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哲学いろいろ

#60

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 a

自死の日本史

自死の日本史

 
Voluntary Death in Japan

Voluntary Death in Japan

§13−1

さて――人間の論法で言って―― 同感人存在から出発する行為が われわれの有効な行為なのである。したがってこの限りで 《犠牲になることを引き受ける》こととか ここでモーリス・パンゲが論じるところの《意思的な死 mors voluntaria 》についても 事情は同じでなければならない。同感人存在から出発するということは その存在の維持・向上ということを含む。これに逆らうことは 無効である。これが まづわたしたちの基本的な見解である。
対話――同感動態――の場が 前章・前節の最後で 成立し これからその議論を始めようというときに ここでなおわたしたちは むしろ最初のほうのジラールの提言する問題に 戻っておこうと思う。具体的な事実行為の同感実践へは まだ進まないということが その理由のひとつである。同感動態の 場および対話じたいについても 一般論として基本原則のようなものをめぐって 考えておこうというのが もうひとつの理由であった。すなわち これの意味は 《民主的で自由な話し合い》という基本原則と ここで再び取り上げる《犠牲》の問題 これら両者の兼ね合いということになる。したがってさらにその心は 民主的で自由な対話を実践してくところに なお犠牲が起こりうるか この問いについて考えてみておこうというものです。
これは 一見すると すでに取り上げ その結論としてもはや必要でないと考えたところの《魔女狩りの防止薬》を編み出しておくといった議論になるかとも思います(§11−7〜§11−8)。魔女狩りは いけにえの問題であるから。ですから とうぜん ここでは 犠牲に陥らないための予防法を考えるというのではありません。しかも 対話交通の場が成立したときにも この対話の決裂を予想してのことだとも言わねばならないかも知れない。ですが これは 予想ではなく また従って予防ではなく――しかも 対話交通の場の成立は 一定の時点で成立したなら その以前と以後とで 竹を割ったように すっきりとは行かないということがあるとすれば このときじつは―― 同感動態への踏み出し(地点)の有効性の問題は つねに《現在》の問題となっている。言いかえると 場が成立したゆえに その現在として存続する過程として いけにえの問題 広くは昔の供犠制度の残存する社会構造の問題 これとつねに 相い対している。その意味で たたかっているという生活態度のあり方が―― 一部分にしろ大きな比重を占めて―― 生じているものと考えられる。これも 対話交通の一般論の守備範囲であるでしょう。
局面を新しくして なおいくらか 古い問題が顔をのぞかせる この点での考察である。対話交通の踏み出し地点における無効(あるいは 異感の状態)は 無効だという原則の応用になると思います。ただちにこの応用面での一原則を考えるなら このとき 無効のことは別として――つまり 無効は無効だといちど指摘するという対応をとった上で―― あとは 見解の相違は見解の相違だという一つの同感動態によって 〔それは動態なのだから〕この対話過程を 時の経過とともに 見守っていくということになるかと。


ほとんどすべて 主観的に わたし〔たち〕の側から話しを進めていますが その言い方を別にするなら この一主観は 相手の側も共有するものではないかと考えられる。またそれが 対話交通の場の成立ということであるはづなのです。そしておそらく この点でも いまの議論は 予防ではないと考えます。その過剰防衛ではないはづです。
このときじつは 次の問いがあらわれる。見解の相違〔という場の共有の一点・一形態〕では 同感動態にあるとき いくらかそれを煮つめた一論点として また同時に こんどはもう 人間的な経験論法ではなかなか結着のつかない問題点として 次の問いがあらわれる。

同感人存在は 同感人存在から出発して その同感人存在じしんを抹殺するという行為に 有効のうちに みちびかれ得るか。

これです。古い題目ですが 新しい局面にも出て来うるかも知れない。抹殺とか犠牲とかというと かびが生えているようなのですが しかし がまんするとか長いものに巻かれるとかの問題です。そして たとえば和を以って貴しと為すとか礼儀のこととかが それとして大きな比重を占めている社会の中では じつは日常茶飯事であると言ってもよい。これに対する取りあえずの一原則は 《ゆづる》のと《妥協する》のとでは ちがうということになろうかと考えます。
その昔の国ゆづり――だから 個人の生活態度が 社会形態的に もとからの市民とそして新たな公民層との 二階建てになったと考えられる―― これと いけにえの文化構造の中での妥協したり犠牲となったりすることとは 別だという一原則。国ゆづりしたがゆえに 聖なるものとして祀られ それゆえにこそ 供犠文化の社会構造が確立されていったと見るときにも すでに初めにゆづったのだから それによって 総じて 長いものに巻かれていたとしても じつは 妥協はありえないのです。犠牲にまつりあげられていくのは まつりあげる側の思想があるのであり しかも もともとゆづっているのだから まつりあげの思想に わざわざ再び妥協するというのは 起こっても 無効なのです。
すなわち ここでも 社会形態の構成(つまり 共同自治の制度的な側面)の点で 見解の相違はあるけれども 見解の相違という認識では 相互に同じ理解すなわち同感動態〔の場〕の過程が 保持され展開されてきている。いわゆる古代国家の段階から つづいて来ている。そしてその昔 まだ民主的でなかったいわゆる近代以前の社会では 時に その同感動態の場の成立じたいさえ 踏みにじられようとするときには 文字通りの犠牲となるたたかい(=日常生活として)もあったと考えられる。この古い問題点を いまの新しい局面で 考えておきたい。ただし いまでは 総論ではなく――もっぱらの公民として対話交通する第三者理論ではなく―― 個人=市民(ただし そこには 同感人出発点として公民の部分を持っている)としての当事者理論において。その限りでは まだ 一般論であります。


いまの問題点に対する著者パンゲの議論内容は――過程的なものとしても 結論としても―― なかなか要約して紹介すべきものだと思われず また その結論的な主張を取り上げて論じようとするなら それに対するいくつかの解釈例を示して この場合はこれこれ あの場合はあれそれといったかたちで 進まなければならないようになるかと思われる。これは 山口昌男の批評でいくらか やっているので そういった個々の論点は もう 取り上げないようにしたいと思います。これはまた いま問うた主題から来るものだと思います。こうなると 例によって抽象論にもまた入り パンゲのこの書物については部分的な取り上げ方になるかとも思うのですが こういった趣向で 一つの最後まで進んでおきたいと思う。


上に述べた第一の問い すなわち第二・第三を予定してのそれではなく 基本的な第一の問い これの意味するところを パンゲの議論に沿っても いくらかまづ わたしたちなりに 解きほぐすことができる。わたしたちなりにというのは ここで そうとう昔の人が出てくる。すなわち わたし自身が 思索と議論の上で アウグスティヌスに依拠しているので アウグスティヌス理解としてということにもなる。現代思想なのだから アウグスティヌスを取り上げるつもりはなかったのだけれど パンゲもじつは取り上げているので いまの交通整理には必要だと考える。
《第一の問い》――ジラールの問題 またさらにその前の梅原猛のいう《人間存在のパラドックス》の問い―― これは あらためて焦点としては われわれ人間が 人間存在という出発点から自己の生(社会生活)を推進していくとき その存在じたいを死にみちびく行為を 有効に取りうるかであります。ちなみに梅原の論旨は むしろ明解にすでに解答が出ている。それは 否であり あとは動植物や自然環境に対して どういう生活態度(哲学)をとるかということに 焦点があてられて行っている。われわれは 他方でジラールが 《供犠文化の構造にのっとって――それに妥協して―― 犠牲になるのではない。しかも その大前提の上でなら 犠牲をためらうな》と言っているとき おそらく手放しでこれにみちびかれては行かなかった。おそらくこの点でまづ言えることは 単純にわれわれは 梅原とジラールとの中間に位置するであろう。その上で片や 自然に対する態度の採り方も 視野に入ってくるであろうし 片や現在過程としての犠牲のことも――またはその昔の譲歩とその持続と新展開のことも―― 同じくであるだろう。
一般的に考えてもこの《第一の問い》に対する基本的な解答を われわれ人間は 二点 持っているとまづ 言っていることができる。すなわち人間的な論法では 否と然りとの二点がある。《否の第一点》というのは 

存在から出発してこそ有効なのだから 存在を亡きものにする出発は もう有効なものではありえない。

である。《諾の第二点》は 

出発点の存在(同感人)が たとえ自己の死をえらんだとしても それは 出発点からの発進であるからには それとして 有効でありうる。

《諾を発する第二解答》について先に見よう。なお忘れないうちに言っておきますが パンゲは《自死の日本史 La mort volontaire au Japon 》というように 日本では少なくとも大戦以前まで この自死への諾の考え方が ある程度一般的に いや相当程度一般的に 見られたというものである。あたかもこのように諾の第二解答にいったん傾いてのごとく

アウグスティヌスが《意志的な死》を容認するのは 神が人の心に直接それを行なうように命じる場合に限られていた――疑いもなく サムソンの場合はこれに当たる と彼は言う。その場合には自殺することがすなわち神の意志に従うことを意味している というわけだ。
(第八章 捨身)

パンゲはこのように――梅原が縄文時代へ また住谷一彦は歴史時代以前まで そうするように―― 日本史をさかのぼりつつ 向こうの世界(西洋)でも たとえば四・五世紀まで さかのぼる。《神》を持ち出すのは 明らかに類型としてタカマノハラ理論であって しかしこれが パラノイアやスキゾ・シャーマニスムの神話症候群とは一線を画すというそのわけは 一つに――やはり人間の論法に立ってだが―― 《信教・良心の自由》からして たとえ説明理論に《神》を持ち出していても その信仰する良心に内政干渉しないのだし(接触・対話までをおこなうのだし) じっさいに言って 《神が人の心に直接それを行なうように命じる》ということは 他者からは分からないのだという前提に立っているからである。アウグスティヌス(その人・その存在)を擁護して パンゲの議論をこう受け取ったとして 進めなければならない。
ということは ここですでに 一つの結論内容にも達している。言いかえると この《第二答の諾》は 《第一答の否》と けっして矛盾しないということなのである。いくらか飛躍しても おそらくそうなるだろう。問題はあくまで 現在(現代) それも特には日本人〔におけるこの古い問題の新しい局面における展開〕だということであります。だがもう少し 古い議論を パンゲとともに われわれも 蒸し返してでも これを吟味しなければならない。
まづ先走って言えることは その人にあって――すなわち当事者にあって―― 諾は否のもとに おこなわれる。つまり 同感人推進力の発進という原則を曲げずに 犠牲や意志的な死の諾も その否と矛盾することなく 有効でありうるという場合 これの一説明を持った。こんな説明など要らないと見る向きには もう飛ばしていってもらってよいと考えるが 《供犠構造を無効だと言いつづけていくだけではなく 犠牲一般をも 古いものとしよう》(§11−6の終わりの箇所)と言った手前 考えをつづることにする。あるいはもう少し積極的にもなって 《二重出発点のシャーマニスムを生け捕りにしよう――つまりこれが 自死への否と諾とを 混同させるのだから。もしくは 逆に はっきり分離させてしまうのだから 生け捕りにしよう――》(§7の終わりにかけて)とも言ったのだから この実践は 新しい局面でも その現在過程にかかわると思われる。つまりジラールの命題(《犠牲を引き受けよ》)が出ることじたいは まだ古いものになっていない。
なお《神》による説明は いまでは一般に古い。棄て去るべきだと言うのではなく 神を持ち出すと 相手が神を信じていてもいなくても 相手への内政干渉になるところまで達しうるから。神学として 練られた場合など それはそれとして 別であろうが。
(つづく→2008-02-16 - caguirofie080216)