして 基本的に社会的にわれわれは《生きる》というほとんど上のと同じ性格にある。それでもなお《ほとんど》という条件をつけなければならななかったのは 《ことば / 思想》と《生きる / 現実》とが 互いにそのままで 同じものではないからである。
この点をもう少し補って 次の第二原則へ入ろう。しかもおそらく 個人の思想は――とうぜんその人の主観のだが―― 一編の真実であって この《個人の思想の真実》とそして《現実》とが 確かに必ずしも同一ではないというとき それにもかかわらず 後者の《現実》は むしろここでは《事実》のことだと考えられる。したがって もしこの観点からすれば 《生きる / 現実》とは おおきな概念であって 《ことば / 思想 / 真実 / 主観》と《行為〔関係〕 / 事実 / 客観〕との綜合である。やや見方を変えて補おうと思っているのだが 前者の《主観 / ことば》が うそ・まちがいであることもあるのだから 《生きる / 現実》をその思想がすべて代理するとは言えないというやはり制約を持っている。
もっとも このことは やはりわれわれの第一原則を 無効とすることはないであろう。つまり 個人にとっての制約=自由という原則は 生きていく。上のちがった見方にかんして そう言えると思われる。というのは 思想が問答過程だったからであり このとき たとえ嘘の主観・思想が打ち出された場合にしても その嘘も 一つの問いであり 答えであり 大きく現実の思想過程の一環をになうのであり 嘘とわかって その虚偽を指摘するにせよ その時には分からずに取りあえず自己の思想で応答するにせよ それらの問答過程は 思想としての現実だからである。つまり生きることだからである。《主観の真実としてのことば》を 同じ次元で《生きる現実》と区別・分離させなくともよいと考えるのである。言いかえると たとえ《主観真実》が それと同じ次元にあると思われる《事実客観》とちがっていたとしても その思想具体は もう第一原則を満たしている。まづ満たしていると受け取るべきだと考える。これは――これも――制約であるが やはりじゅうぶん そのままでも 人間の自由の一環だと考えられる。
つまりこうである。嘘の主観を 事実の客観と照らしあわせることは 言うまでもなく需要不可欠であるが 思想というときには その嘘を指摘するにせよ 嘘なりに受け止めその相手の人の主観に答えていくにせよ それらの対応こそが 生きる現実だと見ること。主観真実は 生きる現実そのことではないが 事実客観も それだけで 生きる現実を結ぶものではない。事実客観とは つまり それを指摘しそれによって何かを訴えるところの実はやはり主観真実でもある。
思想は動態であって 静止しないということ。判断の基礎資料やそれを整理した理論は 静止するかも知れないから 停止しないものだということ。基礎事実の認識は 資料としての思想 理論は道具としての思想といったように いわゆる科学は 静態的な思想であると思われるが なおそれらを思想から区別することができる。その限りで自分はまちがっていないとしても まちがいや嘘の指摘・訂正ということに われわれの生きる現実があるのではない。まだ そうではない。その指摘と訂正に 思想の役割があると考えるのは 思想過程を静態的なものと捉えることである。またその前提条件に立ってのみのことである。しかし 停止した思想ばかりでなく 静止した思想も ほんとうのところ まだ 生きていない。
故意の嘘は 自殺であったが これに対応するため自分は静止し停止してしまい その嘘の告発におよぶのは じっさいこれwも 思想の自殺なのである。いわば――嘘じたいではなく――思想の自殺を そうだとすれば 告発すべきである。つまり それは 第一原則の放棄なのである。ゆえに そのとき わたしたちは まちがいを指摘する。指摘するかたちで応答する場合もある。


第一原則は 思想を個人から――しかも 自分から――出発させるべきと言うのである。あざむきたる故意の嘘は――要するに 嘘という行為は―― たとえ個人から出発するにしても それは 嘘の個人から出発している。自分でない自分から出発している。個人を離れる思想行為は 自殺である。
第二原則は 思想を個人から出発させることが 持続的な動態だというのである。たとえ 嘘ではなく 自己の主観真実を述べる思想であっても たとえば他者の嘘を告発することを――告発するために告発することを―― 自己の思想とすることといったような 静止し中止し中断する思想 これも同じく自殺である。――ここで考えるのは もうこの第二原則までであるが この第二原則は すこし第一原則とちがっていると思う。それは 嘘をもって欺こうとする思想の自殺に こんどは自分も 同じようにではないが おつきあいすること これも第一原則の放棄であることを明らかにする。この例でつづけていえば 第一原則を満たしたあとさらに自分の考えにまちがいがなくとも 相手の欺く思想の自殺が その自殺を取り消して ふたたび生きる現実へ復帰するまでは 自分も 少なくとも時間を止めてのように静止するといったことになるなら それは 思想動態ではない。
第一原則を満たしつつ 同じそれから離れる。譲ってものを言わなければならないとしたら それは よわい思想である。権利とか義務とかの側面に片寄ってしまう。または道徳の側面に片寄る。つまり それとして必要なのでもあろうが それだけだと 対応過程が 標本のようになる。標本として中止した思想になってしまう。
われわれは 必ずしも強い思想に立たなければならないわけではなく ふつうの問答過程をすすめていけばよい。弱い思想は あわれみの心が強いからか 自殺の思想におつきあいし そのような思想によって自分は他殺などされないよと言い張ることを考える。別種の自殺なのだ。冗談やふざけて言う場合など むろん別だが 思想の持つ制約は 人間の自由でもあったごとく たとえ 嘘や欺きの思想を打ち出してくるとしても その主観真実を持つことも自由なのだから――つまり思想の自殺も自由なのだから―― 大きく人間の思想現実の一環である。つまり第一原則を ほんとうにはどんな表現行為でも そのすべての場合において 満たしていると考えられることである。その上で 考えうるとしたら 第二の原則。すなわち 第一原則を満たす思想に対して 第一原則にのっとって対応すべきだという・いささか冗長な原則。冗長になっても いまこれにこだわるのは 次の事情による。
すべての思想行為は 個人からの発進という第一原則をじつは満たしていると考えられるそのとき なかで しかも 嘘の個人から出発しているのではないかと受け取った場合の問題である。つまり第一原則の放棄ではないかと受け取った場合の問題として 発生する。第二原則は 第一原則を 立体的なものにしたかたちである。
嘘に対して嘘であることを指摘するのは 一つの問答過程であるが 時間を止めてそれの告発におもむくは その相手と別の形態での第一原則の放棄という同じ自殺となる。嘘を指摘するのは 《わたし》であるが 嘘の指摘という行為は 《わたし》ではない。
それでは 欺きの思想という自殺を ほうっておくのか。しかもそれは 他人をも自殺にみちびこうと取りかかるそういう欺きの思想を 放っておくのか。
(つづく→2008-03-01 - caguirofie080301)