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哲学いろいろ

#73

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§14 補論 思想についての考え方 a

§14−1

思想は 問答の過程である。問題と答案との発展の過程。
思想は 個人個人の社会生活すなわち 現実そのことであるが これを言葉で表わすものである。思想が現実の生活をことばで明らかにしていくとき 一方で 問題が捉えられ これに対する答案を用意して 生活現実を明らかにし かつこれを――人間の考える限りで 新しく進んだものへと――発展させるわけである。他方で それが《ことばで》だという点において 抽象的なものであることをまぬかれない。思想による現実の認識また時に変革 これは それが《ことばによる》という点で《抽象的なものだ》という意味は 《新しい生活への進展》が 相対的なものであることを免れないということだ。《人間の考える限りで》生活現実をあたらしいものへと進めていくということだ。
だから たえず 問いと答え そしてさらに新しい問いとまたそれへの答えといったふうな歴史過程である。人間に学習効果があるとする限りで しかし思想は つねに合理的なものとなり 革新されてゆく。そして ひとりの人間に 生と死とにはさまれた有限の生活過程があるとするなら 社会全体の歴史またその意味での思想は その問答過程が 必ずしも直線的な 合理化としての革新過程で進むわけには行かないとも考えられる。おおきく捉えるなら 一個の人間に学習のつみかさねが有効であるとする限りで 社会も学習をおこない 思想を深める。あるいは高めることになるであろう。
われわれは この思想を問題とする。もしくは このような問答過程としての思想を しかもおのおの自己のそれとして 明らかにして捉え表現していく。ことばによる表現としては このような制約がある。
さらにまた この制約は もともと問答過程だという動態そのもののことであって 必ずしもそれによってわれわれが規制され制限を受け切るということではない。個々の思想も――つまり 一定の問題にかんする一定の〔かつ 個人個人の〕答えも―― 相対的なものだから この制約は とくべつやっかいなものでもない。ただし わざわざ制約というのは 思想をことばで表わすわけだから この言語行為は そのまま現実生活と 同じだとは言えないことを意味する。つまり 問題とその解決や革新が そのまま言語行為によって 実現されるというわけでもない。また 制約は それのみである。
わたしたちの歩みは おおむねこのようである。


これらの事柄から 基本的に言えることは 何か。また言わねばならないことは 何々か。
一つに 個人が個人として 自己の考えつまり思想を明らかにして表現すべきだということである。これを措いて ほかの方法では 現実が歩み出さない。たとえ沈黙する人がいたとしても それは ほかの人の考えに同意したということであり その限りで 自己の考えをも 結局 表わしたということである。もちろん 沈黙による考えの表明ということがあっても そういうかたちで いまは この《個人による思想の表現》という原則を離れない。あたりまえの話しなのだが 問答過程は つねに個人においておこなわれ 個人によって始められ この個人を措いて 歩み出さない。
思想は――そして歴史は―― 個人を主体的な単位とする。これにもとづくならば ことばによる表現のもつ制約は もはや制約ではなく むしろ思想ないし現実生活の 自由を意味する。自主という自由。わづかにその制約は なお個人やその思想が相対的であることを 依然として 保ち持っている。そして持っているが それは 思想ないしそれが捉えようとしているところの現実生活が 問答過程でしかないということを 明らかにするだけだ。つまりむしろ制約ゆえに 自主が保証されている。言論の自由が乏しいところでも 基本的にそうである。
だから 個人の動態。その意味での歴史。これが われわれの歩みであり 思想を考えるとき まづ このことが明らかになる。一個の人間を少しでも超えたことがら――たとえば 社会―― これには ほんとうのところ 歴史はない。社会は ほんとうのところ 思想や生活の主体ではない。一個の人間より以下のことがら――たとえば その他の生物や自然―― ここにも ほんとうのところ 歴史はない。そこにある歴史は われわれ人間の側に直面して また 受け容れられて あることになる。
人間を中心に据えるということを必ずしも 意味しないのであって 思想として 言葉による表現行為として わたしたちの歩みを考えるときには 個人としての人間 人間としての個人から すべては 言い出され 歩み出されるということだ。そうでなしにも 社会や自然宇宙は 動いているであろうが やはり人間しかも一個の人間いやさらに自己という人間を措いては その問答過程は 現実ではないのである。社会や自然は 現実の付属物だとさえ言っていい。そういう現実ではある。そして 主体的な現実である人間とその思想も 相対的なものだとは言っていた。
自然を愛し自然に成り代わって 思想を吐くということがあるかも知れない。あるいは個人の立ち場ではなくして社会全体の立ち場から 思想を打ち出すということもである。ところが それらはすべて やはり誰かれの一個の人間はなすことなのである。その人イコール自然だとか あるいはイコール社会全体だとか(あるいは 社会現象の一部ではあるとか) こういったことは ありえない。もしあったとしたら むしろそのほうが 人間中心主義となり また 自己中心主義となりかねない。――または まだ最終的な答えではなくして 現実の問題の基礎資料としての認識を まづ 提出するというものである。自然科学にしろ社会科学にしろ そういう場合はありうるかも知れない。その案件にかんするその時点での最終的な答えとして 自己の思想を打ち出すときには 一個の人間から歩み出しているのである。このほかに われわれの経験的な現実はありえない。
このような第一点における人間の――思想にかんしての――自由(自主・自発)は どこから見ても ふつうの現実であり もしくはその大前提である。もしこれを権利というなら 同時にそれは だれもが守るべき義務でさえある。と言わなければならない。われわれは つねに ここから踏み出しているし そうでしかない。これは 義務というなら あらためて そういう制約でもある。そしてこの制約が  人間の自由である。この制約が自由なのであり この制約を――つまり自由を―― 制約しようとすることは 人間の自殺である。思想を殺すことであり 死んだ思想である。
ただし上に言った基礎資料としての問題認識は 思想の判断材料であり 何らかの理論となっているなら 道具である。
他者の 人間としての制約=事由を 制約しようとするのだから ことは 他殺のように見えるけれども その他殺をおこなおうとする前には 自分の制約=自由を殺すのである。だからやはり 自殺である。
思想的に自殺する人が 他者の自殺をも促そうとするとき 人は しばしば 権利の概念を持ち出して これに対抗する。そのことは まちがいではないであろう。ただし 事の真相をまだよく見ていない。思想の自同律を確認し――つまり 人間の義務でもある相対的な自由を確認し――これを打ち出そうとしているのだから まちがいではないが その踏み出しは どこか弱いところがある。あるいは この世の社会文化の中でむしろ強いところがある。自同律(つまり 思想であることの・思想することの自同律)は 自同律そのものを打ち出すことによって 保持するのではなく それじたいが問答過程という動態なのだから そして自分も自殺し他者をも自殺にみちびこうというその相手は まちがった形でなりとも こんどは ひるがえって考えてみるに そういうふうにかれ自身の問いあるいは答えを打ち出して来ているのだから 人は それに対して――具体的に――答えてやるべきである。具体的にというのは それを一般化するなら 《あなたは思想過程の自由を みづから 放棄しようとしているのではないか。考え直してみたまえ》という主旨のことを 具体的にである。このように踏み出しているべきである。またそのような行動をとることが われわれの自由であり もし言うとすれば権利である。そこでは 権利が――権利も―― 動態している。
このような歩みが 大前提であり大原則である。問題と解答 つまり思想の具体過程は 変化するが おそらく この大原則は変わらない。思想の問題として ことばによる表現として おそらく ここまでは言えると思うし 言って おおかたの応答を待って もし同意されうるなら 実行し実現させているべきである。べきというのは 可能のことである。
これをおこなわないのは もし自殺ではないなら 無関心をよそおうことである。無関心そのものは これも 同じく自殺であると考えるのだが 一般には あいまいの美学であるとか 時間かせぎであるとかの手法に属する。けれども 時間を与えよ 結論を待ってくれというのとは そのあいまいの美学は ほとんどまったく異なる。義務=制約=自由をあいまいにするのは ほとんどその放棄であり 結局これも 自殺につながる。
この第一点=大前提=大原則が しばしば忘れられている。これは 踏み出し地点だから これを忘れることは 一歩も現実に踏み出していない。つまり歩んでいないということである。思想の第一原則をこのように考える。
(つづく→2008-02-29 - caguirofie080229)